箱庭を壊して

@shiroigohan

第1話


 鶴は千年、亀は万年。幸せな人生を長く生きてほしい。古くから伝わる言い伝えをなぞり願いを込められた名前を授かった少女、雨霧千鶴の人生は残り僅かと決まっていた。

 誰にでも平等に訪れる死を宣告され、齢十六歳の少女が簡単に受け入れられるはずがない。大人であっても残り三ヶ月という数字はあまりにも絶望的だと言えるだろう。


「……私、あと三ヶ月も生きるんだね」


 だと言うのに、彼女は笑っていた。白いベッドの上で細い指を丁寧に絡ませながら、まるで安心したとでも言うように言葉を吐く。栗色の毛先を肩で跳ねさせ、緋色の瞳でこちらを捉えるから。触れれば折れそうなほどか弱い少女を前に息を呑むだなんて、思いもしていなかったのだった。


***


「とても余命宣告された人間とは思えませんね」

「ふぇ?」


 木々が黄色く色づき、頬を撫でる風が冷たくなってきた頃。夏から秋、秋から冬へと流れる季節を無視するかのように雨霧千鶴の住む病室は快適な温度を保っていた。

 朝早く目覚め、決められた時間に運ばれる食事を口にして、生きる為に必要な薬を体内に取り込む。そうしたところで終わりは決まっているというのに。彼女に余命宣告をしてから早三日、慌てたそぶりも見せずに配膳された白米を咀嚼している。


「普通、自分が三ヶ月後に死ぬって言われたらもう少し動揺するものだと思うのですが」


 少なくとも今まで自分が見て来た人間達はそうだったから。ましてや年端もいかない少女なら尚更だろうと、そう思っていたのに目の前の彼女は呆気からんとした様子でこちらを見つめている。

 これ見よがしにため息を深く吐きながら腰掛けていたパイプ椅子の背にもたれる。うなじから背中にかけて当たる日差しが妙に心地良かった、


「動揺するって言われてもなぁ……ぶっちゃけ私そういうのとずっと一緒にいたわけだし?今更言われても、やっとかぁって感じなんだよね」

「……この時をずっと待っていたと?」

「いや別にそういうわけじゃないんだけどさ」


 なんていうか、とやけに冷静な口調で話していたにもかかわらず不自然なところで言葉を切った。茶碗と箸を置き、紙コップの中のお茶を啜る。癖のある茶髪を耳にかけた手は年頃にしてはいやに細く、その腕に付けられた管と同じくらい細いように見えた。


「死神さんはさ、私の命を貰いに来たってことでいいんだよね?」

「まぁ、そういうことになりますね」

「今すぐ鎌で取っていっちゃえばよくない?」


 随分と軽々しく言うものだから思わず目を丸くしてしまう。別に鎌を振り下ろすことに躊躇いがあるわけではない。ただ、対象者は皆揃って抵抗をするものだからこんな風に提案されることが珍しいわけで。


「あ、それとも本当は天使だったりする?」

「全身黒スーツの天使がどこにいるんですか……できることならさっさとやってますよ」

「じゃあ」

「でも、規約違反なので無理ですね」


 ベッドの柵に手をかけて身を乗り出して来た彼女を手で制する。首を傾げてこちらを見つめてくるものだから背を仰け反らせたくなった。


「寿命の残る魂を無理に刈り取ることは禁止されているんです。私達が回収できるのは天寿を全うした魂のみですよ」

「へぇ……うん?じゃあ、わざわざ早く来なくても死にかけてる時に来た方が効率良くない?」


 妙なところで鋭い子だ。指摘されて一瞬たじろいだのを見逃さなかったのか、好奇心を纏った視線を向けられている。

 余命僅かな人間にはとてもじゃないが見えなかった。しおらしくもせず泣くこともせず、目の前にある未知に対して貪欲。本来であればそれは普通なはずなのに、病室という空間のせいで異質さを放っていた。


「……最後なんです」

「最後?」

「私達死神は神からの命によってあなた達のような魂を回収しているわけなのですが、良質な魂を百個回収することを課せられているわけです」

「百個回収したらなにかあるの?」

「……まぁ、褒美はありますね。教えませんけど」

「えっ、けち!」


 天寿を全うした魂がすべて無事に天界へ還れるわけではない。死んだことを自覚できずに現世を彷徨い続けたり、道中で悪魔に食べられてしまったり。なにかと障害があるから私達死神が回収作業を行っているのだった。

 そうして回収された魂は神の手によって精査され、天国か地獄か行き先を決められる。とは言え、どちらに導かれたとしても輪廻転生から外れるようなことはない。ただ、次の転生までに要する時間が違うくらいで。どちらが早いかなんていうのは皆まで言う必要はないだろう。


「最後というのは、私があなたの魂を回収すれば百個になるというわけでして。せっかくですから、最後に回収する人間がどんな人なのか見ておこうと思ったのですが……」

「えぇ〜、なになに?」

「随分と、こう……厚かましい人だと」


 もっと大人しい人間だと思っていた、というのは偏見なのだろう。しかし、病床に伏している姿が似合わないというくらい雨霧千鶴という少女は朗らかだった。

 頬を膨らませる彼女を他所に足を組み替えて深く腰掛ける。最後だから、せめて最後の人間くらいはしっかりと見ておきたいと。そう思ったけれどやはり辞めておいた方がよかったのかもしれない。今までやって来たように事務的に、ただ褒美の為にこなしていればそれで。


(気の迷いだ……)


 魂を百個回収した死神に与えられる褒美、それは来世を自身が望む姿で送ることができるというものだった。男でも女でも、犬猫でも、なんでもいい。望む姿になれるから命を課せられているのかと言われれば、それはまた違うのだけれど。

 死神も元は人間だ。しかし、罪を犯し神の逆鱗に触れた者達でもある。輪廻転生から外され、再びその環に戻る為に身を粉にしているというわけだった。


「思ったんだけどさ、ずるくない?」

「なにがですか?」

「だって死神さんは私のことあれこれ知っていくわけでしょ?それなのに私は死神さんのことなにも知らないわけじゃん?それってずるくない?」

「ずるいかどうかは……はぁ、なにが知りたいんですか?言っておきますが規約違反にかかることは教えられませんからね」


 魂を回収するうえで規約というものは存在する。無理に魂を刈り取ることがそのひとつで、他にも挙げ始めたらキリがない。

 仮に規約をひとつでも破れば即刻捕らえられてしまう。それまで回収した数もすべて白紙に戻り、輪廻転生からも外されたままだとかなんとか。その辺りが曖昧なのは、違反者から詳細を直接聞いた者がいないからなのだけれど。


「わかってるわかってる!私が知りたいのはねぇ……すばりっ、死神さんのお名前だよ!」

「私の名前?」

「そう!だってずっと死神さんって呼ぶの嫌じゃない?あ、それと私のことは千鶴って呼んでね?」


 有無を言わせない勢いに言葉を失ってしまう。それにいったい何の意味があるのかと言ってしまえば怒涛の勢いで責められそうだ。

 頭を掻き、乱れた髪を適当に手櫛で整える。深く息を吐いて彼女を見れば期待の眼差しが向けられているから。


「凪、です」

「凪さん?」

「はい。これで満足ですか?」

「……」

「あぁ……千鶴さん」

「うんっ、大満足!」


 なにが、と言いかけたところで病室のドアを叩く音がした。重たそうなドアを開けた看護師は、千鶴を見るやいなや不思議そうな顔をする。


「おはようございまーす」

「おはよう千鶴ちゃん……なんでパイプ椅子出してるの?」

「えーっと、それはぁ……あっ、今日の朝ごはん美味しかったです!」


 下手くそな言い訳をしている横顔をじっと見つめる。雪のように白い肌に枝のように細い身体。鮮やかな茶髪と勝気な緋色の瞳がやけに目立つアンバランスさ。少し背中を押したら深い谷底へ落ちていきそうな、そんな不安定さの上に立つ命。

 三ヶ月後、この命が天に昇るのか地獄に落ちるのか。どうせ最後になるのだからその行く末を見守ってやろうと、この時の私は胡座をかいていたのだった。


***


 黄色く色づいていた葉が枯れ落ち、裸の木々が目立つ頃。時の流れは早いものだと感傷に浸ったのは死んでから初めてのことだった。

 まだ雪が降るには早いけれど薄着で外を歩くには厳しい寒さ。しかし、病室に篭っていればそんなことを心配する必要もない。


「今日は曇ってるねぇ」

「そうですね」


 だと言うのに千鶴は毎日窓の外を眺めては雲の行先を気にしていた。繋がれた管の数が増え、身体を起こすこともままならなくなっているというのに、それでも彼女は空を見上げる。それに適当な相槌を打つだけで頬を綻ばせるのだから不思議な話だ。


「外寒かった?」

「さぁ?寒さとかよくわからないので」

「えー、凪さん寒がりな顔してるのに」

「どんな顔ですか、それ」


 ベッドの上で横になり、力なく笑う姿を見下ろしている。

 定められた運命からは逃れることはできない。この日に死ぬと決まっていれば死ぬのだ。千鶴にとってその日が刻一刻と近づいて来ているだけであり、そうやって眠りに付く人達をこれまで見て来た。


(やはり、関わるべきではなかったのかもしれない……)


 日に日に弱っていく姿を前に、ありもしない心臓が締め付けられるような感覚に陥る。他愛のない会話をするたびに彼女のことを知り、欲張りになっていく自分がいた。なにより、死んでからこんなに自分の話をしたのは初めてで。生前も同年代の子と親しげに話した記憶はないから、だから名残惜しいだなんて。


「ねぇ、凪さん」

「どうしました?」

「……私、死んだら凪さんと一緒にお仕事できるかなぁ?」


 天井を見つめたまま吐き捨てるように言うものだから、思わず言葉を呑んだ。

 無理だ。死神になる者は皆決まって罪を犯しており、千鶴はそれに当てはまらない。しかしそれを説明することはできないから、代わりに彼女の前髪を優しく撫でた。


「言ったでしょう?私の役目はあなたで最後だと」

「あぁ、そっか」

「それに、あなたは決してこちらには来れませんから……」

「なんで、って聞いても教えてくれないんだよね……?」

「規約違反ですので」

「ざんねーん」


 どうしてそんなことを聞くのかと問うことはできなかったし、たとえ答えを聞いたとしても彼女がこちらに来ることを私は全力で拒むだろう。

 死神になる者は皆罪を犯している。それは、自ら命を断つことだ。天寿を全うせず、誰かに理不尽に奪われたわけでもなく、自ら生きることを放棄した者達。その行いは神の逆鱗に触れ償いとして命を課せられる。

 当たり前だと思った。だって、自分が取った行動はあまりにも無責任すぎる。生きたくても生きれない人がいる、と綺麗事を吐きたいわけではないが責められて当然のことだと思えた。

 しかし、そうする選択肢しか残っていなかったのだから仕方ないじゃないか。責めるよりも先に救いの手を差し伸べてほしかったというのは我儘なのだろうか。


「じゃあさ、役目が終わったら凪さんは何したいの?」


 願いをこれから死に行く人の前で話すのはいったいどうなのだろう。躊躇う私のことを淡く光る緋色の瞳が捉えている。


「暖かい布団で眠りたいですね」

「え?」

「それから三食美味しいご飯を食べて学校に行って……部活もバイトもしたことがなかったので挑戦してみましょうか」


 どれも生前では叶わなかったことだから。

 やけに素直に話したことに驚いているのか、その内容に驚いているのか。千鶴は珍しく言葉を見失った様子でまばたきだけを繰り返している。

 恵まれた環境ではなかった。母は幼い頃に亡くなり、父は酒に溺れる日々。酔うと手を上げるものだから荒れた家の中に安心できる場所はなく、かと言って家の外にも居場所なんてなかった。

 痛む脇腹を抱えながら帰路に着く時に、楽しそうに走り回っている子達を見かけて羨ましいと思った。それと同じくらい世界を憎み、未来に絶望した。どうせ生き続けたところで何かが変わるわけがない。それでも死ぬのは怖いから、だから身を小さくしながら生きていたけれど。


(ダメだったな……)


 ある日、ぷつんを糸が切れ気が付いたらビルの上にいた。その日は風が強かったことと、蝉が鳴いていたことだけを覚えていて。次に目を覚ました時には神の前にいたから唖然とした。


「そういう千鶴はなにかやりたいことはないんですか?」

「私?そうだなぁ……」


 言葉尻がふわりと消えていく。再び天井を見つめる千鶴の目には別の何かが映っているようにも見えた。

 千鶴は私にあれこれ聞くくせに自身の願望を口にすることはなかった。それはもうすぐ死ぬからなのかとも思っていたが、少し違うような気もする。その違和感を何と呼ぶのかはわからないまま考え込む彼女を見つめていると病室のドアが鳴った。


「はーい」

「失礼する」

「……っ!」


 わざとらしいくらい高めの声で返事をすれば、返ってきたのは聞いたこともない低い声だった。病室のドアを開けたスーツ姿の中年男性。初めて見る姿だったが、当の千鶴はひどく驚いた様子で。無理に起き上がろうとするからそれを止めようとすると、男性が先にそれを制した。


「そのままでいい」

「……はい」


 手にしていた鞄とコートを置き、私が座っていたパイプ椅子に手をかける。急いで退き、千鶴の背後に回るが私の後を目で追う者は誰もいない。

 顔を見に来ただけだと眼鏡を直しながら男性は言う。その声色に違和感を覚え、ふと千鶴を見やれば元々悪い顔色に拍車をかけているように見えた。


「それで、今日はいったい……」

「来週から仕事で海外へ行くことになった。帰って来る目処は立っていない」

「っ!」

「何も言わずに行ったと知られると病院側にいらぬことを言われそうだから来ただけだ」

「そう、ですか……」

「要件は以上だ。失礼する」

「……はぁ?ちょっと、待っ──」


 僅か数分の出来事だった。男性は自分の言いたいことだけを言って早々に病室を後にする。その後ろ姿に私が何かを言ったところで振り返るわけもなかった。

 閉められた病室内では重々しい空気が漂っている。伸ばしかけた手の行き場を失った私は力強く拳を握った。


「……ごめんね」

「どうして、千鶴が謝るんですか」

「びっくりさせちゃったかなぁって思って……」

「それは、まあ」

「……あの人ね、私のお父さんなの」


 その言葉を耳にした瞬間、体の奥底から沸々と何かが湧き上がるような感覚がした。爪先が手のひらに食い込み、どうしてなのかと千鶴を睨む。そうしたところで目の前の彼女は怯える素振りも見せずに、穏やかな目をしてこちらを見つめていた。


「会社を待っててね、いつも忙しそうにしてるんだ。だからさっきみたいにわざわざ来てくれるこもって滅多になくて……」

「忙しいからって……自分の娘ですよ?放っておけるはずが……」

「兄さんと妹がいるの。私と違って健康で優秀な……だから私ひとりいなくても気にしないんじゃないかな」


 ふざけてるだろう。子供のことをいったい何だと思っているのだ。そう怒鳴り散らしたところで私の声は千鶴以外には届かない。

 大人というのはいうとそうだ。自分勝手に動き、それに振り回される子供のことを何も考えていない。ひとりの人間ではなく所有物として扱い、いらなくなったら捨てる。そんなんだから未来に希望が持てないのだと、どうして誰も気が付かないのだ。


(……だからか)


 あんな親を持っていれば生きることに執着しなくなるのもわかる。三ヶ月しか生きられないのではなく、あと三ヶ月も生きなければならないと嘆きたくなるのも無理はない。

 だから、千鶴は早く私に魂を狩れないのかと聞いたのだ。そうすればここから逃げ出すことができる。未練も何もないこの場所に留まることの方がよほど地獄と言えるのだから。


「さっき、やりたいことないのかって聞いたよね」

「聞きましたね」


 重たそうな身体を起こそうとすれば繋がれた管がバラバラと動く音がする。彼女の側に寄り添い背中を支えるのが死神だなんて皮肉にもほどがあるだろう。

 激しく咳き込む背中を摩る。本来であればこれは親がすることであるはずだ。しかし、肝心の親にそれを期待することはできず、代わりになりそうな親しい友人も千鶴にはいない。孤独なのだと、今更になってそれを重たく受け止める。


「はぁっ、はっ……もう、やりたいことなんてないよ……」

「千鶴……」

「それよりも次に生まれ変わるならって考えてる方が楽しいかも」

「なにになりたいんです?」

「……猫になりたい」


 彼女の言葉を反芻すれば、疲れちゃってと弱々しい声が返ってきた。支えていた身体がゆっくりと私の胸の中に倒れて来る。規則的に鳴る心臓の音、程よい体温、弱々しい呼吸。細い身体はまだ息をし続けているというのに肝心の魂は既に今から目を背けていた。


「好きな時に起きて日向ぼっこして……食べたい時に食べたいものを食べるの」

「野良猫は大変ですよ?」

「あぁ、そうだね……じゃあさ、凪さんが私のこと飼ってよ」

「私が?」

「そう、あったかいご飯ちゃんと用意して、私が満足するまで遊んでよね?」

「我儘ですね」

「だって猫だもん」


 胸元に顔を埋め、ぐりぐりと額を擦り付ける動作は正に猫だと言えた。背中に回された手が温かい。微かに震えていることには気が付かないふりをして、そっと頭を撫でた。


「凪さんがいてくれてよかった……」


 果たしてそれはいったい何を意味しているのか。それを聞く勇気は私にはなくて、ただ黙って彼女を抱き締める。その鼓動も体温も、雨霧千鶴という少女の存在を噛み締めるように力強く。

 そうしたところで運命に抗うことはできず、三日後千鶴はひとり息を引き取ったのだった。






「最後は呆気ないものですね……」


 慌しかった病室は静まり返り、薄暗い中ひとりで佇んでいる。空になったベッドの上を撫でたところでもう体温は残っていない。手の中にある千鶴の魂をぼんやりと見つめていると窓が開き風が吹き込んで来た。

 私と同じ黒いスーツを見に纏った十代後半くらいの男の子。スポーツ狩りの頭にはきはきとした口調から醸し出される爽やかな印象は少し苦手だ。


「先輩お疲れです!」

「……なんで来たんですか?」

「なんでって先輩の勇姿を見届けに来たんですよ!百個達成おめでとうございまーす!」

「病院ですよ、静かにしてください」


 強めに釘を刺せば律儀に口を閉ざす素直さはまだ可愛い方だろう。とは言え、水を差されたことにかわりはないので冷ややかな視線だけを送る。

 そうだ、これで魂を百個回収して私の役目は終わりだ。また人間に転生する夢が叶い、前世とは違って豊かな暮らしを送ることが約束される。

 それをずっと望んでいた。その為だけに今まで身を粉にして働いてきた。それなのに、どうしてこんなにも気持ちが晴れないのか。


「先輩?」

「……ひとつお願いしてもいいですか?」

「はい!もちろんです!」


 何が引っかかっているのか、わからないわけがない。私は持っていた千鶴の魂を後輩に押し付け、代わりに出番のなかった鎌を握った。


「え、せ、先輩?」

「私の代わりにその魂を神の元まで運んでください」

「えっ!?で、でも、これ……それにそんなことしたら先輩の実績になりませんよ!?」

「いいんですよ。他にやることがあるので」


 別に千鶴に頼まれたわけではないし、きっとこれからすることを知られたら怒られるどころの話ではないのだろう。そんなことは望んでいない、馬鹿なのかと。そうやって怒ってくれたらいいのに。

 ずっと怒っていたのだ。彼女がこの生を諦めるようになってしまった原因に、抑えきれないほどの怒りを抱いていた。それを晴らしたところで何も報われない。ただ、怒りが鎮まるだけだ。


「途中で落としたらあなたの首を狩りますからね」

「ちょっ、先輩!」


 颯爽と病室を後にすれば暗くなった街が見えた。その灯りひとつひとつが幸せに包まれていればどれだけよかっただろう。その灯りの中に私と千鶴がいられたら、どれだけ。


「……私、猫アレルギーだったんですよね」


 吐き捨てた言葉は宵闇の中へと消えて行った。


***


 桜の花が風に乗って運ばれている。ひらひらと舞うそれを目にするたびに胸が締め付けられるのはどうしてなのだろう。

 春は出会いと別れの季節だから、気持ちの浮き沈みが激しくなってしまうのかもしれない。なんて、浸るのは自分らしくないなと思い頬を軽く叩いた。


「にゃー」

「ん?」


 小さな鳴き声がしたような気がして辺りを見渡す。しかし辺りは住宅街と小さな公園だけ。もう一度か細い鳴き声がするから、試しに公園の中を探してみることにした。

 滑り台の下、ブランコの影、砂場の中。ひと通り探してみても声の主は見当たらない。


「んー、気のせいかなぁ」


 それでもやはり声は聞こえるからもう一度小さな公園をぐるりと見渡して、ふと上を向けば背の高い木の枝にその影を見つけた。


「いたー!」

「にゃー……」


 枝のところに蹲っている黒い子猫。高いところが怖いのか小さく震えている。待っていてね、と声をかけてブレザーを脱ぎ鞄と一緒に木の幹に立てかけた。

 木登りなんて小学生以来だからできるだろうか。そんなことを考える前に手をかけていた。ゆっくりと落ちないように、そして猫を怖がらせないように登っていく。側から見たら女子高生が木登りをしているという奇怪な光景だろう。


「よ、よーし。ほら猫ちゃーん、怖くないからこっちおいでー?」

「……」

「だ、だめですかねー?」

「にゃっ!」

「えっ、わ、わぁっ!?」


 急に視界が暗くなり、バランスを崩して背中から落ちる。大きな音と共に背中に痛みが走り、情けない声が出た。


「いたぁ……」


 ゆっくりと目を開ければ黒猫の顔がすぐそこにあった。にゃっ、と嬉しそうな顔をして頬を舐めて来るものだから小言のひとつだって言う気も失せる。


「あざといやつめ〜」


 小さな身体を抱き上げて頬擦りをすれば少しだけ爪を立てられて拒否される。しかし私の手からは逃げないから、なんだかそれが嬉しくて。それに、真っ黒なこの子を見ていると無性に泣き出したくなるような気持ちになるから。


「ねぇ、君うちの子になっちゃう?美味しいご飯と楽しいおもちゃ付けちゃうよ?」

「にゃっ!」

「あははっ、いい返事!」


 ぐるぐると喉を鳴らすその子をぎゅっと抱き締めた。まるでずっとこうすることを望んでいたような、言葉にし難い感情が波となって襲いかかって来る。それに呑まれたらいよいよ泣き出してしまいそうだったから、徐に立ち上がり鞄とブレザーを手に取った。


「それじゃあ我が家へレッツゴー!」

「にゃー!」


 腕の中で小さな命が確かに鼓動している。バイト代を使って良いご飯と温かい寝床を用意してあげよう。そうして朝まで遊び尽くして、ふたりで幸せな夢を見られたらそれ以上に幸せなことはないと思えた。

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