約束

金峯蓮華

約束

 大家の南さんから、アパートが都市整備の計画地に入り、立ち退きになるため、替わりの部屋を紹介すると電話がかかってきた。


 ずっとこのアパートで一人暮らしをしていた。古いが家賃も安く快適だったのに引っ越しか。面倒だな。


 この街で小さな不動産屋さんをしている南さんは引っ越し先を用意してくれていた。急に退去をしてもらうかわりに初期費用と1ヶ月分の家賃はいらないという。私は週末にその部屋を見せてもらうことにした。


 南さんと待ち合わせをしたアパートの最寄り駅は初めて降りたのになんだか懐かしい気がした。


「ごめんなさいね。急に引っ越しをお願いすることになってしまって」


「いえいえ、立退きなら仕方ないです。便宜を図っていただきありがとうございます」


 私たちは長年の付き合いで、大家と入居者以上の心安い関係を築いていた。それに“あれ”をやっているからかもしれないが、身内でないのにここまでしてくれて感謝しかない。


 私は見えないものが見える。小さい頃に親から人に言うなと言われたので滅多に言わないが、怖い話が好きな大家さんには、ぽろりと話してしまい、それ以来、事故物件の幽霊確認を頼まれていた。



 そのアパートは、駅前の賑やかな商店街を通り抜けた住宅街にあった。駅から10分位と聞いていたが商店街を通ったせいか、もっと近く感じた。仕事帰りに買い物ができるし、街の雰囲気や空気感がとても心地良い。


「この部屋だけど、どうかしら」


 南さんが鍵をあけ、中に入った。部屋は1階だが角部屋で日当たりのいいリフォーム済みのワンルームだった。


「こんなにきれいな部屋なのにいいんですか」


「いいのよ。すずさんには色々お世話になっているもの。ただね、この部屋なんだけれど……」


 南さんは暗い顔になった。


「いつもすぐに解約になるの」


「事故物件というわけではないですよね」


「もちろん違うわ。アパートを建てる前もずっと空き地だったし、特に曰く付きの場所ではないのよ。それに、事故物件を勧めるわけないじゃない。すずさんのおかげで本当に助かっているのよ」


 南さんは感謝してくれているようだが、私はただ、現場に行き幽霊らしい人物を確認して話をし、天に上がってもらうだけのことしかしていない。


 この部屋は古いが綺麗だし、特に霊の気配を感じないので住むことに決めた。


 

 引っ越しの片付けなどで疲れたので早い時間から布団に入り眠ったが、何かの物音に目が覚めてしまった。カーテンの隙間から見える窓の外はまだ暗い。


 何時くらいだろうと思い、時計を見ようとして顔を上げた私の目に沢山の幽霊たちがバタバタと走っている姿が映った。1時か。

 下見に行った時も引っ越しの時も霊の気配はなかったのに夜中にだけ現れるのだろうか? とにかく明日、この土地のことを調べてみよう。私は布団を頭の上までかぶり眠る事にした。


 朝、起きてから南さんに電話をし、夜中の出来事の話をした。南さんは法務局でもう一度、土地の履歴を調べてきてくれると言う。私もインターネットで色々調べてみたがこれといった収穫はなかった。


 夕方になり南さんがアパートに来てくれた。


「この辺りは昭和40年位から住宅地として開発されたんだけど、ここはアパートが建つまでやっぱり空き地だったわ。登記簿が戦後からしかないのでその前は載ってなかったの。それでね、戦前は何だったのか、母に聞いてみたら、ここは長屋と道だったような気がするって言われたのよ」


 南さんは戦前生まれのお母さんに話を聞いてきてくれたようだ。


「多分なんだけど、角の部屋が道だったみたい」


「だとすると、幽霊たちは今もここが道だと思ってますね」


 南さんは納得したように頷いた。


「母の話では、この辺りは昭和20年3月の空襲でみんな焼けてしまったらしいの。走っているのは空襲から逃げているということかもしれないわね」


「道を走っているので、1階のこの部屋にだけに幽霊は現れるのでしょうね」


 私はすぐにインターネットで昭和20年の3月にこの辺りであった空襲について検索してみた。


 昭和20年3月10日0時8分から2時間程の間に約300機のB29爆撃機が飛来し33万発以上の焼夷弾を投下し、一夜で10万人が死亡したと書いてあった。


 昨夜、幽霊が出たのはその時間帯だ。


「こんな部屋を紹介してごめんなさい。すぐに他の空いている部屋を手配するわ。今日はとりあえずホテルに泊まってね」


 南さんは幽霊が出る部屋を紹介してしまった事を申し訳なさそうにしていたが、下見の時に私も気がつかなかったのだから仕方ない。


 

 ひとりでホテルの部屋にいたが、なんとなくあの部屋が気になってしまい、コンビニでお線香を買いアパートへ戻った。


 やはり今夜も夜中になると幽霊達は右往左往しはじめた。


「あなた達は亡くなっているんです。もう逃げなくていいんです。安心して早く天に上がって家族に会って下さい」


 幽霊達はそう話す私を見て驚いている。


「もう逃げなくていいの?」


「そうよ。家族は天であなたを待っているわ。早く行きましょう」


 幽霊は安心したような笑顔を浮かべた。


 私は幽霊達に向かってお経を唱えはじめた。幽霊達が一体、二体と天に向かって浮上していく。私は何度もお経を続ける。


 気がつくと窓の外が明るくなっているのがカーテン越しに感じられる。


 夜が明けた。幽霊達はあらかた天に上がってくれたようだ。


 私はホテルに荷物を取りに戻り、南さんに電話をした。


「昨夜、ほとんどの幽霊達に天に帰ってもらったので、私はあのアパートに住むことにします。次の部屋は探さなくても大丈夫ですよ」


 その日の空は夜中なのに昼間のように明るかったのだろう。77年前のこの場所に私はいたのかもしれない。


 電話を切り、空を見ていたら、ふとそんな気がした。


 ◆◇◆

  

 引っ越してから半年が過ぎ、新しい部屋にも幽霊にも慣れてきた。


 今日も残業で帰りが遅くなった。店を出た頃から誰かにじっと見られているような気がして落ち着かない。背後に気配を感じる。つけられている? 気配だけで足音が聞こえないから幽霊かもしれない。私は帰路を急いだ。


 家に着くと玄関のドアを開け部屋に飛び込みバタンと閉めた。


「つけられてるの!」


 部屋にいる幽霊達は私の言葉に目を丸くしている。


 この部屋に住むようになってから成仏しないでここに残っている幽霊達とすっかり仲良くなっていた。


 テツさんが私の前に来て顔を覗き込んだ。


「怖がらせてやろうか? 俺達が本気を出せば怖がって、もうつけたりしないだろう」


 確かに幽霊が本気を出して怖がらせようとしたら、人間なら間違いなく逃げるだろう。


「人間じゃないみたいなのよ」


「人間じゃない? 幽霊か?」


「多分、幽霊だと思う」


 私は苦笑いをする。


「すずちゃんは幽霊に好かれ過ぎだな」


 テツさんはそう言うとくくくと笑った。


 テツさんは私の部屋に現れる幽霊達のリーダー的な存在だ。あの空襲で亡くした娘さんを探している。娘さんはきっと成仏してるはずだと言ってみたが「戦争に行った恋人が待っていてくれと言ったから疎開もしないで待っていたんだ。あの剛情っぱりが簡単に成仏なんかするもんか」と笑っていた。


 娘さんも幽霊になっているのだろうか?

 

「幽霊なら簡単だ、どんな奴か調べてみるよ」


 テツさんはそう言って姿を消したまま戻ってこなかった。

 


 それからもずっと付き纏われている。特に何かをするわけでもなく、ただ見ているだけのようだ。振り返って辺りを見渡しても誰もいないが、今も後ろから見られているような気がする。とりあえず当たって砕けてみようかと思い、私は振り返り声を上げた。


「私に用があるのなら、コソコソつけ回さないで正面からきちんと話して下さい」


「……すまない」


少し沈黙の時間があり、小さな声が聞こえてきた。


 声のした方を見ると白い猫を抱いた背の高い男性がいた。


 猫は急に男性の手から飛び降り地面に着地した。そして“にゃ~”と鳴きながら私に近寄ってきて、私の足に身体を擦り付け、顔を上げ私をじっと見る。私と猫はしばらく見つめ合っていた。


 男性が近づいてきて猫を抱き上げた。


「約束どおり戻ってきた」


 私は意味がわからず黙り込んだ。


「やはり僕の事は覚えていないのか……」


「覚えていないというか、そもそも知らないです」


 私の言葉に男性は顔を曇らせた。


「ということだよ。残念だったな」


 声のする方に顔を向けると、テツさんが鼻で笑っている。


「テツさん、どういうことなの?」


「話せば長くなるから、家に戻ろう。お前もついて来い」


 テツさんは両手を頭の後ろで組み、口笛を吹きながら私達の前を歩いている。猫がその口笛に合わせてニャーニャーと鳴く。


 こんな場面を見たことがあったような気がする。


「その口笛久しぶりに聴きました」


 男性がテツさんに話しかける。


「そりゃそうだろう77年ぶりだからな」


 77年ぶり? やはりふたりは生きていた頃の知り合いのようだ。


 猫が男性の腕から飛び降りた。上手に地面に着地し、テツさんの足元に絡みつき抱っこを強請っているようだ。


「そいつより俺の方がいいよな。良い子だ」


 テツさんは猫を抱き上げ背中を撫でる。


「テツさんのお家で飼っていたの?」

「あぁ、うちの猫だ」


テツさんの口笛に合わせる猫の歌は私以外の人には聴こえていない。こんなにも素敵なのに聴こえないのが残念だ。


アパートに到着した私達はドアを開け中に入った。


「とりあえず座って下さい。お茶を入れますね」


 ふたりに座布団をすすめる。猫はテツさんの膝の上で寛いでいるようだ。


 お茶を出し、私も2人の前に座った。


「それで、なんで私をずっと見ていたんですか?」


「君が本当にみっちゃんの生まれ変わりなのかこの子と一緒に見極めていたんだ」 


 彼の話が全く見えなくて考えあぐねているとテツさんが口を開いた。


「すずちゃん、こいつは俺の娘の美月の恋人で朔っていうんだ。こいつが待っていてくれと言ったせいで娘はあの空襲で死んだんだよ」


 苦々しい顔で朔さんを指差した。目を伏せていた朔さんは身体をテツさんに向けて頭を下げた。


「すみません。あの時はまさか本土が空襲にあうなんて思いませんでした。待っていて欲しいなんて言わなければよかった。軽率でした」


 朔さんは乗っていた船が爆撃されて沈み亡くなったそうだ。


 魂だけになり、戻ってきたら、この辺りは一面の焼け野原になっていた。恋人の美月さんは見つからなかったが、この猫に会えたらしい。猫は飼い主とはぐれたまま亡くなり、ひとりで成仏することを良しとせず、幽霊になり、飼い主を探していたそうだ。


 朔さんは恋人がもう成仏してしまったと思い、天に上がり探したが、すでに生まれ変わっていると聞かされ、猫と一緒に会いに来たのだと言う。


「君は間違いなくみっちゃんの生まれ変わりなんだ」


 そんなこと言われても、私には記憶が全く無い。テツさんが探していた娘さんが私だなんて、なかなか自分の中で折り合いをつけられない。


 朔さんはじっと私を見つめている。


 私の思いを察したようにテツさんがふっと笑う。


「俺も戸惑ってるんだよ。すずちゃんが美月だって言われてもさ、はいそうですかって言えないよな」


「テツさんは知っていたの?」


 テツさんの顔を見ると困ったように眉間に皺を寄せいている。


「すずちゃんに付き纏っている幽霊を探していてこいつにぶち当たった。その時にこいつから聞いたんだよ。俺は柄にもなく狼狽してしまって、すずちゃんとどんな顔して会えばいいかわからなくなり、ひとりで色々考えていたんだ」


 テツさんの膝にいた猫が私の膝に飛び移り、上目遣いで甘えるような仕草をしている。テツさんは手を伸ばし私の膝から猫を抱き上げようとした。猫は離れたくなかったのか爪をキュッと立て私にしがみつく。


「こいつは美月の猫だった。まぁ、元は朔が拾ってきて、下宿じゃ飼えないからってうちに連れて来たんだ。お前も美月に会いたかったんだな」


 テツさんは猫の背中を撫でながら私を見た。猫はニャーと鳴く。


「すずちゃん、前世の事は気にしなくてもいい。俺も気にしないことにした。今までどおりでいこうや」


「そうね。でも私はうれしい。父も母も亡くなってひとりぼっちだったし、前世とはいえお父さんが側にいてくれるんだもの心強いわ」


 私は早くに両親を亡くし、育ててくれた祖父母が亡くなってからはひとりで生きてきた。

 この部屋に引っ越して来た時は幽霊に驚いたが、今となってはここに残っている幽霊達は家族みたいなモノになっている。勝手に父親のように思っていたテツさんが前世の父と知り嬉しくてたまらない自分がいた。


「テツさん、願いは叶ったしもう成仏しちゃうの?」


「いや、まだいるよ。やることがあるからな」


 私は胸を撫で下ろした。他の幽霊達には早く成仏しろと言っているくせに、テツさんがいなくなることには淋しさを感じている。


 猫が朔さんの膝に乗った。


「僕もここにいていいだろうか」


 猫を撫でながら私を見つめる。


「私には美月さんの記憶は無いですが、それでもいいのならいてもらってもいいですよ」


「あぁ、それでかまわない。ありがとう」


 膝の上の猫はにゃ~と鳴きながら私を見ている。


「あなたもいていいわよ」


 私が手を前に差し出すと猫が飛びついてきた。


◇◆◇


 仕事が終わり帰宅しようと店から出ると朔さんが笑顔で立っていた。


「迎えに来たよ。一緒に帰ろう」


 朔さんの腕に抱かれている猫のタマも「にゃ~」と鳴いている。一緒に帰るにゃ~とでも言っているのだろうか。


 朔さんはあれから毎日職場まで送ってくれて、帰りは迎えに来てくれる。周りからは私がひとりで話しながら歩いている気持ち悪い人のように見えているはずだ。


 朔さんもタマも幽霊なので、見えない人には全く見えない。


 アパートに到着し、中に入る。一時期には沢山いた幽霊もほとんどが成仏し今は少ない。


「今日も誰もいないわね」


「僕とタマがいるよ」


 優しく微笑む朔さんに私はドキドキしてしまう。


「テツさんもいないし、どうしたのかしら?」


 そういえばまだやることがあるから成仏できないと言っていたな。それをしているのだろうか。


「テツさんは多分、陽子ちゃんのところに行っていると思うよ」


「陽子ちゃん?」


「あぁ、前世の君の双子の妹の陽子ちゃんだよ」


「今も生きているの?」


「うん。でも、もうすぐ天に昇る予定だ。テツさんは陽子ちゃんが天に召されるまでに君を探して一緒に行こうと思っていたみたいだ」


 私は妹に会ってみたくなった。死期が近いなら尚の事会いたい。


「会えるかな?」


 朔さんの顔を見た。


「今は入院しているからお見舞いと言って入ればいんじゃないかな。テツさんが戻ったら詳しいことを聞いてみたらいい」


 夜遅くにテツさんが姿を現し私の前に座った。疲れているようだ。


「テツさん、陽子さんに会いたいの」


 私の言葉にテツさんは「へ?」と頓狂な声を出した。


「朔さんから聞いたの。妹なんでしょう? 会ってみたいの」


「全くおしゃべりな男だな」


 テツさんに睨まれ、朔さんはばつが悪そうな顔をしている。


「入院してるそうね」


「あぁ、もう長くない。会ってほしいと頼もうと思っていたんだ」


「そう、あの空襲で生き残っていたのね」


「あの時、ばあさんが入院していてな、ずっと美月が付き添っていたんだが、あの夜は急に陽子に代わったんだ。陽子は病院に泊まっていて空襲には遭わなかったんだ」


「そうなんだ。生きていて良かったわね」


「あぁ、でもあの後すぐ、俺が幽霊になって家のあった辺りに戻ってきた時に、そこで陽子が瓦礫を片付けながら『ひとりだけ残ってしまった』と言って泣いている姿を見たよ。ひとりと言ってもばあさんもじいさんもいたんだけどな」


 いくら祖父母がいてもひとりはひとりなんだ。早くに両親を亡くし祖父母に育てられた私にはよくわかる。


「知り合いのふりしてお見舞いに行くからついて来てくれる?」


「わかった」

 


 陽子さんの病室は個室だった。ノックをして病室に入るとベッドに座っている年配の女性がいた。


「こんにちは。お加減いかがですか?」


 声をかけると女性は私を見て首を傾げた。


 私はベッドに近づき側に置いてあった椅子に腰を下ろした。


「陽子さん?」


 私の顔をじっと見ていた陽子さんは急に驚いたように目を見開き、口をぱくぱくさせだした。


「みっちゃん、みっちゃんなんでしょ! 迎えに来てくれたの?」


 陽子さんは涙をぽろぽろと流している。


 私はどう話せばいいかわからず言葉が出ない。陽子さんは身を乗り出し私をぎゅっと抱きしめた。


「ごめんなさい。あの時、私が我儘を言わなければみっちゃんは死なずにすんだの。私のせいよ。私のせいなのよ」


 私にはよくわからないが、とりあえず「あなたのせいじゃないわ」と言いながら背中を撫でた。陽子さんは涙が止まらないようだ。


「あの日、お父さんと喧嘩をして、顔見るのが嫌だったから、おばあちゃんの付き添いを代わるって言ったの。いつもみっちゃんに押し付けていたのにね。みっちゃんは『お父さんは何とも思ってないわよ。でも一晩離れてスッキリするなら、今夜は陽ちゃんに付き添いをお願いするわ』って笑って代わってくれたの。まさか夜中にあんな空襲がきてみんな死んじゃうなんて思いもよらなかった。みっちゃんが死んじゃったのは私のせいよ。ごめんなさい」


 陽子さんは泣き崩れ、座っている私の膝に頭を落とした。撫でようと陽子さんの背中に手を置いた瞬間、頭の中が真っ白になった。


『陽ちゃん、陽ちゃんのせいじゃないわ。そういう運命だったのよ。朔さんは戦死したから私が生きていても結婚することはなかったの。だから気にしないでいいの。陽ちゃんはずっと苦しんでいたのね。ごめんね。でももう苦しまないで。陽ちゃん、ずっと私のこと忘れないで覚えていてくれてありがとう』


 今の声、何?


 私は何が起こったのかよくわからなかった。


 陽子さんは泣きながら眠ってしまったようだ。テツさんが私の背中をぽんと叩いた。


「すずちゃん、行こうか」


 私達は病室を出て病院の出入り口に向かって歩き出した。


「ありがとうな。陽子もスッキリしたようだ」


「ずっと苦しんでいたのね」


「そうみたいだな。ケンカしてたことなんかすっかり忘れてたよ」


 テツさんは頭をかきながら笑っている。


「俺、行くわ。長いこと世話になったな」


「えっ、行っちゃうの?」


「うん、陽子を連れて行ってやらなきゃな」


 病院を出ると、朔さんとタマが待っていた。


「ほら、待ってるぞ」


 テツさんは私の手に朔さんの手を握らせる。


「朔、すずちゃん……いや、美月を頼む。じゃあ、またな」


 小さく手を振ってテツさんは病院の中に消えた。


「行くんだな」


「うん」


「また会えるさ」


 見上げると橙色の月が優しく微笑んでいた。

 

◇◆◇


 しばらく降り続いた激しい雨のせいで、私の住む古いアパートは悲鳴をあげたていた。


 私の部屋は1階だったため、それほど被害はなかったのだが上の階は屋根が傷み、雨漏りで大変だったらしい。


 今月の家賃を支払うために不動産屋に行くと南さんは店先で近所の大工さんと話をしていた。


「すずさん、ちょうどよかったわ。あのアパート、屋根がかなり被害を受けたので、大工さんに見てもらっていたんだけど、結構傷みがひどいから、改修工事をすることにしたの。2階は雨漏りで床や畳もダメになったしね」


 改修工事?


「それでね。工事が終わるまで1階の人も仮住まいに移ってもらおうと思ってるのよ」


 また引っ越しか。まだ住んで1年だし、慣れてきたのに仮住まいとはいえ、引っ越しは面倒だな。


「ここどうかしら。2階の人達もこちらに移ってもらっているの」


 南さんが手にしているファイルに目をやると、そこには築浅のマンションが載っている。南さんはお茶を入れながら私の顔をチラッと見た。


「今の部屋より広いの。エレベーターもあるから楽よ。気に入ったらそのまま住み続けてもらってもいいし、どうかしらね」


 引っ越しの荷物はそれほど無いし、近くだから南さんの知り合いの引っ越し屋さんが運んでくれるそうだ。


 外に出ると朔さんとタマが待っていた。朔さんが私の手を取る。


「帰ろうか」


 初めは恥ずかしかったが、最近は手を繋ぐ事も慣れてきた。


「また引っ越しなの。みんなが成仏してくれたあとでよかったわ」


「そうか。君が頑張ったからみんな成仏できたんだよ」


 朔さんは目を細める。


 この1年の間にアパートに来る幽霊達は思いを昇華し、成仏していった。


 今この部屋に残っているのは朔さんとタマだけだ。


 一年前に前世で暮らしていたこの地に引っ越してきたのは偶然ではなく必然だったのかもしれない。


 朔さんは私が亡くなる時に一緒に天に上がるという。タマも一緒に上がるそうだ。

朔さんは一緒にいて安心するし、心地良い人だ。このまま私が天寿を全うするまで傍にいてくれることが嬉しいと思っている。

 

 引っ越しの朝、確認のために南さんと一緒にマンションに来た。


 5階の角にある日当たりの良い部屋が新居だ。南さんはリビングの掃き出し窓を開けベランダに出る。


「見て。ここからの景色がとってもいいの」


 私もベランダに出た。階下に見える川の両岸に植えられている桜が満開だ。


 南さんは私の顔を見た。


「去年は都市計画の立ち退き、今年は改修工事と2回もこちらの都合で引っ越しをすることになってごめんなさいね」


「仕方ないですよ。それより桜綺麗ですね」


「そうでしょう。ベランダからお花見ができるのよ。ここが良ければ改修工事が終わってもここに住んでね」


 南さんは次の仕事に向かうと言う。


「色々お世話になり、ありがとうございました」


「嫌ね。そんな仰々しいお礼はいらないわよ。夜にまた来るわね」


 鍵をもらい、挨拶を済ませ、部屋の中に入り、私は再びベランダに出る。


「ねぇ、あなた。そこで何をしてるの?」


 小さな女の子が手すりにもたれて外を見ていた。


「お花見てるの」


「ひとりで?」


「うん。気がついたらその川にいたの。川の水で冷たくなったから上がってきて、それからずっとここにいるの」


 おかっぱ頭で白いブラウスにモンペ。この子もきっとあの空襲で亡くなったのだろう。


 ここも幽霊付きか。


「自分が亡くなってることはわかってる?」


 女の子はきょとんとしている。


「成仏して早く生まれ変わろう」


「お母さんがここで待ってなさいって言ったの」


 女の子は泣き出した。


「お母さんは先に天に行ってあなたを待っているわ。早く行かなきゃ会えなくなっちゃうよ」


 お母さんが生まれ変わっていたら、朔さんみたいに会えなくなる。


 私の言葉に女の子は焦った顔になった。


「お母さんに会いたい。どうしたらいいの?」


「目を閉じてお母さんに会いたいって思ってね」


 いつも持ち歩いているお線香セットからお線香を取り出して火をつけた。そしてお経を唱えた。


 何度も何度も女の子の姿が光に包まれ見えなくなるまで唱え続けた。


 女の子だけでなく、川から沢山の魂が上がり光に包まれた。


 今日、ここにきたのも意味があったのだな。


 引っ越しの荷出しの立ち会いにアパートに戻ろうとマンションから出ると朔さんが待っていた。タマが私に気がつき朔さんの腕から飛び出して駆けてくる。


「迎えにきたよ」


 朔さんは顔を綻ばせる。


 せっかくだから近くで一緒に桜を見ようと川の側に行き、橋を渡る。橋の上から見る桜並木はピンクのトンネルのように見えた。


「トラックが来るのは夕方だから、まだ時間があるわね。スーパーに寄って何か買って帰りましょうか」


「あの道を曲がったところにあるスーパーにしよう」


 初めて行くスーパーだ。タマがニャーと鳴きながら私の顔を見る。


「タマも一緒に行くのよ」


 私はタマを撫でた。朔さんは目を細めて私とタマを見ている。


 スーパーまでの歩道の脇にある桜も満開だ。


 一緒にスーパーに入り飲み物を買った。

 自動ドアが開き、私達は外に出た。風が吹き、スーパーの横にある桜の花びらが揺れている。


 朔さんが突然、私の前に立ち包み込むように私を抱きしめた。


「どうしたの?」


 スーパーに入ろうとこちらに向かってくる人達の姿が見える。みんなから見られているようで恥ずかしい。


「もうずっと一緒だよ」


 駐車場に停車しようとしている白い乗用車が急発進した。ヘッドライトの真っ白な光とともに私に向かって突っ込んでくる。私は動こうとするけれど、動くことができない。


 そうか、今日だったのか。


 荷物も片付けてあるし、南さんにもお礼を言えてよかったな。


 ―キィーッ


 急ブレーキの音が聞こえ、ドンと衝撃があった。


 私は高いところで、光に包まれながら朔さんやタマと一緒に店先に倒れている私の身体を見ていた。


 救急車やパトカーのサイレンが聞こえる。


 桜の花びらが春の暖かい風に吹かれ舞っていた。


                    了



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約束 金峯蓮華 @lehua327

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