象のいる公園

@jjjumarujjj

第1話


 マンションを出て直ぐに象のいる公園があった。

 その象は、大人でも上に乗るにはちょっと大変なくらい背丈があって、この辺りで一際目を引く存在だった。私はよくその公園に友達を呼んで長話するのが好きだった。桜が散って間もなく、深緑がどんどんと濃い緑になっていく五月の終わりだった。象はちょうどブランコに座った時に水道を挟んで十メートルくらい向こうに見える。私はブランコを漕ぐこともなく、ただぼけっと、象を見ながら、友達を待っていた。

 

 私は二年付き合っていた彼氏と別れたばかりで、心の整理が付かない期間がずっと続いていた。本を読んでも、ドラマを見ても、男の人の台詞がどれもこれも別れた彼と重なって、私の頭の中を困惑させていた。彼のことを考えないようにしても、その癖が私について回った。私は彼を想う度に、彼に精神的にとても依存していたことを知って、そのことが酷く嫌だった。彼自体は嫌いになれなかったけれど、彼との間に溢れるその感覚が嫌いだった。でもその複雑な感情の凸凹を一つ一つ整理していくことで、段々と彼を忘れられたような、そんな気がしていた。

 

 象の向こうから友達が来るのが見えた。

 美沙は高校生の時からの友人だ。私は彼女を敬愛して、あえて友人と呼ぶ。一人の知人を呼ぶ時、友達と言うとなんだか感覚的に群れていて、雑多な感じがして嫌なのだ。それに友達と呼ぶ程、私には仲の良い人がいなかった。

 

 私は好きな物こそ少ないが、嫌いなものがとても多い。それは野菜だったら、ピーマン、カボチャ、ブロッコリー、セロリと上げればきりがないくらい。何かをすることも嫌いだし、嫌いな場所や嫌いなタイプの人ばかりと嫌いな物に対して敏感で、そうあることでとても生き辛さを感じてた。そんな私の嫌いなものの話を美沙はいつでも、うんうん。わかると聞いてくれた。場合にもよるが、そのことは度々私の心を救ってくれた。

 

 美沙はむっちりしていて、熟れた桃のように色っぽい。顔はペルシャ猫に似ていて、性格は優しいけど、ちょっとバカっぽい。私が肉食系の男子だったら超絶好みの女子だろう。あいにく、DJをやってるダサい彼氏がいるから、私は冗談でも手を出さなかった。女の私がそう思うくらい可愛いのだ。少なくとも私には無い愛嬌と慎ましさがあった。

 

「ごめん。待ったー?」

 

「うん。待ちすぎて帰ろうかと思った」

 

「そんな。冷たいなー。家直ぐそこじゃん」

 

「そうなんだけどね」

 

「また、痩せたんじゃない?」


「うん。食べてないから」

 

「え?ちょっと大丈夫?何か食べに行く?」

 

「仕事変えてから、食欲なくてさ」

 

「あ、そうだ。ガールズバーだっけ?」

 

「うん。受かったからやってる」

 

「少しは慣れた?」

 

「んー。それなりに。美沙は仕事どうなの?」

 

「別に何も変わらないよ」

 

「相変わらず奥様方に化粧品売り捌いてるの?」

 

「その言い方。確かに顧客の年齢層は高いけどね」

 

「私も歳とったら美沙のとこの化粧品にしようかな?」

 

「売り込みは出来るけど、おすすめはしないよ」

 

 そう言って二人して笑った。

 象のいる公園は人がいることもあったけど、その日は私と美沙だけでとても静かだった。公園の広さは大体五十メートル四方くらいで、砂場があって、遊具は滑り台とブランコがあるだけで、あとは何の目的なのか、よくわからない象がいるだけだった。でも、この公園の魅力は何と言ってもその象だった。この公園を作った人も絶対この象が置きたかったに違いないと、私は思う。前にその話を美沙にしたら、美沙は公園を作るのは個人じゃないんだから、そんなことはないと否定されたが、この公園は誰が見てもその象の為にある公園のように思えたのだ。

 

「彼とはどう?」

 

「それがね。進展あったの」

 

「は?今更、何もないでしょ。子供でも出来たの?」

 

「違うよ。早とちりね。この間会った時、近々一緒に住もうって言う話になったの。私嬉しくて、泣いちゃった」

 

「何だ。そんなことか」

 

「そんなことかって、もう。同棲だよ。同棲。私初めてだから、何から考えていいのかわからなくて、桐花に相談しようと思ってたんだから」

 

「そう言われても、私だって、経験ないからな」

 

「そう言わずに、何かアドバイス頂戴よ。どうすればいいのか一緒に考えてよー」

 

「これを機に断捨離したら?美沙、服ばっか持ってるじゃん。嫌われるよ?」

 

「いー。何て事言うのさ。私の生き甲斐取らないでよ」

 

「いいよなぁ、美沙はお金かけられる趣味があって、私は煙草と酒だけだもんな。こんなだからモテないのかな?」

 

「桐花はモテるよ」

 

「は?誰に?」

 

「この間クラブに来てくれたじゃん。桐花が帰ったあと男友達みんな桐花の話ばっかりしてたよ。段々下ネタになるから、聞いてられなかったけど」

 

「男なんて大概そうだよ」

 

「あ、そうやって、話逸らす。誰か紹介しようか?」

 

「嫌だDJやってる奴なんか、何奴も此奴も目玉焼き一つマトモに焼けなそうなやつばっかじゃん」

 

「何それ。桐花ってやっぱ変だよね。そーゆーとこ。誰に似たの?」

 

「私のこの性格はお婆ちゃん譲りかな。名前だって一字貰ってるし」

 

「へーそうなんだ。お婆ちゃん何て名前?」

 

「桐世。前に言わなかったっけ?」

 

「ああ、聞いたかも。お婆ちゃん今も元気?」

 

「年金暮らしで楽しそうにやってるよ」

 

 話がつまらない方向になってお互いに黙ってしまっても私と美沙は無言の付き合いが上手だった。話していない時間も苦にならない関係だから長く友人としていられる気がしていた。私は内面ではおっとりと世界を捉えて考えているつもりが、口を突いて出てくる言葉はいつも粗悪なものだった。そう言う自分も嫌いだったし、いつも考える度に正したいとは思っていた。

 

 お互いに高校を出て、美沙は大学に行って、私は美沙より一足先に社会人になって、それでもこの公園でよく話をしていた。もっとお洒落なカフェとか特別な場所で話せばいいように見えるかもしれないけど、この象のいる公園が私達にとってはとても心地のいい場所だった。二人の住む場所のちょうど真ん中だったし、お金もかからない最高の場所だった。

 

「引っ越すってことはこの公園から遠くなっちゃうの?」

 

「どしたの急にそんなに悲しそうな顔して、隣の駅だからそんなには変わらないよ?」

 

「そっか。それならいいんだ」

 

 私は確かめるように思い付きだけで美沙にそう聞いてしまった。美沙の彼氏に彼女を取られるような気がして寂しかったのだ。私の前から忽然と消えた私の元彼は、今頃私のことを考えるだろうか。あんなに打ち解けて、身も心も許した人が、たったの二三言の台詞だけで、宇宙の果てまで消えていってしまったようで私は途方に暮れていた。別れて直ぐ、美沙に彼のことを話したけれど、気持ちを考えにする事が苦手で、言葉にすると余りにも陳腐で、全く私の言いたいことは伝わらなかった。美沙は背中を撫でるように、優しく私を励ましてくれていたけれど、彼女に話すことでは嵐の海みたいな私の気持ちは紛れそうもなかった。

 

 象のいる公園の辺り一体はマンションばかりが立ち並ぶコンクリートの荒野のような土地だった。通りを歩いても植物があるのは殆どその公園だけで、その場所だけが都会のオアシスみたいだったこともその公園の魅力の一つだった。私の住んでる部屋にはベランダが無いから、ここには煙草一本喫う為だけに来ても十分価値のあることだった。

 

 男の子を連れたお母さんが公園に来たから私はブランコを譲ろうと立ち上がった。美沙も私についてベンチまで歩いた。ベンチに座ると象のお尻の方が見えた。何とも言えないその設計の悪さが私は好きだった。私の数少ない好きなものだった。私はにんまりとして、煙草を咥えて一服した。

 

「また吸ってるの?」

 

「うん。彼氏と別れてから増えた」

 

「口寂しいんだ?」

 

「そうかも、でも煙草とキスは関係なくない?」

 

「関係ないかもね。ストレスで喫いたくなるのかな?」

 

「うん。ストレスだな、絶対」

 

 そう言いながらも喫う煙草はそんなに好きじゃなかった。寧ろどちらかと言うと嫌いだった。元々彼に影響されて吸い始めた煙草だったけれど、彼がいなくなって、残ったのはその寂しい煙だけだった。私を依存させるニコチンにも嫌気がしていたし、ヤニで歯が汚れるのも嫌いだった。衣類に匂いがつくし、社会でも煙たがられる。殆ど税金だし、煙草なんて、クソだと思いながらも私は喫っていた。でも象のいる公園が好きだったから、ポイ捨てとかせずに、ちゃんと携帯灰皿を使っていた。

 

「引っ越ししなきゃなんだけど、欲しい服があるんだよね。いつも買ってるブランドのなんだけど、もう秋コレクションが出たの」

 

「はや!ファッション業界ってそんな気が早いのか。まだ夏も来てないのに」

 

「それがちょー可愛いの、見て!」

 

 iPhoneに表示されたブランドのページを美沙が指差す。白ロリータのドレスみたいな服で確かに可愛いけど、私は絶対に着ないだろうと思った。美沙はこう言う格好が似合うからいい。

 

「いいじゃん、結婚祝いに買ってあげるよ」

 

「まだ結婚してない!」

 

「果たして、美沙が同棲続くかなぁ?あんた趣味とやってることチグハグだからな」

 

「私もそれは思うけど、でも私従順だから、桐花みたいに揉め事起こさないもん」

 

「あんたはおりこーさんだもんね」

 

 さっきまで私達が座っていたブランコで男の子が楽しそうに揺れていた。お母さんは寄り添うように後ろに立っていた。平和すぎる東京の午前だった。美沙といろいろ会話しているうちに多少小腹が空いたけれど、私はそれを言い出せずにいた。私が話したくて呼んだのだけど、話し出すと美沙は長いのだ。永遠と何でもない話をつらつらと話す。私は話の内容は関係なく、どんな話をしていても、この象のいる公園にいることが好きだった。余計なことを忘れられるし、気持ちが穏やかになるからだった。

 

「あ、もうこんな時間だ。ごめーん。彼とお昼食べる約束してるから桐花またね」

 

「あ、うん。そっか。じゃあまた連絡するね。ありがとう」

 

 美沙は、私には絶対似合わないふわふわのスカートを翻して公園の向こうへ消えて行った。私はその姿を見ながらも、ぽけーっとしていた。何もやる気が起きない、と言うよりは此処にこうしていることが、宇宙の回転に合っているような、やんわりとした定めを感じてならなかった。それは、男の子が滑り台の上で辺りを見回す時間の長さにも同じような共通性を感じた。大袈裟なものではなくて、美沙の足取りにもその不思議な抑揚があった。さっきまで私の目の前にいたのに、今は此処にいない不思議さ。当然なんだけど、男の子は滑り台を滑り降りた。

 

 そう言う意味では、彼が私の前から消えた意味を、私は重々理解できる。私と彼の間に流れるエネルギーが必要なだけ交換し合って、それが世界の一部として新しくなったことを彼も肌で感じ取っていたのだろう。それは進化の過程で必要なことなのかも知れないと私は思った。当然別れてすぐは、そんな風に理屈で考えられなかったのだけれど、今私に与えられたこの時間の流れと言うものが、彼にも関係しているように、私は思えてならなかった。

 

 滑り台に飽きた男の子が砂場で遊び始めたのを、私は時間の経過と共に、母親と同じように見守っていた。寧ろ、男の子の母親すらも私は包み込むような眼差しで見守っていた。美沙に会っても、私の心情の欠片も話せなかったなと、今頃になって思った。毎回、相談しようと思って呼び出すのだけど、結局は半分も伝えることが出来ないのだ。そう言う意味では、彼女とは、そんなに性格が合わないのかも知れない。うーん。いや、もっと適切な言葉がある気がする。

 

 私が考えているうちに男の子も母親もいつの間にかいなくなっていた。象のいる公園と私だけがこの世界にあるみたいな、誰にも訪れない幸福が私にやってきた気がした。そうだ。この公園にいると、不思議とその瞬間がやってくる。デジャヴとも似た、空間全体が私の所有物のような幸福感。風に吹かれて、私の身体の輪郭がそこに溶けるような、私も自然の一部なんだと、そう思わせてくれる。象のいる公園のその魅力を再確認したところで、私は立ち上がってマンションに帰ることにした。

 

 

 マンションに戻って私は自分の部屋でパスタを茹でた。冷蔵庫に何もなかったから、にんにくだけのパスタだったけど、小腹は満たされた。私の住んでる部屋は八畳くらいで、お風呂とトイレは別々、南の向きだから一日を通して日辺りが良かった。偶然なんだけどそれだけで人生少し得をしてる気がしていた。

 

 夕方からの仕事に備えて、私は軽く仮眠を取った。彼と別れてから化粧も余りしなくなったし、部屋着でいることが多かった。鏡を見ても、顔付きは何だか十代の頃と比べて窶れた気がする。きっと泣き晴らした分だけ私は大人になったのだ。そう思いたかった。

 

 ガールズバーの同僚に私は一切気を許していなかった。表面的には笑顔を作って仲良くやっていたけれど、内心ではしっかりと距離を取っていた。歳の差はそんなになかったけれど性格が合わない子ばっかりで、本当に続くのかは私にもよくわからなかった。でも、私にとって、プライベートを共有しない相手と言うのは事務的である意味気兼ねしない気楽さもあった。世の中全てこう言う関係性でも私はきっとやっていけるだろうと思った。そう言う訳で仕事は私にとっては殆ど人間観察の場だった。流れていくどうでもいい客の話は、つまらない映画を観ているのと同じくらい情報として頭に入れなくてよかった。と言うか上部だけの付き合いの社会全体はこうして何となく成り立っているような気もする。

 

 客の一人に水帆さんと言う人がいた。サーファーで背の高い色黒の人。それくらいしか素性を知らなかったけど、私のタイプだった。左手の中指にピースマークの刺青が入っていて、それが多分、自分で彫ったものらしく不細工なのだけど、それが彼の男らしさでもあった。それに付け加え、匂いの特殊な赤と金色の高級感のあるデザインの箱の煙草を吸っていた。彼が来る日を私は勝手に"水帆デー"と心の中で呼んでいた。お店に来ても実際は大して口を利く訳じゃないのに私はなんだか、一人で舞い上がっていた。ちょっとした私の楽しみだったのだ。

 

 その日、私が出勤して七時を過ぎる頃に水帆さんが来てカウンターに座った。客は他に三四組みくらいで彼と話すには丁度いい混み具合だと私は思い上機嫌になった。水帆さんはジンライムを頼んでから、いつもの煙草に火を付けた。私はそれだけで彼が同じ空間にいることを凄く意識してしまって、ドギマギしていまい心拍数が上がった。


「桐花ちゃん痩せた?」

 

「え、そんなことないです。冗談やめてください」

 

「そーかなぁ、俺には痩せたように見えるけどな」

 

「それより水帆さん来るの久しぶりですね。忙しかったんですか?」

 

「あーなんか、俺の相方がハワイでサーフィンを本格的にやらないかって言うから、それに備えていろいろ手続きしてたんだよね」

 

「そうなんですか?すごいですね」


「うん。まぁまだちゃんとした日取り確定してないし、明確なことは分かってないんだけど」

 

「じゃあハワイ行くんですか?」

 

「まぁそう言うことになるね。俺も初めてだから、知らないことばっかりだけど」

 

「へーいいですね、日取り決まったら教えてください」

 

「七月にはもう日本にいないと思うよ。すれ違いだったらごめん」

 

「あ、全然大丈夫です。仕事とかどうするんですか?」

 

「今やってる仕事はやめるね。本格的にやってサーフィンが仕事になれば一番だけど、プロ目指してるやつは向こうにだってザラにいるから、俺は副業も考えてるけど、今のところ見通しはついてないかな」

 

「いろいろ大変ですね。でも楽しそう」

 

 心の中では楽しんでるのに、素っ気ない返答ばかりしているような気がしてしまって、それっきり会話が続かなかった。水帆さんにばかり気を取られていたけれど、仕事と言うことを忘れずに私は周りにも気を使いながら接客した。それでも水帆さんがいると、仕事なのにプライベートでいるようなそんな錯覚がした。普段だったら絶対に接点のないような人だったから、私には水帆さんと話す時間は特別なものだった。

 

「桐花ちゃん。ジンライムをもう一杯お願い」

 

「あ、はい。ありがとうございます」

 

 勤めてまだ三か月も経っていなかったけれど、簡単なカクテルなら自分で作ってお客さんに提供できるようになっていた。ジンベースのお酒は自分でも嫌いじゃなかったから、家で作って飲んでいた。そのぶん覚えも早かった。

 

 それから入れ替わり立ち代わり客が出入りして慌ただしくなったので私は水帆さんとゆっくり話すことができなかった。本当に私にとって必要最低限の情報を仕入れた、と言う気がするくらいだった。久しぶりに会っても水帆さんの魅力が変わらなくて安心した。まだ会ったのも三回くらいなのに、私の心は大きく動かされていた。これが恋に発展する予感すらふつふつとしていたけれど、それに向き合うにはまだ早い気がした。その前に私はちゃんと元彼を忘れないと、きっと前進できない。沢山書いた手紙を自分でビリビリに破くみたいな辛さを私は元彼に理解して貰おうとは思わないけれど、その破いた手紙の全てを送りつけてやりたかった。そうして、すっきり私は次に行きたかった。彼と話した大事だと思えたことが偽物の宝石だったなんて、馬鹿馬鹿しくてもう思い出したくないのだ。

 

 

 仕事を終えて私は二十四間やっているスーパーで日用品と食材を買ってから家に帰った。その諸々を片付けてから煙草が吸いたくなったので私は象のいる公園へ行くことにした。


 通りにある街灯のおかげで象のいる公園は暗過ぎず私にとって心地のよい明るさだった。いつも通り二席あるブランコの右側に座って私は象を一瞥してから煙草に火を付け一吸いしてからもう一度象をまじまじと見た。

 

 夜の公園と象と私。

 

 いつも一緒だから、これはもう恋みたいなものだった。私は人知れずその象に恋をしていた。ただ会ってこうしていられるだけで幸せだった。象は何も語ったりしないのに、私は象が自分の全てを受け入れてくれているように感じていた。ただのコンクリートの象の形をした塊に、そんな事が出来る訳はなかったのだけれど、この宇宙の広さから言ったら、私と象の関係性はこの世の何よりも明確で、私にとって家族よりも近しいものだった。それに下手な神仏よりも親しみを感じていた。

 

 私は象を見ているうちに象の足元に空き缶が転がっているのを見つけた。それを見て私は「もう、誰だよ。こんなの捨てたの、、」と言いながら近づいて、その空き缶を拾った。象は近くで見るとより愛しく思えた。私はそこにしゃがんで象の全体を見た。無駄な曲線がなく本当に美しかった。ふと、柑橘類のスウィーティーみたいな甘い匂いがした。私は鼻をひくひくさせて匂いの元を探った。拾ったスポーツドリンクの空き缶からする匂いかと思ったけれど、どうやら違うらしい。そして私は象のお腹の下に植物が生えていることに気がついた。はっとして、目を凝らす。辺りは薄暗かったけれど、私はそれが大麻だとすぐにわかった。大変なものを見つけたのにも関わらず、私の心は落ち着いていた。

 

「わぁ」

 

 神秘的で私は思わず声を上げてしまった。まだ十センチくらいの背丈で一見して大麻だとはわからないくらいだった。何故私が直ぐにわかったかと言うと、元彼に理由があった。元彼はレゲエが大好きでラスタファリの思想を自分に流れている血のように愛していた。そんな訳で彼にはレゲエのルーツやら、同時に大麻信仰やらの蘊蓄を、飽き飽きとさせられるまで聞かされていた。それに付け加え、彼の部屋にはレゲエ関連の本が沢山あって、嫌でも大麻のシルエットが私の頭には焼き付いていた。

 

 私は一旦ブランコに戻って何もなかったようにそこに座った。最初見た時は何ともなかったけれど、だんだんとどきどきした。胸の高鳴りと共に、私にとって象のいる公園が、唯の憩いの場所ではなくなってしまったような感覚に襲われた。どうしようと言う思いが強かった。普通の人だったら冷静に警察へ届け出するのだろうか。私は長い間考えた。私が大麻がドラックとして効能があることを知らない訳はなかった。もちろん吸った事はなかったけれど、大麻に底知れない興味が私にはあった。だからこそ私は当然、偽善者のようにはいられなかった。自分を偽ってでもこのことを隠したくなった。私の中に突如として出来上がった壁は、大都会の真ん中から象のいる公園と私だけを残して、そこだけ隔離された空間のように分け隔てた。梅津かずおさんの漫画の漂流教室を読んだことのない人にはちょっと伝えずらいのだけれど、学校だけが日常から異世界へ行ってしまったあの感じが、今の私と象のいる公園にはあった。長いこと考え過ぎるあまり、私のちっぽけな脳は停止した。そうしてとりあえず何も見なかったことにして私は空き缶だけ手に持ったままマンションへ戻った。

 

 その後、冷蔵庫の奥にあった残り三本のビールを私は一時間もしないうちに全部飲み干して、さっき拾った空き缶と同じ空き缶のゴミにした。そのせいで私は心地よく酔っ払い、雲の上を歩いて散歩するような気分になっていた。動揺して、誰かに電話をかけたかったけれど、今誰かと話したら思いっきり喋ってしまいそうな自分がいたので、心の中でぐっと我慢した。酔い心地のまま私はソファーの上に寝転がってバーボンのボトルを手に取り後のラベルを何となく見ていた。ふと、時計の方に目をやるともうすぐ二十四時だった。見つけた時の高揚感はなくなっていたけれど、まだ冷静になれない自分がいた。夜が深まるに連れて、何だか罪悪感に駆られた。美沙から二十三の誕生日に貰ったバーボン。特別な時が来たら開けて呑もうと思っていたけれど、まさかこんな事が私に訪れるとは思わなかった。まだ、私の手にあの草を所有した訳ではなかったけれど、象のいる公園の人気とその出入りを知っている私にとっては、これは私だけの秘密と言う確信があった。

 

 時計の針が丁度、真上を過ぎる頃に私は思い切ってバーボンを開けた。ロックグラスに氷を入れて、なみなみと注ぎ指で軽く二三回回してから、そっと匂いを嗅いでみた。鼻から抜ける香りだけで私はその恍惚感に溺れそうになった。そして、一口、舌を濡らすように飲んでみた。予想以上の辛口に私は驚いた。きっと頭の中を巡るドラックへの妄想がよりバーボンの味を強烈に感じさせたのだと思う。私は自分が思っているよりも単純で先入観だけでも充分入り込んでしまえるタチだった。私は二三口飲むうちに煙草が吸いたくなった。それにもう一度、さっき見た光景が本当にあったのか確かめに行きたかった。私はライターと煙草をポケットに入れて、ロックグラス片手に部屋を出た。

 

 階段を降りるうちに私は四角いだけのこのマンションが嫌いだな、と思った。どうして住んでいるのか問われても、成り行きでそうなったとしか答えられないけど、酔っ払っているからか、ここにいることがすごく不幸なことのように思えてならなかった。束の間の思考だったけれど私は泥の中にいるような重苦しさを感じた。でも象のいる公園についたらすっきりと気持ちが晴れた。象が変わらずにそこにいてくれて私は心から安心した。不動のものからこんなにも幸せを感じられるのは不思議なことだった。いつものようにブランコに座ってから私は持ってきたバーボンを一気に飲み干した。ブランコからは象の下にある例のものは見えなかった。私は近づいて見るのがなんだか急に怖くなってしまった。知らないほうが私の心にとって平安だったのかもしれない。レゲエ好きの元彼と別れたこのタイミングで何故?私は神様に試されてる気しかしなかった。でも、試されてると言っても何処の神様だろう。キリスト、ブッダ、アッラー?でも私には何の因縁もない。ラスタファリの神様っていったらジャーだっけ?そのくらいしか思いつかないけど、、、

 

 私は煙草を咥えてそっと火を付けた。「ふふぁ」と声を出すと公園中に私の声が広がった。煙草を喫う時、私は嫌でも彼を思い出した。私と別れる理由を彼は結局のところ有耶無耶にして、言葉ではちゃんと伝えてくれなかった。こんな恋の終わりがあるなんて、と私は初めて経験するそのことに、当たり前のようにショックを受けてしまった。こんな言い方はしたくないけれど、捨て猫の気持ちがわかったような気がした。もし大麻を見つけたのが元彼と一緒だったらきっと今とは全然違う気持ちなのだろう。一人で味う煙草は寂しさをより強めた。手を伸ばす先にいた彼の姿を私はもう余り思い出せなくなっていた。煙草が半分くらいになって、私は漠然と水帆さんのことを考えていた。それはもう無意識に近いくらい普通に。そのことで、あぁもう私の気持ちは水帆さんの方に移り変わっているんだと思った。沈んで行く船にいつまでも乗ってはいられない。新しい船で新しい航海をしないと。でも、海外へ行ってしまう水帆さんと本当に上手くいくだろうか。気軽に話しかけてはくれるけど、まだ一切脈を感じない。煙草を消してから、私は思いを振り払いたくなって、ロックグラスを地べたに置いてから、思いっきりブランコを漕いだ。視界の先で象が上下にゆれる。変わらない筈のものがじわじわと形を変えていってしまう。滲み出た涙が溢れてしまうように。私がおこした風が世界に吹き始める。嬉しいようで不安だった。

 

 

 目を覚ますと二時過ぎだった。ロックグラスがベッドに転がっていたから、昨晩は思ったより呑んでしまったのだろう。その割には頭痛がしていなくてよかったと思った。なんか、遊園地で着ぐるみのキャラクター二匹とメリーゴーランドに乗ってはしゃく夢を見たな。私は直ぐにシャワーを浴びて少し散らかった部屋を濡髪のまま片付けた。洗濯機が回り終わって、いそいそと洗濯物を干し終わってから、私はその日が休みだったことに気付いた。だからなんだか急に肩の荷が降りて、私は散歩でもしようかな、と言う朗らかな気持ちになった。不味い水道水をコップに入れて飲んで一休みしてから、私は黒いワンピースに着替えて外へ出た。

 

 とりあえず私は何も考えずに駅に向かって歩いた。暫く何処へも出掛けていなかったからちょっとだけでも遠出しようと思った。丁度小学生の下校の時間と被ってしまったからランドセルを背負った多数の子供とすれ違った。私にもあんな時があったと思うと時の流れは残酷だと思った。小学生くらいの時、私は何を考えて生きていたんだろう?勉強なんて大嫌いだったけれど、国語の授業で朗読するのはなんだか好きだった。声に出して日本語を読むって言うことの大事さは大人になると忘れてしまう。読んだ言葉が自分の口から声になって出て、その言葉が自分の耳に返ってくるあの感じ。黙読するよりもより深く理解が深まる不思議さが好きで、私は部屋で一人でいるとき、好きな小説や詩集を朗読して読んだりしていたことを思い出した。歌うのは苦手だけどきっと声に出すって大切なんだろう。内気で家族とは余り喋らなかったから、衝動的に声を出したかったのだろう。特にこの人のこの詩が好きとか、この話が印象的ってのは無いけど、兎に角、声に出して文章を読むのが好きだった。これってちょっと変なことだろうか。大人になって何にも活かされてないけど、私は未だに文章を読む時は、声に出してしまったりするなぁ、とこの時思った。そんなことを考えているうちに駅に着いたので、そのまま改札を通って私はホームに出た。しばらく待つと電車が音を立ててやって来た。何だか久しぶりに電車を見たから、それだけでうきうきしてしまった。ドアが開いて乗り込むと私は直ぐに角の席に座った。

 

 流れる景色を楽しんでいたら、あっという間に多摩川駅に着いた。私は高校の時から何となく多摩川に来てよく散歩をしていた。思い起こせばあのマンションに越して来たのは高校生の時のからだった。田舎育ちだったから、都会の景色に慣れなくて、多摩川に来ると空が開けていて私は安心したのを覚えている。引っ越した当初からマンションを出て直ぐの所には象のいる公園はあったけれど、実際その魅力に気付いたのはここ最近になってからだ。よく言えば都会の暮らしに慣れてその味わいを理解したと言う感じ。都会の何処を探してもあんなにかわいい象の遊具がある公園は他に見たことがない。私は自分の住んでいるとこから遠く離れて多摩川に来ても、象のいる公園のことを考えてる自分のことを思ったらちょっとおかしくなってしまった。

 

 多摩川の横を歩いているうちに私はあれこれと色々なことを瞑想してしまって、これじゃあまずいと思って、象のいる公園に誰かを呼び寄せることにした。悩み事がある時に直ぐに人に聞いてもらいたくなるのが私の悪い癖だ。でも月曜日の夕方から暇な人なんているだろうか?私はLINEの友達の欄をスクロールしながら、誰か会えそうな友人を探した。それに今私の悩み事を相談出来るのは美沙くらいだった。でも、美沙は今日仕事だし、そう思っていたら適役の人を見つけた。前に元彼がイベントをやった時に知り合った絵描きの平くんだ。平くんはすごく丁寧な人で、確か絵描きをしながらフリーランスをやっていた気がする。急に呼び出したら悪いかな、とも思ったけど、自分から付き合いを続けないと友人関係は続かないと思って、思い切って、電話をかけた。LINEの独特のコール音がする。出ないかなと思ったけど五回目のコールで平くんはひょっこりと電話に出た。

 

「はーい。あれ?桐花ちゃん?久しぶり。どしたの?」

 

「あ、平くん久しぶり!元気?相変わらず絵描いてますか?」

 

「久しぶりー。絵は描いてるよ。昨日もイベントでライブペインティングを頼まれてしてたとこ!どしたの急に?」

 

「実はつい最近、彼と別れちゃって、なんか平くんに急に会いたくなっちゃって」

 

「え、別れたの?知らなかった。今何処にいるの?丁度時間あるから今から行こうか?」

 

「えっと、今多摩川にいるんだけど、私のマンションの近くの象のいる公園で合わない?」

 

「ああ、あの花見した公園か!いいよ。何時くらい?」

 

「これから多摩川から帰るから、一時間あとくらいだと嬉しいな」

 

「わかった。じゃあ画材持って遊びに行くよー」

 

「ありがとう。それじゃまた後で」

 

「うん。またね」

 

 電話を切ったあと、平くんの明るさにびっくりした。やっぱりアーティストって勢いがあるなぁと私は軽く胸を撫で下ろした。そう言えば、今年の四月に元彼と一緒に何人かで象のいる公園で花見をしたばかりだった。あの楽しかった花見がもう過去の思い出になっていることに恐怖すら感じた。私自体は変わっていないのに、何でこんなにも時が過ぎるのが目紛しいのだろう。別れて感傷的になることが多くなったからだろうか?現実ばかり見ている気がする。いや、そもそも私は何を基準に時の流れを捉えていたのかわからなくなった。

 

 帰りの電車に揺られながら、もっと多摩川を歩きたかったな、と思った。でもその日は一人でいることがどうしても耐えられなかった。話さなくてもいいから、誰かといたかった。一日経ってはいたけれど、私は象のいる公園の秘密を忘れたわけではなかった。寧ろ、あれをどうやって自分のものにしようか考えていた。早いうちから移植ゴテで鉢に移して持ってくるべきだろうか。いや、でもそんなことしたら、部屋にあんなものがある状況に耐えられなくなって、私はきっとノイローゼになってしまうだろう。だからもっと大きくなるのをじっくりと待って背丈が高くなってから、夜の闇に紛れて取ってくればいいだろう。でもあの、ちょこんとした見た目の草がどのくらい大きくなるのか私は想像もつかなかった。こんなことなら、もっと元彼の持っていた大麻関連の山積みにされた本を熟読しておくべきだったと後悔した。

 

 帰宅ラッシュと被ってしまって帰りの電車内は混んでいて、気分が悪くなった。私は満員電車が大嫌いだった。見ず知らずの人とこんなにも狭い空間で同じ空気を吸って密着するのが耐え難かった。電車に乗ること自体もそんなに好きじゃないから、わざわざ仕事も歩いて行ける範囲のところで選んでいた。東京って何でこんなにも冷たさを感じるんだろう。大勢人がいるからこそ、生物的に身の危険を感じるからだろうか。電車の中はお祭りの金魚救いよりも押し合い圧し合い車体が揺れるままにただ身を任せるしかなかった。そんなこんなで、私が少し遅れて象のいる公園に着くと、平くんはブランコの左側に座って絵を描いていた。

 

「平くん!おまたせ」

 

「おー桐花ちゃん。元気そうでよかった」

 

「何描いてるの?」

 

「ああ、そこの象だよ。珍しいからいいな、と思って」

 

 平くんの手元のスケッチブックを見ると写実的な象が鮮明に描かれていた。私は平くんはもっと派手な絵を描くイメージを持っていたから、画風が違ってもこんなにも絵が上手いことを知って素直に感動した。

 

「わぁ、上手だね。流石平くん」

 

「そうかな、この象のニュアンスがなかなか上手く描けなくて、もう三枚目なんだ」

 

 そう言って平くんはスケッチブックのページをパラパラとめくって私に見せてくれた。

 

「わ、本当だ。こんな短期間でよくそんなに描けるね」

 

「絵だけが僕の取り柄だからね」

 

「すごいなぁ」

 

「それで、何で僕を呼び寄せたの?別れたって本当?」

 

「あ、いやちょっと、改まって言うとなんか恥ずかしいんだけど、人恋しいと言うか、誰かと話したくて、別れたのは本当だよ」

 

「そうなんだ。それは辛かったね。詳しい理由は知らないけど、僕に出来ることなら何でもするよ?」

 

「そうやって隣で絵を描いていてくれるだけで嬉しいな」

 

「ふーん。桐花ちゃんは寄り戻したいとか思うの?」

 

「え、あ、うーん、今はもう伸のことそんなふうには思えなくて、、」

 

「あ、そうなんだ。新しく好きな人出来たとか?」

 

「なんでわかったの?」

 

「桐花ちゃん後腐れ無さそうだな、と思って」

 

 平くんはそう言って笑うと、新しいページにまた絵を描き始めた。私は別れてから初めて元彼の名前を口にして、少しだけ、何だか照れ臭くなった。それと同時にまだ心の奥に埋められない淋しさを感じた。

 

「平くん、何か飲む?マンションの下に自販機があるから何か買ってくるよ」

 

「そうだな、午後の紅茶とか?なかったらコーヒーでいいよ」

 

「わかった。ちょっと待ってて」

 

 私はそう言ってから、マンションの下にある自動販売機の所へ行って午後の紅茶を二つ買って戻った。

 

「はい。これ。午後の紅茶あったよ」

 

「サンキュー。僕午後の紅茶好きなんだよね」

 

「甘くて美味しいよね」

 

「そうそう。自分で紅茶入れたら絶対にこんなに甘くしないよね」

 

「確かに」

 

 平くんはそう言ってから、プルタブを引いて紅茶を飲んだ。それを見て私も缶を開けて一口飲んでから煙草を取り出した。咥えて火をつけると、私はやっと帰ってきた気がしてほっとした。平くんはスケッチブックを膝の上に置いてから赤マルを吸った。変わらないその銘柄に何だか安心した。

 

「平くん彼女とは上手くいってる?」

 

「うん、仲良しだよ。昨日もイベント一緒出てたんだ」

 

「ああ、そうなんだ。平くんの彼女も絵を描く人なんだっけ?」

 

「そうだよ。僕よりもよっぽど上手いし実力があるけどね」

 

「へーそのイベント行きたかったなぁ」

 

「急だったから集客まで手が回らなくてさ。今度何かあったら呼ぶよ」

 

「うん。ぜひ呼んで!」

 

 大の大人がブランコで二人、こうして煙草を堂々と喫っていても、象のいる公園には人気がないから別に周りを気にしなくてよかった。私は象の下にある秘密のことを平くんに話そうと思ったが平くんの方が先に話をふってきたので、言いそびれてしまった。

 

「それで、桐花ちゃんの新しい好きな人はどんな人なの?」

 

「わ、さっき話が流れたと思って安心してたのに、、知りたいですか?」

 

「うん。知りたい」

 

「今、ガールズバーをやってるんですけど、そこのお客さんなんだ」

 

「ほえー、それなら伸とは遅かれ早かれ別れてた感じ?」

 

「いや、別れてなかったら、きっと意識することはなかったんですけど」

 

「へーそうなんだぁ。伸、昨日イベントいたよ」

 

「あ、それなら行かなくてよかった」

 

「まだ、会ったら気まずいの?」

 

「気まずいって言うか、、何だろ。ちょっと上手く言えない」

 

「あ、ごめん。そうだよね。そんな簡単なものじゃないよね」

 

 平くんはそう言ってから、真剣な眼差しにきりっと変わって絵の続きを描き始めた。だんだんと辺りは夕闇に飲み込まれて、もうすぐ夜が近くまで忍び寄っていた。私は午後の紅茶の甘さを改めて実感しながら平くんの横顔を少しだけブランコを揺らしながら見ていた。平くんは短髪の似合う美少年だ。身長は百七十くらいで、鎖骨が綺麗に見えそうな感じの痩せ型。私は背格好や見た目より断然彼の性格が好きだった。好きと言うよりは魅力を感じると言った方が正しいかもしれない。平くんといると、自分も何かやりたくなるのだ。何か自分にも隠された才能があって、それが出来る気がする。こんなにパワーのある人は私の知っている中でも平くんだけだった。いつもこのことを平くんに伝えようと思うのだけど、いざ会ってみると、平くんの不思議なパワーに負けてしまって、私は何も言えなくなってしまうのだけど。

 

 平くんの指先で煙草がただ灰になって今にも落ちそうだった。私が携帯灰皿を差し出すと彼は「ありがとう」と煙草を一口喫ってから消した。その仕草がなんだかとてもセクシーで夢を見ているみたいだった。そう言えば今朝見た夢はなんだったのだろう。今思い出すと、遊園地じゃなくて、ちょっと象のいる公園にも似てたな。と私は思った。それから十分くらい黙っている間、私は平くんに象の下にある秘密を話すか話すまいか、何度も悩んだ。そして散々悩んだ挙げ句、私はそのことを言い出せなかった。そのあと話題がないと気まずかったので私は花見のとき美沙も一緒にいたのを思い出して美沙の話をした。

 

「平くん、美沙が今度彼氏と同棲するんだって」

 

「あぁ、美沙ちゃん。あのDJやってるって人とだよね?へーそうなんだ。」

 

「そうなんです。それで美沙からアドバイスないかって聞かれて、私困っちゃって、自分経験ないんで、、」

 

「うーん、一人の時間を作る。とかかなぁ、僕は彼女と同棲始めてから、そう言うこと気にするよ」

 

「あ、それ、すごく大事そう。今度会った時伝えとこ」

 

 平くんには何故か私はちょっと敬語を使いつつも殆どタメ口だった。元彼もそうやって話していたから、彼との距離感の取り方はそんな感じだった。その言葉の使い方が何となく尊敬と気さくさを示していて、それが私と平くんの関係性をよく表していた。

 

「描ーけた」

 

 そう言って平くんは私に象のいる公園の絵を見せてくれた。

 

「すごい。この絵、私に売って平くん!」

 

「え、いいよタダであげるよ」

 

「ダメだよ。そんなの、アーティストなんだからちゃんとお金払うよ」

 

 私はそう言って財布を開いて、五千円札を出して平くんに無理やり渡した。

 

「こんなに受け取れないよ。本当にこんな白黒でいいの?カラーでちゃんと描き直すよ?」

 

「ううん。今描いたこの感じがいいの、私この象のいる公園が大好きなんだ。だから部屋でもここが見られるみたいで嬉しい」

 

「そうなんだ。じゃあ、これ」

 

 そう言って平くんはスケッチブックから丁寧に絵を切り離して私に渡してくれた。私は受け取ってその象のいる公園の絵を見た。何とも上手くかけていて、本当にプロの画家の絵だな、と思った。

 

「ありがとう。大事に飾るね」

 

「いや、なんかこちらこそありがとう。こんなに貰っちゃって悪いな、代わりになんか今度ご馳走するよ」

 

「いいって、私の気持ちだから取って置いて」

 

「ありがとう。僕グループ展の打ち合わせがあるから、そろそろ行くね」

 

「あ、そうなんだ。それじゃまたね。平くん」

 

「うん。またね桐花ちゃん」

 

 そうして、平くんはスケッチブックを抱えて象のいる公園の向こうに消えて行った。私の手元には平くんが描いたばかりの絵が熱を帯びて残っていた。人一人の力の凄さを私は思った。今日、思い切って平くんに声をかけて良かったな、と私は心から思った。私は家に帰ろうと思いブランコから立ち上がって象に近づいてみた。大麻は変わらずに象の下に生えていた。

 

 

 それから数日、私はガールズバーの仕事をして、抑揚のない日々を過ごした。水帆さんが来ないと、この仕事は本当に退屈だった。世の中には自分の仕事に楽しさを見出せている人がいると思うと、私はとても羨ましい気がした。平くんなんかはそう言う層の人だったから、私は心底尊敬していた。自分のやりたいことをやって人生を全う出来る人がこの世にどれだけいるのだろう。私は平くんに会ってから自分にも何かクリエイティブなことが出来ないかと、いろいろ頭を捻って考えたりしていた。それで私は一日一つ。ノートに詩を綴った。それは日々の中にあってないようなこと、普通のことのありのまま、普遍的な良さ、変わらない物への安心感等を随筆した。それが習慣になると楽しくて、私は自分でも知らない自分を発見することが出来た。発表の場とか、そう言ったことは一切思いつかなかったけれど、私は自分の描いたその詩を声に出して朗読した。ノートに綴った言葉と、声に出した言葉では何か違う気がした。七歩の才が私にあるかどうかは自分では分からなかったけれど、詩を書くことで、私は毎日の生活の中に張りが出来た気がした。それに大人になって、好きだったものが見え難くなっていたことに気付いた。象のいる公園の絵を見る度に、私は平くんに感謝した。彼が与えてくれたエネルギーを私も変換して返さなくては、と使命感を感じた。

 

 一日一つとは、言ったけれど、そのうちに私は詩を書くことが癖になって、仕事中でも、時間がある時はメモ帳に思い付いたことを綴っていた。同僚に見られて、何それと変な目で見られたけれど、それでいいのだ。私は私なんだから、自由でいたかった。でも、職場で書く詩はそんなに良くなかった。肩が凝っている感じ、と言うか、なんだか自分で書いたのに、全く良さを感じなかった。やっぱり私は人前では自分を出し尽くせないと思った。自分と言う人間性を出せば出す程、嫌われる気がした。もっともそれはガールズバーでの話だけれど、いつだって自分がいたい世界だけにいられるわけじゃない。だからは私は自分の作る詩の世界観だけは私の確立した精神世界にしたかった。思えば私が詩を書くようになったのは中学生の頃からだった。図書館にあった寺山修司さんの少女詩集と言う本が大好きで、私の中学の頃の思い出はほとんどその一冊に詰まっていると言っても過言ではない。私はその詩集を手にした時から、自分でも詩を書くようになったのだった。高校になって、社会人になって、いろいろなものに自分の心を揺さぶられるうちに忘れてしまっていたけれど、平くんのお陰で私の詩を書く趣味が蘇った。なんて、尊いことなんだろう。

 

 沢山、詩を書くようになって私は元彼のことを無理に忘れようとしている自分に気づいた。詩を書く事で、やわらかな時間が、その全てを解決してくれると思えるようになって、随分と気持ちが楽になった。私の精神は何故かいつでも尖っていた。それは時には鋭利な刃物のように、また、ある時には、熟れてぱっくりと割れた柘榴のように、何処か狂気じみていた。私のこの感覚を理解してくれる人は少ない。だからこそ私は自分がやわらかな時間に溶け込めることを大事にしたいと思った。自分の有り余る力の方向に気付くと人はこんなにも楽になれるのか、と私は内心とても驚いていた。

 

 

 私が詩の創作活動に没頭するうちに梅雨がやってきた。いつもの年なら憂鬱な雨が、詩を書いている私には別物にみえた。だから私は梅雨の間、大学ノート一冊分、雨だけの詩を書くことにした。もうすぐカレンダーをめくれば七月だ。その日、私は象のいる公園に行って青いチェックの傘をさしたまま突っ立って煙草を喫っていた。私は象に近寄って、ちらっと毎回のように下を確認して、あれがそこにあるかを確かめた。何故か、象のいる公園のことは詩に書けなかった。私にとってはもはや象のいる公園は聖地と化していた。鳥が落とした零れ種か、はたまた誰かが植えた可能性までを私は考えたけれど、私みたいなひよっこがこの場所を詩にしたら、ここの結界が壊れてしまって秘密がバレてしまうような気がした。そう思うことで、私は余計に象のいる公園の秘密を人に話せなくなっていた。すくすくと育つその聖なる葉っぱを私は守り人のように見守った。雨の詩集が出来たら、平くんに真っ先に見せよう。私は心の中でそう思ってから携帯灰皿で煙草の火を消して、マンションへ戻った。

 

 私の生活周期は大体いつも午前九時に起きて、午後の三時過ぎから仕事へ行き、深夜十二時くらいに帰宅すると言う流れだった。詩がすらすらと書けるのはお昼から三時の間だった。私はその時間を過ごすのが楽しくて日々を送っていた。詩を書いても私は気に入らなかったら、消しゴムで丁寧に消してから、また、何度も言葉を探してからノートに丁寧に言葉を書いた。私には整頓された言葉と言葉の白い余白さえも大切な部分に思えた。自室へ戻り、私はノートの新しいページを開いて、言葉が降りて来るのを待っていた。外は激しく降る雨の音が続いていた。まだ書き始めて七ページくらいだった。私は台所に行ってダージリンティーを淹れてから部屋に戻って作詩を再開した。雨の音を聞いては言葉を選び、ノートに綴った。時折り、元彼のことを思い出して私はそれを詩の中に織り交ぜた。そして、読み返してみると、潜在的に水帆さんのことも詩に書いていて、なんだか恥ずかしくなった。そろそろ仕事に行かないと、と思っていたら携帯に着信があった。母からだ。

 

「もしもし」

 

「もしもし、桐花。お婆ちゃんが亡くなっちゃったの、、」

 

「え、桐世婆ちゃんが?」

 

 私はびっくりして、左手に持っていたダージリンティーを膝に零してしまった。何の前触れもなくそう聞いて、私は唖然とした。母は続けて桐世婆ちゃんが老衰だったことを教えてくてた。私は桐世婆ちゃんが死んでしまったことに実感がわかなかったけれど、苦しまずに死んでいけたのなら良かったと思ってしまった。頭の中が空っぽなのに大雨の中で母の声だけが電話口から大きな声で響いた。明日は葬式だから二日は休みを取って実家へ帰って来なさいと言うと母は、これ以上話したら泣いてしまいそうだからとその要件だけ伝えて電話を切った。

 

 その夜から仕事を休んで、私は実家へ帰る準備をした。と言っても荷物よりも心の整理の方が必要だった。私はキャリーバックに礼服と数着の着替え、それと雨の詩を書いたノートを大事に入れた。私は美沙との会話で「年金暮らしで元気にしてるよ」と言い放ったことを思い出していた。私の中で桐世婆ちゃんはもっと長く平然と生きていくと思っていた。それがこんなにも急だと思わなくて、胸が詰まった。まだ、涙が出て来ないのは桐世婆ちゃんを直接見ていないからだと思った。ただ、それだけの理由で、私は泣いていないのにとても哀しい気持ちだった。私は物心ついてから誰かの死を目の当たりにしたのが初めてだったのだ。こんなにも体の奥から心が凍結したような気持ちになるのだとは思ってもみなかった。失恋のショックは何度か経験があったけれど、それとは比べられない悲しみだと言うことを知った。夕飯は喉を通らなかったから、私はバーボンの残りを少しだけ呑んだ。違う意味でも、特別なお酒に感じた。哀しさに浸ると桐世婆ちゃんの思い出が頭の中を巡ってしまい私は早く家族に会いたくなった。こんなに心細い気持ちのまま眠った夜は子供の時以来だった。

 

 翌日、始発の新幹線で私は実家へ向かった。午前中には地元の駅に着いて家に連絡したら、お兄ちゃんが車で迎えに来てくれた。純一と言うすっきりした名前の私の兄は、故郷でしっかりとIT関係の仕事をしている。歳は三つ離れていて、もう結婚もしている。奥さんは純兄が大学の時から一緒のサークルだった道子ちゃんと言う清楚な人。二人の間にまだ子供はいないけれど、実家で両親と一緒に暮らしていて、既に家庭円満と言う感じで私は羨ましかった。

 

「よー。久しぶり。元気ないじゃん」

 

「だってそんな場合じゃないでしょ」

 

「婆ちゃんのこと?お別れでも明るくしていた方がいいだろ?」

 

「うーん。そうかな、私はまだ実感なくて、そんな気になれないよ」

 

「まぁ、とりあえず無事に来れてよかった」

 

 数年ぶりに会って少し話しただけだけど純兄は全く変わらなかった。誰に似たのかわからないけれど、いい意味でも悪い意味でも、純兄には明るさが常にあった。昔からそうだ。私が小学生の頃、友だちと喧嘩して落ち込んでいても、中学生の時に慣れない恋愛で失恋した時も、相談すると純兄は私の気分と反していつも無駄に明るかった。初めはいらっとしたけれど、純兄はそう言う人なんだとわかってから、私は素直に受け入れるようになっていた。きっと兄妹ってそんなもんなんだろう。純兄の運転は穏やかで、それだけで安心した。三年振りの故郷の眺めは何処を見ても全く変わらなくて、逆に怖くなった。こんなにも風景は変わらないのに桐世婆ちゃんはもうこの世にいない。実家なんて近くだからいつでも来れると思っていつの間にか三年も帰っていなかったのだ。私が余りにも帰らないから、お婆ちゃんが私に嘘をついてドッキリでも仕掛けたのではいかと、私は車の中でありもしないことを疑った。何処かで生きているお婆ちゃんの姿が私の中で切り離せなかった。でも実家へ着いてから両親と再開して、喪服に着替えて葬式場へ行ったら段々とお婆ちゃんの死を実感してしまった。

 

 棺の中の桐世婆ちゃんの顔を見たけど、結局私は涙が出なかった。悲しくて哀しくて、どんな言葉も浮かんでこないのに、気持ちが表に出せなかった。身内ばかりなのに誰かに泣いているのを見られるのが嫌だった。欠伸の出るような長い坊さんのお経を聞いているうちに、私の気持ちはなんだか少し楽になった。私は、宗教とかは良くわからなかったけれど、この長ったらしいお経が、人々の心を楽にしてくれるんだろうと、なんとなく思った。有りもしないものでも、有ると言うことにして、でっち上げるのは言うほど無駄では無い気にさせられた。桐世婆ちゃんの顔は死んでいるとは思えないくらい綺麗だった。とても幸せそうな顔で、もうこの世に言い残すことは何も無さそうだった。最後に桐世婆ちゃんと話したのは電話だった。その頃はまだ元彼がいたから、私はなんだか彼のことばかりでいっぱいいっぱいで、桐世婆ちゃんの長話にそんなに付き合ってあげられなかった記憶がある。もう取り返しはつかないけれど、あの時もっと話しておけばよかったと、私は少しだけ悔やんだ。でも桐世婆ちゃんは悔いの無さそうな顔だったから、私はこれ以上自分が悩んでも仕方がないと言う気持ちになっていた。葬儀で親戚が集まると、意外と大勢いることに私はびっくりした。普段は全く意識しないけれど、血の繋がった関係と言うのは何処か安心感のあるものだった。

 

 正直哀しみに暮れていたから葬式の日のことはほとんど思い出せない。私はただ時間が過ぎるのだけに任せて、その場にいただけだった。夜は親戚一同で食事をしたけれど、それも余り覚えていない。ただ記憶に残っているのはずっと雨が降っていて、私は桐世婆ちゃんに送る雨の詩を心の中でずっと考えてたと言うことだけだった。メモが残せなかったから、私の中で詩は浮かんで消えて行った。それでも何だか、私はその詩が桐世婆ちゃんへの手向けになるような気がした。

 

 葬式が終わって次の日、私はとんでもない朝寝坊をした。と言うかお昼になって母に心配されながら起こされたのだった。昨夜の会食で思ったより飲み過ぎたのだ。私は起きて、化粧もしないまま二階の部屋からリビングへ降りると、両親と純兄と道子ちゃんが揃ってお昼ご飯を食べている所に出会した。父は私の顔を見ると腕時計を一瞥してから口を開いた。

 

「おはよう。桐花は昔から良く寝るなぁ」

 

「昨日、飲み過ぎたんですって」

 

「葬式の後で瓶ビール三本は飲み過ぎだよな」

 

 純兄がそう言うと四人はわっと笑った。私は顔を伏せて自分の椅子に座って、「いただきます」と言ってから母の作ったお昼ご飯を平然と食べ始めた。私を心配するように道子ちゃんが顔色を伺う。

 

「二日酔い?大丈夫?」

 

「大丈夫。久しぶりの実家で安心したら寝過ぎちゃった」

 

 前に来た時は家族の団欒に桐世婆ちゃんもいたのだ。私は桐世婆ちゃんの席に誰もいないことが寂しく思えた。母は昨日泣き晴らしたからか、けろっとしていた。父は本当に身内か?ってくらい顔色を変えないし、純兄に至っては普段より明るいんじゃないかと思うくらいだった。

 

「せっかく桐花が来たのに、昨日の今日じゃ何処へも行けないな」

 

「そりゃ遊びに来たんじゃないんですから」

 

「ドライブくらいなら、俺が連れてくよ」

 

「私は近所を散歩するだけでいいよ」

 

 ずっと一人でいたからか、家族といることがぎこちなく感じてしまって、何だか居づらかった。私はそそくさと食事を終えて、自分の食器だけ洗うと自室へ戻って、ベッドに寝転がった。窓から見える外は雨がざーざーと続いていた。こんなことなら母に言われた通り二日も休みを取らずに一泊だけで東京に帰ればよかったな、と私は思った。一人で部屋にいると私は煙草が吸いたくなった。そして同時に象のいる公園がなんだか恋しくなった。私はもしかしたら、純兄にならあの公園の秘密を話せるかも知れないと思った。私は煙草を吸っていることは両親には何となく隠していた。純兄はそれを知ってたけれど、特別に止めたりはしなかった。こんな時に実家に犬でもいたら、何だか楽しいのにな、と思ったけれど、そんな理想的な犬はいなかった。仕方なく私は外へ散歩に行くことにした。そろそろ純兄も食べ終えているだろうとリビングへ行ったら、案の定テレビを見ていた。私は純兄の手を引っ張って散歩に連れ出そうとした。

 

「純兄、散歩行こー」

 

「痛てて、わかった。わかった。ちょっと待てって」

 

 立ち上がると純兄はキッチンに行って洗い物をしている道子ちゃんに声をかけた。

 

「道子も散歩行くか?」

 

「雨だから私はいいわ」

 

「そうか、じゃあちょっと桐花と散歩に行ってくるよ」

 

「わかった。気をつけてね」

 

 そのやり取りだけでも、二人が何だかとても愛し合ってるような気がして私は恥ずかしくなった。と言うか、エプロンをつけて洗い物をする道子ちゃんが、とても良い奥さんに見えた。母もきっと喜んでいるだろう。玄関を出て大きな水玉の傘を刺した。純兄も色違いの水玉の傘だったから私はなんだか可笑しかった。何処へ行くでもなく、私は純兄と並んで近所を歩き出した。本当に何も変わってなくて、自分だけが歳を取ってるような気になった。

 

「東京もずっと雨だったか?」

 

「うん。そうだよ。桐世婆ちゃんが死んだのを知った日もざーざー降ってたよ」

 

「そうか。もう直ぐ夏だな」

 

「そうだね」

 

 私達はそれから何となくお互いの話をしながら歩いた。やっぱり兄妹ってのは時間が経っても素直に色々と話せる間柄だと私は嬉しく思った。そして小さい頃、学校へ行く為に通っていたバス停を通り過ぎて、私達は田んぼが連なる農道を歩くことにした。東京に無いこの田舎の風景が愛おしく思えた。それでも私は慌ただしい都会の暮らしの方が自分に合っている気がした。

 

「純兄、あのさぁ、変なこと話していい?」

 

「おお、何だよ。そんなに勿体ぶって」

 

「私が住んでるマンションの隣りに象のいる公園があるんだけどね、」

 

「象のいる公園?それは何かのオブジェ」

 

「そう。そうなの。多分、遊具なんだけど、その象の下に私、大変な物を見つけちゃったの」

 

「大変なものって?子猫とか?」

 

「違うよ。麻。大麻よ」

 

「え。本当に?」

 

 純兄は驚いて一瞬そこに立ち止まって私の顔をじっと見た。本当に驚いた人だけがする表情だった。疑う純兄の目を見て、私はこくりと頷いた。十五秒くらい間が空いて、純兄口を開いた。

 

「桐花、それどうするつもりなんだよ」

 

「私も悩んじゃって、普通ならすぐ届け出とかするのかなって思ったんだけど、何かそう言う気持ちに慣れなくて、いけないんだろうけど、誰にも話せなくって」

 

「そうか、じゃあ桐世婆ちゃんが亡くなって葬式でもしなかったら、俺にも言うきっかけはなかったってことか」

 

「うん。何だか不思議だけど、そうなの、子猫とかだったら寧ろ簡単なんだけどさ」

 

「桐花、お前もしかして吸うつもりなの?」

 

「うん。やっぱりマズいかな」

 

「いや、俺からは何とも言えないな、見つからなければ大丈夫かもしれないけど」

 

「純兄なら、そう言ってくれると思った」

 

「犯罪だぞ?」

 

「知ってるよ。でも、私、見つけた時。こんな千載一遇のチャンス私の人生に訪れるの最初で最後かもしれないと思ったの、生い茂ってる本物をみたら、何故か麻の魔力みたいな物に魅了されちゃって」

 

「確かに国によっては規制されてない所もあるけど、どーなんだろうな。俺はこれ以上は何とも言えないなぁ」

 

「うん。いいんだ。何か言えてすっきりした。それにもしかしたら誰かがこっそり育ててるって言う可能性もあると思って」

 

「東京ならあり得るかもな」

 

 純兄は自分には全く関係のないことのようにそう言った。純兄が否定したりしてこなくてよかったと思った。これはきっと血の繋がった兄妹だからこそ分かり合えることだと私は思った。それに話を聞いて直ぐに桐世婆ちゃんの死が、私がこの事を話すきっかけになったことを言い切った純兄はすごいと思った。私は言葉以上の何かすごい力が流れているような気持ちになった。

 

「私、最近、詩を書くようにしてるんだ」

 

「詩?桐花らしいな」

 

「今はずっと雨の詩を書いてるの」

 

「雨の詩かぁ、どんなの?」

 

「まだ書きかけだけど、帰ったら見せてあげようか。恥ずかしいから道子ちゃんには内緒だよ」

 

「道子にも見せたいな。いいじゃんか、減るもんでもないし」

 

「うーん。じゃあ私のいないとこでならいいよ。恥ずかしくて面と向かって読んでいるとこを見ていられなそうだから」

 

「いろんな人の感想を聞けた方が為になるんじゃないかな?」

 

「発表の場がないから、嬉しいけど、恥ずかしいものは恥ずかしいの」

 

 

「恥じることないのに、立派な事だよ。誰にでも出来ることじゃないから自信持ちなって」

 

「ありがとう」

 

 ざーざーと降っていた雨は少し穏やかになって、私達は折り返し家に帰ることにした。純兄を横目に、持ってきた煙草を咥えてそっと火をつける。傘の中で煙が広がった。明日、また都会に戻ったら一人になる。そう思うと少し淋しかった。

 

 

 散歩から帰ると家では母がコーヒーを淹れていてくれた。純兄は久しぶりの有休だから昼寝をすると言ってコーヒーは飲まなかった。父はリビングのソファでコーヒーを飲みながら黙って新聞を読んでいた。その横で母は綺麗に畳終えた洗濯物を片付けていた。なんて事のない午後の家族の生活がゆっくりと過ぎていった。私がリビングの机に座ってまったりとコーヒーを飲んでいると、純兄の部屋から戻って来た道子ちゃんが机の向かい側に座った。私はサーバーからカップにコーヒーを注いで道子ちゃんに渡した。

 

「ありがとう。散歩楽しかった?」

 

「うん。何も変わってなくて安心した」

 

「そっか。純一から聞いたけど詩を書いてるんだって?[#「?」は縦中横]」

 

「あ、うん。純兄のやつもう喋ったのか」

 

「帰って来てすぐに教えてくれたのよ。桐花ちゃん、いつ頃から書いてるの?」

 

「いや書き始めたのは本当に最近なんだ。平くんって言う絵を書いてる友人がいて、なんか私も影響されて、クリエイティブなことがしたいな、と思って始めたの」

 

「そうなんだ。すごーい」

 

「恥ずかしいから道子ちゃんには隠しておきたかったんだけど、、」

 

「隠すことないのに、詩人なんて素敵じゃない」

 

「そうかな」

 

「そうよ」

 

 道子ちゃんはそう言ってにっこりと笑った。私はそれを見て純兄には勿体ないくらい綺麗な人だと思った。話の流れで、私の書いた詩を見せないと気まずい空気になったので私は自分の部屋に雨の詩を書いたノートを取りに行った。自分の書いた詩を人に見せたことがなかったので、私はどきどきした。

 

「これ、読んでみて。私恥ずかしいから二階にいる」

 

「ありがとう。じゃあ、こっそり読むね」

 

「夕飯一緒に作ろう?六時には降りてくるから」

 

「わかった。何作ろうか?」

 

「カレーにしよ」

 

「いいね。わかった。待ってるね」

 

 道子ちゃんに雨の詩を書いたノートを手渡して私はもう一度自分の部屋に戻った。そうして、ベッドに寝そべり私は天井を見た。なんともそわそわした。道子ちゃんが私の詩を見る初めての人だった。純兄が早く起きて来ないかと、私は落ち着かなかった。しかし、そうしていると睡魔がやって来て、私は桐世婆ちゃんがいなくなってしまった悲しさを抱いたまま少しだけ眠ってしまった。

 

 六時過ぎに目を覚まして、私が慌ててキッチンへ行くと道子ちゃんはカレーの下準備をしていてくれた。私は冷蔵庫の隅に掛けてある紺色のエプロンをしてから腕まくりをして何となく道子ちゃんの隣でカレー作りを始めた。

 

「桐花ちゃんの詩すごいよかった」

 

 私は眠ってしまったせいで、うっかりそのことを忘れていて、はっとした。道子ちゃんは人参の皮をピーラーで剥きながら、感想の続きを話してくれた。

 

「なんだか桐花ちゃんの詩は何処か別の世界を観てるような不思議さと、言葉一つ一つに詰まった温かさみたいなのを感じたわ。とっても純粋な人しか書けない詩だと思った」

 

「ありがとう。自分が書いたものがそんな風に評価されるなんて思ってもみなかった。でも、やっぱりちょっと恥ずかしいな」

 

「想像以上に作品になっていてびっくりした。なんだかとても桐花ちゃんの詩に心洗われた気になっちゃった」

 

「嬉しい。桐世婆ちゃんにも見せたかったな、、、」

 

 玉ねぎを切っていたからか、いや、そんな訳ない。私はそう言ってから涙が止まらなかった。昨日は涙一つ流せなかったのに、桐世婆ちゃんにもう会えないんだと思ったら、心の底から哀しくなってしまって、私はぼろぼろと泣いた。道子ちゃんは私をそっと慰めてリビングの椅子に座らせてくれた。その後、涙が収まって作ったカレーは沢山流した涙の分、甘口に作った。辛くすると桐世婆ちゃんが嫌がったことを私は忘れていなかった。七時半頃になって、純兄が目を覚まして部屋から出てきたので皆んなで晩御飯にすることにした。

 

「カレーか。婆ちゃん好きだったな」

 

「うん。甘口にしたよ」

 

「俺は辛口がいいんだけどな」

 

 父はそう言って辛味を足していた。自分で桐世婆ちゃんの話をしたのに、その仕草はなんだか哀しみを紛らわしているみたいだった。純兄は文句も言わず私達が作ったカレーを美味しそうに食べてくれた。純兄のその明るさに救われた。母はまだ少し寂しそうだった。カレーで桐世婆ちゃんのことを思い出したからだろう。

 

 食事を終えてから私は純兄に雨の詩を書いたノートを見せた。純兄に見せる時も恥ずかしかったので私は二階に行って一人で帰りの準備をした。もう帰るのか、と思ったら二日休みを取ってよかった気がした。私は象のいる公園がどうなったか心配だった。私がいない間、この宇宙には変わらずに、あの象のいる公園があるのかと思うと私は何故だか不思議だった。当たり前なんだけど、そう思った。純兄は秘密を話せたけど、話したところで私の気持ちは余り変わっていなかった。象のいる公園のことを思うと私は明日都会へ帰るのが楽しみになった。

 

「コンコン」とノックする音が聞こえて返事をすると、純兄が雨の詩を書いたノートを持ってドアを開けて言った。

 

「桐花、昨日貰った日本酒があるから下で呑まないか?」

 

「おー呑む呑む!」

 

 私は酒好きだから飛びついた。日本酒は大好物だった。私は部屋の明かりを消すと純兄の後について二階を降りた。リビングへ行くと両親はもう寝室に行っているみたいだった。

 

「道子ちゃんは呑まないって?」

 

「うん。あいつは明日朝早いから寝るってさ」

 

 キッチンの戸棚からロックグラスを二つを取り出して、純兄は机に置くと二つのグラスに日本酒をなみなみと注いだ。そして一つを私に渡すと純兄はグラスを近づけて「乾杯」と言った。純兄と乾杯して、私はごくりと日本酒を呑んだ。堪らない。とても美味しいお酒だ。

 

「純兄は明日仕事じゃないの?」

 

「明日から仕事だよ。でもさっき寝たから平気」

 

「呑む気だったのか」

 

「そうだよ。折角久しぶりに呑めるから」


「大吟醸なんていい日本酒だね」

 

「買っては呑まないけどな」

 

「私も。誕生日に美沙に貰ったバーボン空けて呑んでるだけど凄い美味しいの。フォアローゼズって言う薔薇の絵が描いてあるやつなんだけど」

 

「あーよく見かけるやつか」

 

「料理はしないけど、お酒は良く作ってるんだ」

 

「仕事もお酒提供してるんだっけ?」

 

「そうそう。ハマっちゃったよね」

 

「桐花がお酒好きなのは随分前からだろ」

 

「そうだけど、より詳しくなったってゆーか」

 

「なるほどね」

 

 純兄はグラスを一旦置いてキッチンに戻ると何やら簡単なつまみを作りだした。私はその様子を見ながら、ぐいと日本酒を呑んだ。冷やで呑むにはちょっと匂いが強かったけど、ただ酔うのにはこれ以上の酒はなかった。私は机に置かれた雨の詩を書いたノートをぱらぱらとめくって流し読みしてから、新しいページを開いた。私の中で沢山の言葉が堰き止められた川の水のように溜まっていた。直ぐにでも詩を書きたかったけれど、ペンがなかった。ほろ酔いで、そう思っていると純兄がつまみを作って戻って来た。

 

「カマンベールチーズがあるなんて、ラッキーだぞ!」

 

「本当だ。何であるんだろ?」

 

「俺が買った」

 

「カマンベールチーズが冷蔵庫にあるなんて酒呑みだなぁ」

 

「もっとチープなつまみがいいんだけど、見たらつい食べたくなっちゃって買っちゃったんだよね」

 

「私はこんな高価なもの気軽に買えないよ」

 

 オリーブの酢漬けを齧って私はそう言った。煙草が吸いたくなったけど、実家だと言うことを思い出して辛くなった。酔うと、何故こんなに煙草を欲するのだろう。私は自分が大分いい酔い心地の中にいることに気づいた。それから大して何を喋ったのかは思い出せないけれど、純兄も私の詩をとても褒めてくれたことだけは覚えている。結構酔ってきたら私はどうしても煙草が吸いたくなったので、純兄にをリビングに待たせて、外に一服しに行った。雨は変わらずにざーざーと降り続いていた。私は酔いで、自分の頬っぺたが火照っているを感じた。傘をさして家の前を少し歩いてから煙草を取り出して、一本咥えて火をつけた。至福の一服。脳に悪いのがわかってるからこそ美味く感じた。

 

 リビングへ戻ると純兄は机に突っ伏して右手にグラスを持ち左手に日本酒を抱えたままの格好でぐーすかと寝ていた。私は何だかその格好が可笑しくて、しばらく一人でにやにやと笑った。ロックグラスに三杯目だったから、多分二合半は呑んでいたと思う。私はもう少し酔いたかったから純兄の手を振り解き、日本酒をもう一杯なみなみと注いだ。明日仕事じゃなきゃ、絶対に顔に落書きしてやるのに、そお思いながら私はスルメイカを左の奥歯でかみかみして味わった。

 

 酩酊するまでには至らなかったけれど、私はそのあと四杯目を呑み切って眠ることにした。純兄は私が肩を揺すって起こすと、立ち上がってゾンビが歩くようにうだうだと自分の寝室へと消えていった。私も階段を上がる頃にはふらふらだった。ただ、雨の詩を書いたノートだけはしっかりと持って自分の部屋へ戻った。その日はベッドがぬりかべのように迫るような感覚に襲われながら私は眠った。

 

 

 翌朝、案の定私は軽い二日酔いだった。またもや、母に起こされて朝食を食べてからそのまま駅まで送ってもらって帰りの新幹線に乗った。たった二日間だったのにも関わらず、倍くらい長く旅をしたような気分だった。新幹線のシートが大っきくて安心した。その静かな走りに身を任せて私は景色もろくに見ずに眠った。八王子辺りで目を覚まして、私は通り過ぎる車内販売のお姉さんからコーヒーを買って飲んだ。新聞紙を濾過したんじゃないかってくらい不味いコーヒーだったけど、何故かお陰で頭痛はおさまった。都会の建物が目に入って懐かしさと物騒がしさを感じた。桐世婆ちゃんのことを思い出して、家族が恋しくなった。それでも私は東京には象のいる公園が待っていてくれる気がした。

 

 新宿に着いても雨は降り続いていたのでビニール傘と煙草を買って電車を乗り換えた。マンションのある駅に着いて、私はその足で真っ直ぐに象のいる公園を目指して歩いた。あの草はまだあるだろうか?私はもしかしたら、もうないんじゃないかと思った。無かったからきっと、あれを私は幻だと思うだろうな。象のいる公園に着くと、変わらずに誰一人としていなくて、しーんとしていた。私は家族に会ったようにやわらかな笑顔になって象をしばらく見つめた。きりっとした象の瞳と目が合う。私は心の中で、桐世婆ちゃんとさよならしてきたよ。と象に伝えた。象は何も言わなかったけれど私は伝えられたことに意味があると思った。近寄ってみると象の下には二十センチ程の背丈になった麻が生き生きと生えていた。純兄には話せたけれど、他の人には言えない気がした。私はブランコに座っていつものように煙草を吸った。その後、二日酔いが治ったのをいいことに、私はコンビニにビールを買いに行くことにした。一人になれて嬉しかったけれど、少しさみしい気持ちもあったので、酔っ払いたかった。お昼ご飯のことをすっかり忘れてたけれど、スーパーに行くのは面倒くさかったので、私はコンビニでアスパラとベーコンを買ってまたパスタを作ることにした。そしてビールもちゃんと六本入りを買ってマンションへ帰った。

 

 明日から七月だ。ベーコンとアスパラのパスタを食べ終えた私は満腹でカレンダーを見ながら何だかちょっと焦った。夏が来るのに全く予定がない。彼氏もいないし、遠面の間のことを思うと絶望的だった。そんな沈んだ気分でいると、LINEに平くんからメッセージが来た。

 

 桐花ちゃん

 この間はありがとう。

 来週の月曜日から一週間

 友達とグループ展をやるから

 よかったら

 美沙ちゃんと一緒に

 遊びに来てね!

 詳細は画像を見てね。

 

 私はメッセージを見て、なんていいタイミングなんだと、平くんの間の良さに感動した。直ぐに返事を打って、私はそのまま美沙に電話をかけた。

 

「もしもし、美沙?今平気?」

 

「あー桐花!大丈夫だよ。今、仕事終わったとこ。どうしたのー?」

 

「あのさ、春にみんなで花見した時にいた平くんって言う絵描きさん覚えてる?その平くんが来週の月曜日から絵のグループ展示をやるからって誘ってくれたんだ。美沙も都合よかったら一緒に行かないかと思って」

 

「あー覚えてるよ。しゅっとしたイケメンの人だよね。絵描きさんなんだーすごい。えーっとね。次の水曜日だったら休みだから行けるよ?」

 

「ほんと?じゃあ美沙も一緒に行こ」

 

「うん。誘ってくれてありがとね。電車乗るからまたね」

 

「あ、うん。わかった。またね」

 

 そう言って私は嬉しくなって電話を切った。夏の予定が出来た。幸先いい。これで仕事も頑張れそうだ。美沙に桐世婆ちゃんのことは言えなかったけれど、焦らなくていい気がした。私は気分が良くなり冷蔵庫で冷やしたビールを飲むことにした。ビールを開けて私は美沙にグループ展の詳細をLINEで送った。

 

 

 三日も休んでしまったけれど、ガールズバーの仕事はなんの影響もなかった。他のスタッフがいたから、私なんていなくても店は普通に回っていた。ちょっとナイーブな気持ちになったけど、仕事を再開するといつものペースを取り戻せた。客足は変わらず私はいつも通りに仕事をこなした。平くんのグループ展が楽しみで、それまでに雨の詩集を完成させたいと思った。その裏腹で、私は水帆さんが来ないかと毎日期待していたけれど、なかなか彼は顔を見せてはくれなかった。

 

 七月七日。仕事へ行く前の午前中。私はたまには本でも読んで教養を蓄えようと、家から一番近い図書館へ本を借りに行った。新刊のおすすめの本が並ぶスペースの向こう側には、色とりどりの短冊が沢山ぶら下がった大きな笹が飾られていた。一つ一つにそれぞれの願い事が書かれていて、私はほっこりした。笹の隣には、誰でも願い事を書いて飾っていいように短冊がペンと一緒に机に置かれていたので、私は"世界が平和でありますように"と書いた。本当は個人的な願い事が浮かんだけれど、公共の場に書くには相応しくないと思ったので、心の中だけで願うことにした。だけど織姫と彦星に願う願い事は、短冊に書かないと意味がないのかな?と思った。

 

 本は五冊まで借りられたので、私は齋藤孝さん著書の"声に出して読みたい日本語"の①と②を一冊ずつと、よしもとばななさんの"サウスポイント"を一冊。それから銀色夏目さんの詩集を二冊、借りた。持ってきたトートバッグがずしりと重くなり、私は嬉しくなった。帰りの電車で座れたので詩集を読んだら、泣いてしまった。言葉の力に小さな心の枷を取り除かれた気がした。そうして私の夏も悪くない気持ちになれた。

  

 グループ展まであと一日となった日に、ふらっと水帆さんはやってきた。水帆さんは黒いYシャツにベージュのパンツと草臥れた革のサンダルを履いていた。髪は寝癖かと思うくらいぼさっとしていて、そのモサさが私には逆に格好良く見えた。水帆さんはいつも通りにジンライムを頼むと、煙草に火をつけて酒を待っていた。私は手早くジンライムを作ると水帆さんにそっと渡した。

 

「ジンライムお待たせしました」

 

「ありがとう」

 

「お久しぶりです」

 

「久しぶり。桐花ちゃん元気?」

 

「私は元気です。でも先週お婆ちゃんが亡くなっちゃって」

 

「おお、それはご愁傷様。それで先週いなかったんだ」

 

「あ、私いない時に来てくれたんですか?なんか申し訳ないです」

 

「いや、いいんだ。友達と一緒だったから」

 

「それなら良かったです。お友達もサーファーの方ですか?」

 

「そうだよ。俺の相方!来週から一緒にハワイだよ」

 

「えー遂に決まったんですね」

 

「うん。お試しで二ヶ月だけだけどね」

 

「そうなんですか、楽しみですね」

 

「やっと一歩前進だよ」

 

「でも、水帆さんいなくなったらさみしくなります」

 

「九月の中には日本帰って来るからまた、すぐ会えるよ」

 

「お土産話楽しみにしてますね」

 

 私はそう言って満面の笑みを作って見せた。あざとさを自分に感じたけれど、これくらい自分の気持ちを表さないと、水帆さんの心を掴めない気がした。既に美人の彼女がいてもおかしくないのだけど会話する回数が少なくて聞き出せなかった。夏の間は水帆さんに会えないと思うと、ちょっと泣けた。私の夏は一人さみしく過ぎて行くのか。水帆さんに向こうでボインの彼女が出来る妄想をして余計に悲しくなった。私なんてすぐに忘れられてしまいそうだ。私は苦し紛れに水帆さん聞きたかったことを一つ聞いてみた。

 

「水帆さんの煙草ってなんて銘柄ですか?珍しいから前から気になってたんですけど」

 

「ん?これはガラムって煙草だよ。一本吸ってみる?」

 

「え、いいんですか?ください。仕事中だから、終わったら吸ってみます」

 

 水帆さんは、その赤と金色の箱から煙草を一本、すっと取り出して私に渡してくれた。私はその煙草を大事に両手で受け取った。

 

「ありがとうございます」

 

「癖のある煙草だから、苦手な人は駄目かも。匂い嗅いでみ?」

 

 私は言われるままに、鼻に近づけて煙草の匂いを嗅いでみた。うん。確かに変わった香りがした。きっと私はこの煙草を気に入る気がした。

 

「サーフィンしてると海水で口の中がしょっぱくなるんだけど、この煙草吸うと甘さとクローブの成分で口の中が麻痺して塩分を感じなくなるんだよね」

 

「そうなんですか。いい香り」

 

「あと唾液の分泌を促すから脱水症状を防ぐんだってさ」


「サーフィンには最適ってことですね」

 

「そうなんだよ」

 

「私、この煙草の匂いが好きなんです」

 

「俺も相方が吸ってて、匂いがいいなぁと思って気になって吸ってみたんだよね。でもこの煙草の匂いって吸ってる人にはそんなにわからないんだ」

 

「えーそれは不思議ですね」

 

 水帆さんはジンライムで唇を濡らすようにグラスに口をつけて一口、二口と呑んだ。私は恥ずかしくなって目を逸らす。すると水帆さんはわざとらしくガラムを喫った。匂いと記憶が重なる気がした。私は水帆さんの雰囲気による威圧感が好きなんだと思った。水帆さんの触れるもの全てにオーラが纏わりつく感じがする。その存在感が私にとって一番気になる要素なのだ。でもそれでいて嫌な感じがしない。普通の男だったら、きな臭い感じがしてしまう筈だ。水帆さんはそれをギリギリのとこで回避している。彼のスピリットがそうさせるのだろう。ジンライムを呑み終えると彼は大目に支払って立ち上がって言った。

 

「このあと、他でお呼ばれだからそろそろ行くわ。しばらく会えなくなるけど、桐花ちゃん元気でね!」

 

「はい。いつもありがとうございます。水帆さんもお元気で!九月にまた会えるの楽しみにしています」

 

 水帆さんは笑顔で手を振って店を出て行った。私は彼の記憶に残っているだろうか。一方的な想いが膨らんで胸がきゅっと痛んだ。二ヶ月も会えないなんて、、、私は先のことがわからなすぎてフリーズしてしまった。水帆さんがいなくなってから、店の前まで見送りすればよかったと、ちょっと後悔した。でも、そんなことしたら同僚になんて言われるか。既に私が水帆さんのことを好きなこともバレそうなのに。余計にこの職場に居づらくなってしまう。それだけはどうにかしても避けたい。私は面倒事は避けたいのだ。平穏に暮らしたい。出来れば何も気にせずに、ふーんって思いながら世界を傍観していたい。

 

 仕事を終えた帰り道。私はまた象のいる公園に寄った。明日から平くんのグループ展だと思うと、気持ちを切り替えられた。何着て行こう?この頃、全くおしゃれしてないな。黒のワンピースしか思い浮かばない。けど、この間平くんに会った時も同じ服を着てたことを思い出してやめた。帰って考えよう。私はそう思ってから、水帆さんにもらった煙草を咥えた。なんだかわくわくして火をつけると本当に独特な味がした。甘い。そして煙に包まれるような濃さ。指先を見つめて、私は病みつきになるだろうと思った。煙を吸い込むとパチパチと音を立てて燃えた。変わらずに象のいる公園と私。だけど変化を受け止めないと、何もかも変わっていく。私はガラムを喫いながら、象を見つめた。

 

 水曜日。珍しく雨が上がっていい天気だった。私は平くんのグループ展が楽しみで、目覚ましよりも早く九時前に起きることが出来た。トーストにブルーベリージャムを塗って朝食をすませてから、ぱっとシャワーを浴びて髪を乾かした。黒のダメージジーンズ(ワンピース同様これもお気に入り)に白のビックTシャツを着て、まぁこれでいっかと、鏡を見た。美沙からのLINEをチェックして、待ち合わせの駅まで行くことにした。


 私が煙草を吸うのを知っていて美沙は駅前の喫煙所近くで待っていてくれた。久しぶりに会ったけれど、彼女のこう言う気遣いが私はとても好きだ。

 

「美沙!おはよう。待った?」

 

「おはよー私も今来たばっかりだよ」

 

「そっか、それならよかった。何か食べに行こうか?」

 

「タピオカ」

 

「いいね」

 

 サクッとタピオカ屋さんを検索して私達は向かった。平くんのグループ展をやってる場所もそこから割と近くみたいだったので、とりあえずタピオカを買って飲みながら歩いた。地図通りに進むと、通りに面した建物がギャラリースペースになっていて遠巻きに見ても絵が展示してあるのがわかった。店の角にはベンチがあって平くんが座って誰かと話しながら煙草を喫っていた。

 

「平くーん!」

 

「わーあ桐花ちゃん美沙ちゃん!いらっしゃーい。こんな早くからありがとー」

 

「すごい開けたとこなんだね。すごい。これなら通りすがりの人も見ていってくれそうだね」

 

「そうなんだよ。あ、こちら一緒に展示してる木戸さん。木戸さんは油絵を描いてるんだ」

 

「初めまして木戸です」

 

「初めまして木戸さん。桐花です」

 

「初めまして美沙です」

 

「どうも、二人ともゆっくり見ていってください」

 

 木戸さんは髭も髪ももじゃもじゃで見た目が凄かった。ヘンプの上下と言う格好も含めて、もう一目でわ〜アーティスト〜って言う感じで私は嬉しくなった。平くんにつられて私も横で煙草を吸った。美沙は空になったタピオカの入れ物を指さして「桐花、これどうしよう?」と言った。すると平くんが「ゴミなら捨てちゃうよ」と、私もぶんも一緒に受け取ってくれた。

 

「ありがとう」

 

「ありがとうございます。中入って大丈夫ですか?」

 

「うん。入っていいよー。じっくりと見てって」

 

「お邪魔します」

 

 そう言うと美沙はギャラリーの中へ入っていった。平くんは煙草を消すと、タピオカの入れ物を二つ持って中へと消えた。私は木戸さんと二人きりになったので何か話さないと、と思っていたら木戸さんの方から話し掛けてきてくれた。

 

「桐花ちゃんは近くなの?」

 

「あ、はい。二駅隣です」

 

「そんな近いんだ。俺、千葉からなんだ」

 

「千葉ですか。いいですね。海近いですか?」

 

「うん。そうだね。海近くだよ」

 

「作品すごっく楽しみです」

 

「平くんの絵がすごいよ」

 

「中見てきますね」

 

 私はそう言って煙草を消して、中へ入った。十畳くらいのスペースのそこは壁が全部白塗りで床はコンクリートだった。展示された絵には小さなプレートが隅にあって、作者と作品の名前が書かれていた。私は端から絵を一つずつ見ていった。作品を追って見ていくとどうやら詳細通り三人のグループ展らしかった。一人は多田千代子と言う人で、やさしい水彩画の絵だった。人物と花が細い下書きの線で丁寧に書かれていて、そこに薄く解いた絵の具が繊細に乗せられていた。もう一人は木戸明さん。木戸さんの絵は油絵で描かれた静物画だった。果物だとか、本だとか、そう言うものが荒っぽい筆先のタッチではっきりと描かれていた。描いた本人を先に知っていると、余計にその雰囲気が乗っかって趣きとして感じられた。そして平景悟。平くんの絵。平くんの絵はもう何て言ったらいいか、色彩の爆発。色のサウンド?抽象画なのに見ているとどんどんと理解してしまうような不思議な絵だった。私はその中でも"眠りの産物"と言う絵が一番気に入った。

 

 ぐるっと一周作品を見終えると、平くんが奥のスタッフルームから出て来て私の隣に立ってこっちを覗いた。

 

「どう?新作」

 

「いや、もう。平くん天才!やっぱり基礎が描けてるからこんなに上手く描けるんだろうなぁ。この間、私、象のいる公園の絵見た時も感動しちゃったもんなー」

 

「実は象のいる公園のカラーバージョン描いたんだ」

 

「え、本当?買う。私に売って」

 

「お代はこの間貰ってるから十分だよ!帰りに持ってて」

 

「平くーん。本当にいいの?なんか申し訳ないな」

 

「ううん。全然、気にしないで、今回も作品買ってくれる人いると思うから」

 

「また、なんか絶対お礼するよ」

 

「いいって。来てくれただけで本当感謝してる」

 

「平くん。私、平くんに影響されて、なんかクリエイティブなことしたいと思ってね。前回会った時から詩を書いてるんだ。よかったらこれ読んでみて」

 

「詩?すごいね」

 

 私は思い切って平くんに雨の詩を書いたノートを渡した。恋人に手紙を送るよりも何だか恥ずかしかった。平くんはその場で棒立ちして、私の詩集を読み始めた。物凄く緊張したし、永遠のように長い時間のようにも感じた。平くんはノート一冊ぶん全部の詩を読み終えると、長く黙っていた口を開いた。

 

「桐花ちゃんにこんな才能があるとは思わなかった。すごいね。詩って詳しくないけど、こんなに言葉がすっと自分の中に入って来るのは初めてだな。何だろう?子供の頃に戻って初めて言葉を知るような、そんな感じ。すごい才能だよ。続けなって、きっと桐花ちゃんの詩に救われる人がいつか出てくるから」

 

 私はちょっと泣きそうになるくらいに嬉しかった。桐世婆ちゃんのことも含めて溜まり切った言葉を詩にしていたから、平くんの言葉でとても救われた気がした。自分の作品に、感想を貰えることがこんなにも嬉しいことだとは思わなかった。

 

「私にも見せて」

 

「いいよ」

 

 隣で聞いていた美沙も詩集を見てくれた。平くんの時ほど緊張しなかったのは美沙とは昔からの仲だったからかもしれない。iPhoneの時計を見ると十一時だった。徐々にギャラリーには人が集まっていて賑やかくなってきていた。美沙は詩集を読み終えると私にノートを返してからにっこり笑って「桐花らしい」とだけ言った。長い感想よりも率直で嬉しかった。私はそのあと平くんから象のいる公園の絵を受け取った。いつも見慣れたあの象が切り取られて手元にいた。それは何とも不思議な感覚だった。私は平くんに何度もお礼を行って美沙とギャラリーを出た。

 

「全員画風が違って面白かったね」

 

「うん。平くんの絵買えばよかったなぁ」

 

「何てタイトルのやつ?」

 

「"眠りの産物"だったかな?」

 

「ああ、あの絵いいよね」

 

「うん」

 

「私、絵貰っちゃった」

 

「象のいる公園の絵でしょ?良かったねー桐花」

 

「嬉しくて泣きそう」

 

「来てよかったね。誘ってくれてありがとう」

 

「うん。よかった。一緒に来てくれてありがとう」

 

「お腹空いたね」

 

「うん。何か食べてく?」

 

「ピザ食べたい」

 

「都合よくあるかなぁ?」

 

 Google検索したら、意外と近くにピザ屋はあった。その時私は美沙は結構強運だな、と思った。そのまま歩いて十五分くらいでピザ屋に着いた。ランチタイムだから、当然のように混んでいて、入り口で少し待たされたけれど、すぐに客が入れ替わって席に案内された。

 

「美味しそーピザ屋さんあってよかった」

 

「それな。美沙、強運だね」

 

「絶対あると思ったんだ」

 

「私も美沙の強運わけて欲しいよ」

 

「なんで、桐花運なんて必要ある?」

 

「そりゃあ、私だって運に恵まれたいよ」

 

「力むと来ないのよ。自然にしてるのが一番」

 

「美沙に言われてもぴんと来ないなぁ」

 

「よーし決めた」

 

「私も決めたよ」

 

 美沙は手を挙げて店員さんを呼んだ。少し経つと店員さんが来てメニューを聞いてきた。美沙は三種のチーズのピザ。私はマルゲリータピザを頼んだ。久しぶりに天気がいいだけでも運がいいのかな、と思ったけれど、私は口にはしなかった。そのあと焼き立てのピザが来てピザカッターでピザをカットしていたら何だか幸せな気持ちになった。何も予定がないけれど、何だかんだで夏がもうすぐそこまで来ている気がした。

 

 電車の中で美沙と別れて、私は帰り道に象のいる公園に寄った。グループ展を見てから、なかなか興奮が覚めなかった。芸術に対する人間の力を垣間見た気がして、言葉以上の何か凄いエネルギーを得た気分だった。象のいる公園に着いて私はいつものブランコに座った。そうして平くんに貰った絵を取り出して、本物と比べてみた。写真とまではいかないけれど、物凄く写実的で象のいる公園の良さが凄く良く描かれていた。私は何でこんなに上手に描けるのか不思議でならなかった。煙草を取り出すと空っぽだった。仕方なく私は駅前へ戻って煙草を買いに行くことにした。

 

 煙草屋に着くと、水帆さんの吸っていたガラムが置いてあった。私はいつもはセブンスターを吸っているのだけど、ガラムを買って、象のいる公園へ戻った。

 

 パチパチと燃えていくその煙を喫って、私はさみしさを紛らわせた。なんか、ずっと一人でいいような、気になったし、水帆さんや、元彼のことを考えて一喜一憂するのはバカらしくなってしまった。そんなことより、私は詩を書かないと、とそう思った。他者はちっとも私を満たしてくれない。そりゃあ、平くんみたいな類稀な才能を持った人もいるけれど、私だって、誰かに感動を届けたい。私は私で完結していないといけないな、と思った。象のいる公園が変わらずにここにあるように私は誰が何と言おうと私でいよう。

 

 煙草を吸い終えて、周囲を警戒しながら象にこっそりと近づくと、罪の意識からか、とてもドキドキした。象の下の麻は、もう象のお腹につきそうなくらい大きくなっていた。私はそろそろ刈りどきだろうかと思って、そして、じっくりと考えて梅雨明けまではもう少し様子を見ることにした。

 

 

 それから何日か仕事をしていたら、梅雨が明けたことをニュースで知った。いくらクーラーの温度設定を調節しても、居ても立っても居られない暑さだったので私はマンションから象のいる公園へ逃げ出した。象のいる公園の周りにはそこそこ背丈のある木々があったから、丁度いい木陰が出来ていて涼しかった。珍しく公園には親子連れが二組いて、ブランコと滑り台が占領されていたので私は象のお尻の方が見えるベンチ座った。遊具に夢中な子供が象の下の大麻に気付く筈はなく、七夕で短冊に書いた通りに世界は平和だった。子供たちがはしゃぐ声に私はにやりとして、自販機にジュースを買いに行った。炭酸が飲みたかったのでキリンレモンを買った。夏は始まったばかりなのに過ぎて行くのがさみしかった。それでも夏が終われば水帆さんに会えると、私は自分に言い聞かせた。

 

 キリンレモンを飲みながら、私は目の前に来てしまった夏を、心の底から楽しんでやろうと思った。けれど、私一人で夏を楽しめることなんて、手持ち花火くらいしか思いつかなかった。世の中の大人は、夏、何をして遊ぶのかな?やっぱり夏といったら海だろうか。スイカとかかき氷もいいよなぁ、、。水帆さんに影響されて変えた煙草を私は平然と吸った。煙草をガラムに変えたことで、煙草を吸っても元彼のことを思い出さなくなる気がした。想うのは水帆さんのこと。私は彼の面影を想像してガラムを喫った。

 

 ベンチに戻って煙草を消して、私はトートバッグに入れて持ってきた新しい大学ノートに詩を綴った。純兄に道子ちゃん、それに平くんと美沙に感想を貰ったことで私は勢い付いていた。私は彼らに言われたことを思い出して楽しみながら詩を書いた。発表の場はなかったけれど、私はそれで良かった。知人に見せて感想を貰うくらいが、今の私の身の丈には合っている気がした。

 

 子供は元気だな。こんなに暑いのに、走ったり、叫んだり。象のいる公園が賑やかだと、それはそれで嬉しかった。私は子供の一挙一動を見逃さずに詩に留めた。象のいる公園と言う言葉は使わずに詩を書くことは結構むつかしかった。だから私は言葉が浮かぶまで、ぼけっーと子供の様子を見ていた。こんなに楽しい遊びは他にない。私は詩を書くことで、一人で生きる術を身につけた気がした。子供を見ていたら、私もいつか自分が子供を持つのだろうか、と考えたけれど、実感が湧かなかった。大人にはなったけれど、自分が子供を持つまでは、私はずっと子供なんじゃないかと思う節があった。両親の肝の座った安定感は、子育てを終えたからこそ滲み出るものなんだと思う。でも逆に言えば、自分が子供を持つまでは、いつまでも若くいられる気がする。物事に変に達観せず、子供のような視点を持っていると言うのは強ち悪いことでは無いように感じる。それにしても恋愛ってだけで頭が変になるくらいなのに、子供なんて、以ての外だ。このままいくと私はどうやら本能には従えなそうだ。そうやっていろいろと頭を悩ませていたら、いつの間にか子供達は居なくなっていた。さっきまで騒がしかった公園に取り残された象と私がいた。キリンレモンを一口飲んで私は深いため息を吐いた。あの草が子供達に見つからなくて、ちょっとだけ安心した。私は日に日に気持ちが膨れ上がるように今か今かと心の中タイミングを伺っていた。

 

 マンションに戻って、サンドウィッチを作ってお昼を済ますと、美沙からLINEがあった。

 

 大学の友達が

 バーベキューに

 誘ってくれたんだけど

 桐花も行かない?

 

 バーベキューかぁ。LINEを見て私は最初は乗り気じゃ無かったけれど、何だか楽しそうな気もして、返信で場所と日にちを聞いた。直ぐに返事が来て、今週末の金曜日に多摩川でやると美沙は答えた。私は少し考えるから時間をちょうだいと返信した。考えてみたら美沙の大学の友達なんて知らない人ばっかりだ。美沙が他の人と話してたら一人だけ寂しい思いをするかもしれない。でも、多摩川でバーベキューなんて何だか楽しそうだ。夏の思い出作りには持ってこいじゃないか。そうやっていろいろ考えてるうちに仕事の時間が迫っていたので私は慌てて準備をした。

 

 三時過ぎに、いつも通り歩いて出勤すると同僚の女の子達二人はもう仕事に取り掛かっていた。仕事着に着替えてから私はビールのサーバーを繋げてドリンカー周りの開店準備をした。昨日発注した欠けていたお酒を何本か開けて定位置に置いて、カウンターを拭いてドリンクメニューと灰皿を並べた。そのあと床に箒をかけてから、私は看板メニューを書いた。これが大体いつも一連の流れで、もう何も考えなくても出来るようになっていた。そうして大方準備を終えると、開店まで煙草を吸って待つのだ。

 

「あれ?桐花さん、その煙草の匂いお客さんで吸ってる人いますよね?」

 

「あーそうなんだよね。なんか進められて気に行っちゃって」

 

 同僚の安子ちゃんが私の吸ってるガラムに気付いた。

 

「この煙草、大麻誤魔化す為に吸うんでしょ?」

 

 二つ年上の真希ちゃんが私達の会話を聞いていてそう言った。動揺して私は指先を見つめてから答えた。

 

「へーそうなんですか」

 

「なんか私の友達がそう言ってたから本当だと思うよ。最近はアイドルグループも大麻で捕まってるから怖いよねぇ、」

 

「そうなんですか」

 

 大麻と言う言葉を安易に人から聞いて私は焦った。自分の吸ってる煙草がこんな風に話題になるとは思っていなかったから尚更、驚いた。私は心の中の秘密にしているワードを抜き出されたような気がした。そのあと開店まで安子ちゃんと真希ちゃんは二人で喋っていたから何とか会話に加わらなくて済んで事を得た。

 

 店を開けるといつも通り客がやってきて酒を飲んだ。一時間もしないうちに店内は満員になり忙しくなった。私は余計な雑念が消えて、仕事に没頭した。

 

 仕事を終えた帰り道、私は何となく大麻のことを考えながら歩いていた。麻の繊維は衣類として馴染みがあるけれど、現物の大麻となると話は別だ。だけど、何で日本では規制されているんだろう。いつだか読んだ元彼の持っていた大麻関連の本の中には、大麻を吸うと気持ちが穏やかになって、戦争が出来なくなるみたいなことが書いてあった。私は当時はふーんって思うくらいで大して何も考えてなかったけれど、それって実際恐ろしいことだ。そんな風に思い返していたらコンビニの前に着いたので私は中に入った。

 

 六本入りのビールとあたりめを手に取り、私は入り口の所に置いてあった手持ち花火を買った。そのまま歩いて私はいったんマンションに帰った。そして、マンションにつくと、風呂場のバケツと花火とビールを持って象のいる公園に向かった。

 

 象のいる公園に着いて、麻の葉を確認する。もうこれが私のルーティンになっていた。水道でバケツに水を組んでから缶ビールを一本取って私は思いっきりプルタブを引いた。夏はやっぱりビールだよなぁ。と思いつつ。煙草に火をつけた。煙草を咥えたまま、私は手持ち花火を開けて一本手に取り、ライターで火をつけた。

 

 しゅごーと言う音を立てて花火に火がついた。

 

 私は一人でハイテンションになって花火を続けた。

 

 色取り取りの花火が勢いよく燃えて、煙になって消えていく。私はそれを火が消える度に一本ずつバケツに捨てていった。そうして新しく火をつけると夜の闇に弧を描くように私は花火を振り回した。ビールの酔いがだんだんと回ってきて、気分は最高だった。

 

 大人になると、本当の意味では、夏休みなんて無い。私は思い立って花火を買ったけれど、そうでもしなければ夏を満喫出来そうもない気がしたのだ。それも一人でやることに意味があると思った。それに思ったけど、バーベキューでみんなと花火なんてしたら、リア充みたいでなんだか嫌だったのだ。

 

 象のいる公園は煙に包まれた。そうして勢いのある手持ち花火は終わって、線香花火だけが残った。

 

 私は線香花火が最後まで落ちなかったら願い事が叶うと言うのを信じていたから膝を抱えて座り、慎重に線香花火に火をつけた。

 

 小さな小さな妖精のような火花が散って、赤い火の玉が出来上がっていく。私は心を穏やかに落ち着かせて、手の震えを抑える。でも、その段階になって、私は願い事を思ってみたけど、ぱっと思ったのは、水帆さんに会いたいと言う願いだった。火の玉は大きくなって、パチパチと火花が散った。

 

 あ、っと思うと。

 線香花火は地面に落ちて消えた。

 

「くやしー」

 

 私は小声でそう言うと、残りの線香花火も火を付けて順に燃やした。けれども一つも成功しなかった。そりゃ水帆さんには九月まで、会えないけどさぁ、と私は思った。え、もしかして水帆さん向こうでなんかの事故で死んじゃうとか?そんなの嫌だ。と私は一瞬思った。そんなはずないと頭を振って私は立ち上がった。

 

 象と私が公園にぽつんといる。

 

 さみしいようでさみしくはなかった。私は二缶目のビールを飲み干して、三本目を開けた。バケツに溜まった燃え滓の花火達を見たら、やり切れないくらいの虚しさに襲われて胸が詰まった。

 

「はー満足した」

 

 私は独り言を言ってからブランコに座って、持ってきたあたりめの袋を開けた。

 

 象のいる公園のない生活を私は考えられない。多分、家よりもずっと長い時間を象のいる公園で過ごしている。屋根さえあればここで寝泊まりしたいくらいだ。

 

 あたりめを齧りながら私は象に向かって「いつもありがとう」と呟いた。そうして煙草に火を付けて、煙を喫った。

 

 煙を見ながら、私はずっと一人でいると独り言を言ってしまうことに気がついてちょっと恥ずかしくなった。象は何も言わずに私の方を見つめているようだった。象に別れを告げてバケツを持って私はマンションに戻った。想像以上に一人花火は楽しかった。私は一人で花火を決行したことで踏ん切りがついて美沙に誘われたバーベキューに行くことにして、LINEの返信を打った。

 

 

 それから仕事をしているうちにあっという間に金曜日になった。私はお昼前に起きて軽く掃除をしてから、シリアルに牛乳をかけて食べて、美沙との待ち合わせの時間を象のいる公園で待った。

 

 象の下を見ると、麻はネットで検索した画像くらいあからさまに大きくなっていて、もうバレるんじゃないかと思うほどだった。私はバーベキューから帰ったらいよいよこの葉っぱをなんとかしようと思った。そうでないと誰かが見つけて取られてもおかしくない状態だった。やっぱりスコップくらいは用意しないと上手く回収出来ないだろう。何かで包んで隠して部屋まで持ち帰るといいだろうか。気持ちはどんどん犯罪者の思考のようになっていた。でも私の中では善悪よりも、好奇心の方が圧倒的に勝っていた。

 

 美沙はバーベキューをするには不似合いなくらいのふわふわのロリータファッションでやってきた。ここまで空気の読めてない格好だと面倒ごとは全部男共がやってくれそうだと思った。

 

「おはよー待った?」

 

「おはよう。ううん、いつも通りだよ」

 

「行こっか」

 

 私は美沙と並んで駅に向かった。美沙と比べると私はとてつもなく女らしさに欠ける格好だった。

 

 電車に乗って多摩川へ向かう。一人で散歩しに行った時以来だったけど、思いの外わくわくした。

 

「私、馴染めるかな?」

 

「大丈夫だよ。ビール飲んで、肉食べてたら、バーベキューだから」

 

「そりゃあそうだけど、、」

 

「心配しなくていいって、桐花可愛いから男の方から話かけてくるって」

 

「まぁ、俄然呑むつもりではいるんだけど、結構人来るのかな?」


「十四、五人は来るらしいよ」

 

「賑やかそうだね」

 

 なんとなくどーでもいい会話をしているうちに多摩川近くの駅に着いて私達はバーベキュー場まで歩いて行った。

 

 会場に着くと美沙に気づいて友達が手を振ってきた。他にも沢山人がいて私はとても緊張して、早くビールが飲みたくなった。

 

「美沙!久しぶり!」

 

「久しぶりだね〜!誘ってくれてありがとう。あ、友達の桐花だよ」

 

「桐花です。初めまして」 

 

「初めまして、静香です。よろしくね。今、やっと人が集まって来てね。炭を熾してるとこなの」

 

「そうなんですか。何か手伝いますか?」

 

「火は熾してもらってるから大丈夫みたい。美沙ちゃんと桐花ちゃんは何飲む?それと先に会費を頂いていいかしら?」

 

「私はハイボール!」

 

「あ、私はビール下さい」

 

「ハイボールとビールね」

 

 そう言って二人で静香ちゃんに会費を渡して、バーベキューは始まった。天気も良くて最高のコンディションだった。

 

「もう焼けるぞ」

 

 内輪をばたつかせながら軍手をした赤いTシャツの男性がそう言う。私達は飲み物を受け取って、置いてあったクーラーバックの中のから野菜を探した。

 

「何から焼きますか?玉ねぎ?」

 

「いいね。肉も焼こうよ。火がついたから俺も飲もうかな」

 

「乾杯しましょう」

 

 美沙に金魚の糞のようについて私はビール片手に紙皿と箸を持って、食べる気満々だった。

 

「それじゃあ、皆んな飲み物持ったかな?えーっと主催の大窪です。なんつーか、夏を楽しみたいと思って、思い切ってこのバーベキューを企画しました。皆で色々協力しながら楽しんで飲めたら最高だと思います。長々しい挨拶もあれなんで、ちょっと皆さんのお手を拝借して、、えー乾杯!」

 

「乾杯!」

 

 一同が、赤いTシャツを着た大窪さんの一声で乾杯した。私はビールが呑めればもうそれだけで良かったので、一重に満足した。それぞれが肉と野菜を焼き始めて、私もその場に溶け込んだ。

 

「多摩川って思ったより大っきいんだね」

 

「美沙、初めて来たの?」

 

「私も初めて来ました」

 

 とりあえず私は静香ちゃんと美沙に連むことでその団体に何とか溶け込んだ。でもまぁ、ビールを飲んで酔い始めたから緊張はかなり和らいできた。私はトングを使い野菜と肉を交互に焼きながら、話に加わった。

 

「私は多摩川好きで、よく散歩に来るんです」

 

「え、いいですね」

 

「ホタテもあるから焼こうよ。バターあるかな?」

 

 と大窪さん。彼の呑みっぷりがすごく良くてビールが何倍か美味しい気にさせられた。呑みの席にこう言う人がいるといいなぁと私はビール片手に思った。美沙はあまりお酒を飲まないから呑む人がいて安心した。私は兎に角酒好きなので一目を気にせずどんどん呑みたい質(たち)だった。

 

「あ、チューブバターありましたよ!」

 

「おお!肉が焼けたら焼こう!ちなみに買い出しは今回、俺と峰山くんでしたから皆んな峰山くんに感謝して!」

 

「そうなんですね」

 

「峰山くんありがとう」

 

「峰山さんありがとー」

 

「いや、こんなのお安い御用っすよ」

 

 峰山くんと言うキャップを被った濃い眉のひょろ長い背格好の男はハイボール片手にそう言った。酔っ払い始めると私は誰と話しても楽しい気がして不思議だったけど、この峰山くんと言う男は普段なら苦手なタイプの人間だった。

 

 肉が焼けて、私は誰よりも先に一人で食べた。バーベキューで肉を食わないやつは嫌いだ。私はホタテなんて邪道だと思ってる。

 

「焼けた焼けた」

 

「タレですか?」

 

「もう、味ついてるよ」

 

 煙が上がって場内に肉の臭いが漂う。他の団体もいたけれど、始めたのはこっちの団体の方が早かったみたいだ。私は二本のビールを開けて、好調だった。

 

「お、スペアリブなんてあるじゃん、これ焼こうよー」

 

「おおーいいねぇ、ニンニクも丸のまま焼こうぜ」

 

「何それ、超うまそうじゃん!」

 

「お前、ニンニクの丸焼き知らないのかよ。旨いぜぇ」

 

 男達の会話を聞いていたら、気が遠くなるほど酒が美味かった。もう、私的にはこの匂いと空気だけで、永遠と呑めると思った。やっぱり外で食べると美味しいねぇ。私は誰に言うのでなく心の中でそう思っていた。私は無意識のうちに内輪を手に取っていて少し中休みした。カルビとかそう言う肉をもっと食べたいので、じわじわと焼く系の肉は私の敵なのだ。

 

「桐花顔真っ赤だよ。大丈夫?」

 

「まだ二本だよ!大丈夫、大丈夫」

 

 心無しか、私のテンションは高かった。何なら、この場で一位二位を争うくらい楽しんでいる自信があった。美沙に心配されて、陽キャでもないのにこの感じはまずいと思い三本目はちびちび呑むことにした。網の上ではホタテとスペアリブが焼かれていて私は一旦ステイした。

 

「うまそー」

 

「もう、焼けたかな?」

 

「ホタテはいけそうだね」

 

「私も食べたーい」

 

 他人の会話が遠くに聞こえる。そもそも大学のサークルの集まりなんだから、今更になって場違い感を感じたけれど、いいのだ。私は些細な夏を楽しみたかったのだ。これを断っていたら私は唯、仕事を熟すだけの虚し夏になっていた筈だ。低迷していたら、ビール三本目を飲み干していた。網が空いたので私はカルビとハラミをいっぺんに焼こうと肉を並べた。美沙は友達と話していて私は一人で肉を焼いた。上質な油に火が移って火力が上がる。

 

 鱈腹に肉を食べて、私は満足した。共同トイレに行ってから戻ってきて、五本目の缶ビールを開けた。ビール片手にちょっと川縁を歩きながら、ポケットから煙草を取り出して、私は火をつけて、ふっと喫った。私は煙草の匂いで水帆さんのことを思い出した。背格好、ぼさぼさの髪。指先の入れ墨。そして低い声と笑った時の口の形。水帆さんの姿は意外にも自分の中で鮮明だった。今頃、ハワイで波に乗ってるのだろうか。自分の生活とは違う世界線の人のことを思うと、地球の広さと言うか、宇宙の不思議さを思った。

 

 私はバーベキューの輪に戻って、会話しながら食べたり呑んだりを続けた。雲がなかったので太陽がずっと出ていて多摩川はひっきりなしに暑かった。その分冷えたビールが美味しく感じた。

 

 三時過ぎ。会場からちょっと離れた所で大窪さん達がスイカをシートに並べてスイカ割りを始めた。私はそれをビール片手に見ていたけれど、めちゃくちゃ楽しかった。目隠しでなかなかスイカが割れない人達を見ていたら、笑が止まらなかった。

 

 散々楽しんで、夕方になるとちらほらと人が減っていったので、私と美沙もその流れに乗って帰ることにした。酔ったまま電車に乗ると白昼夢を見ているような感覚に陥った。

 

「美沙、この間さぁ、平くんが言ってたけど、同棲するなら一人の時間を大事にするといいってさ」

 

「一人の時間かぁ、そう言えばなかなかとれてないなぁ」

 

「今日は彼も来るかと思った」

 

「どうしても仕事休めなかったみたいなの」

 

「そっか。彼氏元気?」

 

「うん。またDJイベントやる時呼ぶよ」

 

「おっきいスピーカーの音で呑むの好きなんだよなぁ」

 

 ガタンゴトンと揺れる電車に揺られて酔いが回った。美沙は先に電車を降りて、私は一人取り残された。二駅前で降りて、私はホームセンターに向かった。スコップを買うのだ。いよいよ決行するとなると、私は犯罪者そのものだった。

 

 ホームセンターに着いて、ぐるっと一周お店の中を探すと私はピンクの移植ゴテを見つけた。それだけをカゴに入れてレジに並んだ。罪悪感に苛まれて目のやり場に困った。買ったスコップを手に私は駅に戻って、ドキドキしながら電車に乗った。

 

 象のいる公園に行くのは夜がいいだろうか?いざ決行しようと思っても私はたじろいでしまった。酔っ払っているのもあって失敗しそうな怖さがあった。ずっと見守って来たから、私の頭の中では麻の葉っぱは水帆さんの姿以上に鮮明だった。そうやって電車の中で思いを巡らせていたら思いの外、早く降車駅に着いてしまって、私は挙動不審になってしまった。

 そのまま歩き続けて数分すると象のいる公園が見えてきた。結局、象のいる公園を通り過ぎて、私はマンションに先に帰った。ここ一番の勇気が出なかった。現実的な罪よりも、あんなに神聖で綺麗なものを自分の手にしてしまうのには違う意味で抵抗があった。せめて酔いが覚めるまで待ちたかったので私は辺りが暗くなるまで仮眠することにした。そうしたら気持ちもすっきりしているかもしれない。私は化粧を落としてから歯を磨いてベッドで横になった。

 

 

 目を覚ましたの十一時だった。体中の水分がアルコールかと思うくらい気怠かった。エアコンの設定温度を低くして、私は冷蔵庫のオレンジジュースをコップに注いで一気に飲み干した。二杯目を汲んで飲み。体に必要な水分を補給した気がした。意を決して、私は今日買ったピンク色のスコップを持ち、象のいる公園に向かうことにした。

 

 静かな夜の象のいる公園。

 私はとりあえずいつものようにブランコに座って、煙草に火をつけ、出来るだけ普通に振る舞った。辺りの様子を伺うと穏やかでいつも通り平和な象のいる公園があるだけだった。人気はなく、街頭に羽虫が集まっていた。ただいつもと違うのは、私が片手にスコップを持っていると言うことだった。しまった。採ったあとに何か包むものを持ってくるのを忘れてしまった。でももうここまで来たら引き下がれない。目の前の象の下にはあの神聖な草が私を待ち受けているんだ。

 

 煙草を一口吸うごとに、胸が高鳴った。こんな気持ちになったのは初めてだった。麻を採って、家に帰るまでの間、誰にも見つからなければ、私の勝ちだ。手にしてしまえば、そこには私には未知の効能が待っている。いつもより煙草一本が長く感じた。煙草を携帯灰皿で消して蓋を閉め、私はブランコから立ち上がった。そして、象の方へとゆっくりと近づいていった。

 

 象の下をみた。

 私は目を疑った。

 ない。麻の葉がない。

 なんで?

 

 そこには土を少し掘り返した。不自然な痕跡があるだけだった。私はショックのあまりスコップを手放して、ぺたんとそこに座り込んでしまった。

 

 辺りを見回す。何も変わらない象のいる公園と私がいるだけだ。ただ、あの神々しいほどの大麻はすっかりと姿を消していた。私は呆気に取られ、何か証拠がないかと探した。すると、象の後足の辺りにハンカチが落ちていた。私は立ち上がって、それを拾い、叩(はた)いてゴミを落とした。ぱっと柄を見て驚いた。私が元彼にプレゼントした筈のポールスミスのハンカチだったのだ。

 

 じゃあ麻を持って逃げたのは元彼?でも何で象のいる公園に?私と別れてからも元彼は来てたってこと?私は兎に角混乱した。真相を確かめたくても、私と元彼はもう、気軽に連絡を取り合えるような関係ではなかった。どうすることも出来なくて私はそこに立ち尽くした。


 数分考えて、私は大麻の行き先が、元彼の手元なら、何だかそれはそれでいいような気がしてしまった。有るべきものが有るべき場所へちゃんと行き渡ってるような気がしてしまった。

 

 私はブランコに戻って、ゆっくりとブランコを漕ぎながら、もう一度象を見た。象の下の秘密を知らなければ何も変わらないのに、象のいる公園はもう昨日とは違う空気が流れていた。私は何だか、少しだけ、ずっと抱えていた罪悪感から解放されたような気分になった。同時に手元に残ったハンカチを見て複雑な気持ちにもなった。元彼が別れを切り出した理由はもしかしたら、この事の所為なのかもしれない、とすら深読みした。そう思うと、私は急に辛くなって泣き出しそうになった。きっとこの気持ちを世界で誰も理解してくれない。失恋から立ち直れていない自分を知った。私は象をみてぐっとかなしみを堪えた。好奇心を一気に削がれたような空しさの中で私はもう一度煙草を喫った。煙が当てもなく空に消えていった。

 

 

 それからもどかしい気分のまま何の変哲もない平凡な日々が過ぎて、お盆が来た。実家へ帰ろうかと思ったけれど、あと一歩の気力が湧かなかった。日々の中で、何か大切なものを失ったやり切れない気持ちが続いてた。初めから何も無かったけれど、私の目の前で起こったことは幻のようで全て事実なのだった。私はあれからずっと、元彼のことが気掛かりだった。何処かでばったり再開しないかとか、自ら電話をしようとか、何度も何度も考えた。でも私は自分が神様に試されているような気がして、無理にでも乗り超えたかった。

 

 もうちょっとしたら水帆さんがハワイから帰って来る。この世はどのくらい自分の力で変える事が出来るのだろう。宇宙の片隅。私は一人ぽつんと象のいる公園で時が流れるのを待つしかなかった。

 象は変わらずにその大きな瞳で、私を見つめていた。

 

 完

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象のいる公園 @jjjumarujjj

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