第10話 私を探して

 彼女がお風呂から出て来ると、次はぼくがお風呂に入る番だった。

 脱衣所。ぼくは制服を脱ぐ。


『新田一を探せ』

 と腕に文字が書かれていた。

 ぼくは新田一を救い出すために転生して来た。

『新田一は透明人間に魅せられている』

 と文字が書かれていた。


 お風呂に入れば、この文字は消えてしまうかもしれない。

 文字は消えれば書けばいい。

 だけどお風呂に入っている最中に彼女のことを忘れてしまうかもしれない。

 彼女の事を忘れてしまったら、ぼくの脳みそはココにいるという辻褄が合わなくなってパニックになるだろう。

 彼女の事を忘れてしまうとぼくは家から出て行くかもしれない。

 彼女から離れてしまうと2度とぼくは新田一のことを思い出せないかもしれない。

 少しでも新田さんから離れるのが嫌だった。


 コンコン、と脱衣所の扉からノックが聞こえた。

「はい」

 とぼくが返事をする。

「開けても大丈夫?」

「大丈夫」

 とぼくが言う。


 脱衣所の扉が開く。

 ピンクのモコモコのパジャマを着た新田一が脱衣所に入って来た。

 意外なパジャマだったけど、それはそれで可愛い。


「まだ入ってなかったの?」と彼女が尋ねた。

「うん」とぼくは頷く。

 新田さんが綺麗に畳まれた浴衣を持っていた。

「お爺ちゃんのやつだけどサイズは合うと思う。コレを使って」

「ありがとう」

 とぼくは礼を言って、浴衣を受け取った。

「やっぱりお風呂に入るのやめとくわ」

 とぼくは言った。

「どうして?」

「君から離れると、さっきみたいに新田さんの事を忘れるかもしれない」

「そう」と彼女が言う。「それじゃあ浴衣だけでも着替えたら?」

「そうする」

 とぼくは言う。


 推しのヒロインが浸かった湯船に魅力は感じていた。キモくてすみません。でも推しの湯船ってファンからしたら聖水以上に価値があるものなのだ。

 だけど彼女から離れたくない、という気持ちの方が強かった。


 ぼくはズボンを脱ごうとチャックを下ろした。

「ちょっと待って」

 と彼女が言って脱衣所から出る。

「そこにいて」とぼくが言う。「遠くに行かないで」

 8巻で新田一がいなくなって、新刊が発売されることなく永遠に待ち続けた日々のことを思い出す。

 そこにいてほしい。遠くに行かないでほしい。

「わかった」

 と彼女が脱衣所のそばで返事をした。

 ぼくは急いで浴衣を着た。

 どうやって浴衣って着るんだろう?

 この長い布をお腹に巻きつければいいのか?

 出来た。


 脱衣所から出る。

「なんか変」

 と彼女が言って、浴衣の帯を巻き直してくれる。

 シャンプーの匂いがする。

 新田さんが帯を巻き直すためにぼくのお腹に腕を回した。

 嬉しすぎてクラっとする。

 彼女がぼくを上目遣いで見上げた。

「どうしたの? 立ちくらみ?」と新田さん。

 実際にぼくはクラっとしていたらしい。

「大丈夫」とぼくは言った。

 この場面を忘れたくない、とぼくは強く思った。


「ペンある?」

 とぼくは尋ねた。

「なんで?」と彼女が尋ねる。

 ぼくは彼女に文字が書かれた腕を見せた。

「ダイニングメッセージをもう少し書いておこうと思って。この文字だって汗で消えかけているし」

「ダイニングメッセージって、そういう時には使わないと思うよ」

 と彼女が言う。

 ちょっと待ってね、と彼女が言って居間に戻って行く。

 ピグミンのように彼女の後をぼくは追う。


 新田一は棚からサインペンを取り出した。

「ありがとう」

 とぼくはペンを受け取った。

 油性だった。最高である。

「どこに書こう? 消えにくいところがいいよな」

 とぼくが呟く。


 浴衣の下にシャツを着ていた。

 それをめくってお腹に書こうとした。帯があるので鳩尾らへんになる。

 自分ではお腹に文字は書きにくい。

 お腹に文字を書こうと思ったら浴衣が邪魔するのだ。


「私が書いてあげようか?」

 と彼女が言った。

「お願い」

 とぼくは言って、彼女にペンを渡した。

 割れていないお腹の上に彼女がペンで文字を書く。

 くすぐったい。


『私を探して』

 と彼女がぼくの体に文字を書いた。


「君の事を忘れても絶対に探すから」

 とぼくが言う。 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る