第2話 血の雨が降る 3
気づいた時、彼女は一面の花畑の中に横たわっていた。
「……ゲホッ、ゲホッ!」
激しくえづいて、飲み込んでしまった臭い血液を吐き出す。
体中血まみれだ。
『汀、大丈夫か? 返事をしてくれ』
圭介の声に返そうとして、汀は自分を囲んでいるつたに手を伸ばし
「痛っ!」
と言って手を引っ込めた。
彼女がいたのは、真っ赤な薔薇が咲き誇る、一面の薔薇畑だった。
無数の棘がついたツタに囲まれ、彼女は起き上がろうとして、ビリビリと病院服のすそが破れたのを見て、舌打ちをした。
「……攻撃性が強すぎる」
『それが痴呆症の特徴だ。理性の部分のタガが外れてるからな』
「寒い……」
肩を抱いた汀の頭上、そこからプシュッ、と言う音がした。
良く見るとそこは広いビニールハウスで、天井にはスプリンクラーがついている。
そこから、勢い良く血液が噴出した。
たちまち豪雨となり、痛いくらいに汀の体を、生臭くて生ぬるいモノが打ち付ける。
たまらず、汀は足を踏み出して、薔薇の棘で全身を切り刻まれるのも構わず、走り出した。
スプリンクラーが強すぎて、息も出来ない。
『汀、何があった!』
「大丈夫! 何でもない!」
悲鳴のように答えると、彼女は近くの薔薇の茂みに飛び込んだ。
僅かに血の豪雨が防げる場所に、体中を切り刻みながら入り込み、小さくなって震える。
とても寒かった。
「何でもない……大丈夫。私やれるよ……」
か細く、ヘッドセットにそう言う。
圭介は一瞬沈黙してから、言った。
『頑張れ。俺はお前を、応援してる』
「分かった……」
頷いて、汀は近くの薔薇を手にとって、小さな手が傷つくのも構わず、それを毟り取った。
そして大きな棘を、自分の左腕、その手首につける。
グッ、と力を込めると、棘は簡単に柔肌にめり込み、たちまち汀の腕から、ものすごい勢いで血が溢れ出した。
痛みに顔をしかめながら、彼女はビニールハウスの地面……血が溜まってきたそこに、自分の血を垂らした。
ジュゥッという焼ける音がして、汀の血が当った場所が蒸発した。
左腕を掴み、血を絞り出す。
「そんなに血が好きなら……好きなだけ飲ませてあげるわよ。好きなだけね!」
もう一度汀は、自分の腕を棘で切り刻んだ。
ボタボタと血が垂れる。
汀の足元、蒸発した空間から、白い光が漏れ出した。
それが円形の空間に変わり、真っ白い光を放ち始める。
汀は、棘を掻き分けてそこに飛び込んだ。
◇
病院服も破り取られ半裸で、体中に切り傷をつけた状態で、汀は高速道路に横たわっていた。
のろのろと起き上がり、空を見上げる。
曇り空で、黒い雲があたりに広がっている。
また血の雨が降るのも、時間の問題のようだ。
『死んじゃえばいいのに』
そこで、何も走っていない高速道路に、子供の声が響いた。
『お爺ちゃんなんて、死んじゃえばいいのに』>
別の男性の声がした。
『お爺ちゃんは、死んだ方が幸せなのかもしれないよ』
『もうお爺ちゃんは、元にもどらないの?』
『お爺ちゃんは、幸せな世界に行ったんだよ』
『だから、ね』
『現実の世界の、この体は、さよならしよう』
キキーッ!
ブレーキの音が聞こえる。
汀は、慌てて振り向いた。
自分めがけて、巨大なトラックが迫ってくるところだった。
避けようとしたが、体が動かない。
小さな体は、ブレーキをかけたトラックにいとも簡単にはねられ、数メートル宙を舞ってから、糸が切れたマネキンのように地面に崩れ落ちた。
『汀!』
圭介の声が聞こえる。
汀は、したたかにコンクリートに打ち付けた頭から血を流しながら、ぼんやりと目を開いた。
そして、はねられた後だというのに、のろのろと起き上がる。
腕と足が異様な方向に曲がっており、満身創痍にも程があると言った具合だった。
トラックの運転席には、誰もいない。
今は停まっているそれを見て、彼女はゆっくりと振り返った。
ケタケタと、写真で見た壮年男性が笑っていた。
十メートルほど離れた場所に直立不動で立って、目だけは笑っていない顔で、笑っている。
ポツリ。
また、血が降ってきた。
汀は、荒く息をついて、彼に向かって口を開いた。
「……あなたに、輸血が出来なかった」
か細い声だった。
「事故に遭ったあなたは、宗教上の理由で輸血をしてもらえなかった」
ケタケタと男が笑う。
「だから、あなたは狂ってしまった」
血の雨が強くなった。
「麻痺が残った体で、あなたは段々と夢の世界に逃避するようになっていった」
汀は、男に向けてズルリと足を引きずった。
あたりに豪雨がとどろき渡る。
汀は、男の前に時間をかけて移動すると、その焦点の合わない瞳を見上げた。
そしてさびしそうに口を開く。
「あなたが探しているものは、もうどこにもないよ」
男は、いつの間にか笑っていなかった。
真正面を凝視している彼に、汀は続けた。
「元になんて戻れない。一度狂ったら、狂い尽くすしかないんだよ。この世は」
男が手を振り上げ、汀の頬を張った。
何度も。
何度も。
汀は殴られながら、悲しそうな顔で男を見上げ、そしてその手を、折れていない方の右手で掴んだ。
「でも、そんなのはさびしすぎるから」
男の目が見開かれる。
「私が、狂い尽くすことを、許してあげる」
血のスコールの中、汀は男を引き倒した。
そしてその上に馬乗りになり、まだパックリと開いている自分の左腕の傷口を彼の口に向ける。
ポタポタと、汀の血が、男の口に入った。
男が悲鳴を上げて、滅茶苦茶に暴れる。
それを押さえつけ、汀は血を彼の口の中に絞り出した。
しばらくして、徐々にスコールが止んできた。
やがて雲が晴れ、空に青い色が見えてくる。
晴れた空の下、汀は力なく横に崩れ落ちた。
男は、どこにもいなかった。
彼女はボロボロの体で、ヘッドセットのスイッチを操作して、呟いた。
「治療完了……目をさますよ」
◇
「三島寛治。六十九歳。高速道路で、車から転落。その後、病院に運ばれるも、家族に宗教上の理由で輸血を拒否され、十分な治療が出来ずに体に麻痺が残る。後にアルツハイマー型痴呆症の悪化と自殺病を併発……か」
大河内は資料を読み上げ、それを圭介に放った。
「もっと早くこの資料を見つけてれば、ダイブは初期段階で成功してたんじゃないか?」
「それを汀に見せたのは、ただ単なる気まぐれだよ。規定概念がダイブに影響すると、余計な状況を招く恐れがあるからな」
「それにしても……やはり、見せるべきだったと俺は思う。七回もダイブする必要はなかったんだ」
汀の部屋で、大河内は立ったまま、すぅすぅと寝息を立てている彼女を見下ろした。
「ここまで負担をかけることもなかった」
「負担? 何を言ってるんだ」
圭介はピンクパンサーのコップに入れた麦茶を飲んで、続けた。
「仕事だよ」
「お前……」
大河内が顔をしかめて言う。
「口が過ぎる」
「そういう性格なんだ。知ってるだろ?」
「汀ちゃんにこれ以上負担をかける治療を行っていくっていうのなら、元老院にかけあってもいいんだぞ」
「脅しか?」
「ああ」
「…………」
少し沈黙してから、圭介は息をついた。
「やるんならやれよ。前みたいな失敗を、繰り返したいんならな」
「…………っ」
言葉を飲み込んだ大河内に、圭介は薄ら笑いを浮かべて言った。
「結果が全てだろ。所詮。元老院だって分かってるはずだ。今回のダイブだって、アメリカの症例二件を含めなければ、日本人で初のアルツハイマー型痴呆症患者の治療成功例として登録されたんだ。褒められはすれど、怒られるいわれはないね」
「人道的な問題というものがある」
「人道的……ね」
圭介はFAXの方に近づいて、資料を手に取った。
「じゃあ、最初からやらなければ良かったと、お前はそう言うのか?」
「ああ、そうだ」
「助けなければ良かったというのか?」
「助ける? お前、自分が何を言っているか分かってるのか?」
大河内が声を荒げた。
「自殺病を治しただけで、アルツハイマーは治っていない。それが、患者の幸福に繋がっているとでも言いたいのか!」
胸倉を掴み上げられ、圭介は、しかし柔和な表情のまま口を開いた。
「自殺病にかかった者は、決して幸福にはなれない。そういう病気なんだ。知ってるだろ?」
「俗説だ」
「じゃあ逆に聞くが、お前はあのまま、死なせてやった方が患者のためになるとでも言いたいのか?」
「…………」
「なぁ大河内」
圭介は大河内の手をゆっくりと下に下ろし、麦茶を飲んでから言った。
「俺達は医者だ」
「…………」
「そしてこの子は、道具だ」
「…………」
「それ以上でも、それ以下でもない」
大河内は少し沈黙してから、小さく言った。
「なら何故、ここまでする?」
汀の部屋を見渡す。
最新のゲーム機、雑誌、漫画、それらが所狭しと置かれた部屋の中で、圭介は肩をすくめた。
「必要だからさ」
「それだけとは、私にはどうも思えないのだがね」
「皮肉か?」
「それ以外の何かに聞こえたのなら、多分そうなんだろう」
大河内は息をついて、圭介に背を向けた。
「また来るよ」
「出来れば来ないで欲しいんだけどね」
「それは無理な相談だ」
大河内はドアに手をかけ、そして言った。
「私はその子の『父親』でもあり、何しろ『恋人』でもあるんだからな」
「…………」
圭介はそれに答えなかった。
◇
びっくりドンキーの前と同じ席で、汀はゆっくりとメリーゴーランドのパフェを口に運んでいた。
その頭が、眠そうにこくりこくりと揺れている。
圭介はステーキを口に運んでから、汀に声をかけた。
「大丈夫か? 無理しなくてもいいんだぞ」
「久しぶりのお外だもん……無理なんてしてないよ……」
しかし眠そうに、汀は言う。
「この後、本屋さんに行ってね、ゲームセンターに行ってね…………ツタヤにも行って…………」
「そんなに回れないだろ」
「……何でも言うこと聞いてくれるって言ったのは圭介だよ……」
息をついて、圭介は手を伸ばして、汀の前からパフェをどけた。
「とりあえず、店を出よう。一旦車で休んだ方がいい」
「うん……」
頷いた汀を抱きかかえ、車椅子に乗せる。
「高畑様、お帰りですか?」
オーナーが進み出てきてそう聞く。
圭介は頷いて、苦笑した。
「この子がもう限界でしてね。会計は、後ほど」
「かしこまりました」
頷いた彼から、圭介はもうまどろみの中にいる汀に目を移した。
汀は、こくりこくりと頭を揺らしながら、小さく呟いた。
「圭介……」
「ん?」
「あのね……あのね…………」
少し言いよどんでから、とろとろと彼女は言った。
「ずっと、考えてたの……」
「何を?」
「何も分からないで死ぬのと……何も分からないで生きるのって……どっちが正解なのかな……?」
「…………」
「結局何も分からないなら…………何も出来なかったのと、同じじゃないかな…………」
圭介は無言で車椅子を押した。
そして店員達に見送られながら、駐車場に向かう。
「……俺にはまだ、よく分からないけど」
彼はそう言って、車のドアを開けた。
「生きていた方が、多分その方が幸せなんだろうと思うよ」
「…………」
「たとえ何も分からなくても、その方が……」
寝息が聞こえた。
彼は、眠りに入っている汀を見下ろし、息をついた。
そして小さく呟く。
「幸せだと、思うよ」
その呟きは寂しく、かすかな風にまぎれて消えた。
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