昨日と違う今日

「本当に、君が男だったらよかったのになあ!」

(本当に言ったよ、この人)


 翌日、むすび食品の総務室で綾子が言っていたそれが的中した。


 朝から何か気に入らないことがあったらしい尾田は、業務が始まるなり「挨拶の声が小さい」と総務部の人間を叱りつけ、事務課で準備した会議資料が正しく印刷されていないことに気付いて担当者の岬を糾弾していた。殊勝に聞けばいいものを明らかに舐めた岬の態度のせいで尾田がヒートアップし、見かねた果奈が間に入ってリカバリー案を出した、その後の一言だった。


(綾子さんのあやしとしての能力なんだろうか。それともただの第六感? どっちにしてもすごい人だな)


 そんなわけでいま果奈の背中には、庇ったはずの岬や総務部の人間の視線が突き刺さっている。

 きっと媚びていると思われているのだろうが、こんな、どがつくセクハラと男女差別発言をする人に評価されて嬉しいわけがない。果奈はただ仕事をしているだけだ。

 だが今回は綾子にもらった武器がある。


「男だったら、いまのままどーんと構えているだけで出世できただろうになあ」


 いまだ、と果奈は大きく息を吸い、言った。



「そうですね! 私も自分が男だったらよかったのにと思います!!!」



 空気が、凍った。

 部屋にいた人間からデスクに至るまでを大声で震わせた果奈は堂々とした態度で、呆然とする尾田を見返した。




『いいこと、果奈ちゃん?』


 こう言いなさい、と果奈にその台詞を教授した綾子はその際の注意事項も教えてくれていた。


『それを言うときは大声で、部屋中の人間に聞こえるように言うのよ。棒読みで、わざとらしさが出ていたらより良いわ。お前に合わせてやるよ感を出してね』




(私が、いつまでも言われっぱなしだと思うなよ)


 恐らく教わった通りにできたはずだ。何故なら尾田も、総務部の林や他の面々も、事務課の岬と今田も、信じられないものを見るような目をしているからだ。


 そこへ鳴り響いた内線のコール音。

 先に取ったのは林だった。「はい。総務部、林でございます」と答え、さらさらとメモを取って受話器を置く。


「尾田課長。警備員から、来客のご連絡です。設備点検の件だそうです」

「あ、ああ、ビルの……もうそんな時間か」


 まるで救いを見たように尾田はそそくさと立ち上がり、果奈に「まあこれからも頑張りなさい」とおざなりに言って、逃げるように部屋を出て行った。

 そして静寂が訪れた。


(勝った……)


 果奈が静かに勝利を噛み締めた、そのときだった。


「ちょっと果奈ちゃん、何あれ! 最高だったんだけど!」


 淀みない電話応対をした林が壊れたように笑いながら手を叩き始めた。するとそれに釣られたようにあちこちで笑い声が上がった。


「ぽっかーんとしてたなあ、尾田課長」

「っていうか岩田さんってそんな大声出るんだ」

「いつも静かだし、淡々としてるから意外だったね」

「言い返してくれて気持ちよかったわ」


 羞恥心で顔を強張らせた果奈が林を見るとぐっと親指を立てられた。

 恥ずかしい。でも嬉しい。喜ぶのはどうかと思うけど、でも。


(……すっきり、した……!)


 綾子に知らせよう。上手く言ったと伝えて、お礼を言おう。

 それから鬼嶋と相談したことを連絡して、次にいつお邪魔するかを決めるのだ。何が食べたいのかを聞いてそれを作ろう。きっと喜んでくれるはずだ。


 だがそのためには仕事をしなければならない。


「……岬さん。さっきの話ですが」


 面倒くさそうな岬の態度も、彼女のやらかしに対処しなければならないことや自分の仕事の優先順位を考えることも、さっさと片付けてしまおう。




 お弁当と鬼嶋との約束が待つ昼休みまで、あと一時間。

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