小さな勇気

 この日はそれで終わりとなった。何もしていないから、と主張した鬼嶋に後片付けを任せて帰り支度をしていると「果奈ちゃん」と綾子がスマホを取り出した。


「連絡先、交換させて。果奈ちゃんが断っても断らなくても友達になりたいと思ったの。だめ?」


 だめなわけがない。急いで鞄からスマホを取り出して、メッセージアプリの連絡先を交換する。

 新しく登録されたアカウントのプロフィール画像はどこかの植物園で撮ったらしい牡丹の花で、綾子らしいと思った。


「この写真って……金? 岩みたいだけど……」

「石です」


「黄銅鉱だよ」と上着を着ながら鬼嶋が後を引き継いだので、びっくりした。


「あれ、違った?」

「い、いえ。よくご存知だと思って……」

「会社のスマホで連絡先を交換したでしょう? 岩田さんだから岩の写真なのかと思ったんだけど、綺麗な石だったから気になって調べたんだよね」


「黄銅鉱……ああ、黄色い銅ね」と綾子も早速手元のスマホで調べたようだ。


「石が好きなの?」

「いえ、大学生のときに講義で行った科学館で撮っただけです。名前が岩田なので、イメージに合うかと思って使っています」

「うん、きらきらしていて綺麗だよね。普通は黄土色だけど、酸化すると青や赤紫色に変わるっていうのも魅力的だ」


 無自覚ですか? 無自覚ですね?


(それだと私が『きらきらしていて綺麗』で『魅力的』なイメージだと言っているように聞こえます……)


 ただ『固そう』『ごつごつしている』だけで写真を選んだことが申し訳なくなってしまった。

 いたたまれずに込み上げたため息をそっと飲み込み「いい返事待っているわ」と告げる綾子に見送られて、果奈は鬼嶋宅を後にした。


「駅まで送るよ。大丈夫って言ってもついて行くから諦めて」


 先回りして告げた鬼嶋を追い返す技術を持たず、彼と二人、来た道を戻る形で駅に向かう。


「さっき、スーパーの店長さんから電話があったよ」


 夜の気配に紛れるような穏やかな声が果奈に言った。


「弁償は必要ない、むしろお詫びに伺いたいって言われたけれど、お断りした」

「はい」


 とりあえず店前の放置自転車は役所に伝えて撤去してもらうそうだ。駅に近く、店も多い通りなので、自治体は頻繁に撤去しているそうだが、時間が経つと少しずつ増えて、現在のような状態になっていくのだという。保管や処分にかかる経費のことがあって自治体はそう頻繁に動けないものらしい。


「優しい声の店長さんだったよ。非常に恐縮されて申し訳ないくらいだった。壊したのはこっちなのにね」

(……鬼嶋課長も)


 そう言うあなたの声もとても優しいです。

 と、言えたらいいのに、果奈には思うことしかできない。


 すっかり夜に沈んだ街は、電灯の光が白々と眩しい。少し先を歩く鬼嶋のすらりとした長身の影が、より長く、すうっと筆を刷いたように見える。

 冷えた空気に頬を撫でられ、光に浮かぶ吐息の白さを眺めながら、果奈は自分がずっと高揚していたことに気付いた。


(こういうのを、非日常、って言うのかな)


 鬼嶋にスープを引っ掛けてから、二日。なのにまるで一年を過ごしたような濃密さだった。


 責任を感じた。とてつもないプレッシャーだった。

 失敗できないと思った。不安だった。


 でも、頼られたことが、とても嬉しかった。


 厄介ごとに関わりたくないと保守心が叫ぶ。これ以上は面倒なことになると感じている。誰かを助けるよりもまず身を守るべきだと、大人として思う。

 けれど。


(大人になってもわくわくできることが、こんな私にも、まだある)


 愛想がなくてつまらない人間だと自覚していた果奈にとって、それは驚くべきことだった。

 それは奇跡に近しい衝動となって果奈を突き動かす。


「――っ鬼嶋課長!」


 少し先を歩いていた鬼嶋が弾かれたように振り向く。

 周囲に響き渡る大声を発した自分に気付いて果奈は顔を真っ赤にしながらあわあわと辺りを見回したが、そこへ長い足の大きな一歩で近付いた鬼嶋が身を屈めるようにする。


「す、すみ……も、申し訳ありません……!」

「うん。どうかしましたか、岩田さん?」


 怯むな。言葉を飲むんじゃない。

 ただでさえ顔が怖くて声が低くて愛想がない自分なのだ。思いを口にしなければ誰にも伝わらない。


 鬼嶋がすべて汲み取ってくれるわけじゃない。


「……っ、れ、連絡先を、ください!」


 肩にかけた鞄のストラップを、皺になるくらい握りしめる。


「食事を……綾子さんの食事作りを、お手伝いしたい、ので! 会社支給のスマホを使うのは問題があるように感じたので……で、でも問題ないようならそちらにご連絡させていただきますので!」

「はい」


 差し出されたスマホには、メッセージアプリのプロフィール画面。


「会社用じゃない、個人のアカウント。登録してくれる?」

「は、はい」


 スマホを操作する手が震える。わかっているはずの登録作業なのに無駄なところをタップして手間取ってしまったので、新規登録順のリストの一番上に鬼嶋の名前があるのを見て、心底ほっとした。


「登録、完了しました」

「ありがとう」


 社用スマホのプロフィール写真は登録された名前が表示されるデフォルトのものだったけれど、たったいま登録したものは彼個人のアカウントである証拠に、鬼の顔を模したらしい青いケーキになっていた。


「……節分のケーキですか」

「当たり。我が家の節分は豆まきじゃなくてケーキを食べる日なんだよ」


 きっと苗字に『鬼』が入っていることに関係があるのだと思いながら「羨ましいです」と言うと、鬼嶋は「いいでしょう」と嬉しそうに笑った。


「明日出勤だよね? 詳しい話をしたいんだけれど、お昼を一緒にどうかな。ワークブースを確保しておくよ」


 一瞬、友人の忠告と、女性社員たちの刺々しい態度が頭をよぎった。

 だがそれを掻き消したのは綾子の『心が死ぬくらいなら、相手を殴れ』という過激な発言だった。


(いや殴らないけれどね)


 殴りはしないけれど、あんなのに心を殺されるのは腹が立つし殴る価値もなさそうだということは理解できた。

 だから、頷いた。


「はい。お伺いします」


 愛想がないと言われ続けてきた果奈の口元が少し緩んでいたことに、きっと鬼嶋は気付かなかっただろうけれど、それでいい。

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