4-6【影】
エスティラが気分転換を終えたのは、日も傾きかけたところだった。
ひとしきり弄ばれ、疲れ果てた表情のアデーレがエスティラの部屋まで付き添う。
部屋の前では、ロベルトが二人を出迎えていた。
「それじゃあ、私はしばらく部屋で休むわ。夕食の準備が出来たら呼んで頂戴」
「かしこまりました」
ロベルトに一通りの指示を出すと、エスティラは一人自室へと戻っていく。
扉が閉められたところで、アデーレは心労を紛らわすように小さくため息をついた。
「お疲れ様です」
うなだれるアデーレに、ロベルトが労いの言葉をかける。
「いえ、私も少しだけ胸のつかえが下りたので」
悩みを振り切った。そう言いたげな笑顔をアデーレは浮かべていた。
二人きりでのひと時は、エスティラとどう接すればいいか悩むアデーレにとって、それを解くきっかけとなった。
故郷に魔獣の危機を持ち込んだことに納得したわけではない。
だが、少なくともエスティラを守るという決意を固めることは出来た。
そのことを、アデーレは今強く望んでいる。
「そうですか……」
事情を知るロベルトは、長い間エスティラを不憫に思っていたのだろう。
晴れやかな様子のアデーレを見て、どことなく嬉しそうな表情を浮かべていた。
「それでは、私は書類仕事がありますので。アデーレさんは給仕の準備を進めておいてください」
「分かりました。準備が出来たら、ロベルトさんに知らせればいいんですね」
「お願いいたします」と言い、ロベルトがうなずく。
合わせてアデーレは一礼すると、早歩きで食堂の方へと向かう。
夕食までは、残り一時間半といったところだろうか。
テーブルの準備や、食器類の用意。やることはたくさんある。
他の使用人が準備を始めているかもしれないが、それでも主人の食事というのはあらゆる面で時間がかかるものだ。
「んっ?」
二階と三階の間に設けられた踊場に降りたアデーレ。
彼女の前に、小柄な使用人が一人で立っていた。
ブラウンの髪を肩の上あたりで切りそろえた、幼い容姿の少女だ。
十代に達したばかりの少女が、このような屋敷で使用人を務めるのはよくあることである。
制服からして雑用の担当だろう。
しかし彼女の様子はどこかおかしく、焦点の合わないうつろな瞳で、踊り場の窓から中庭を眺めている。
彼女の見るほうへ視線を向けるアデーレ。
テレビで見たことのある西欧風の東屋や、噴水に生垣。
日和りのいい時ならばティータイムにも使われるそこは、夕日が建物により遮られているために暗く、どこか不気味な雰囲気を醸し出していた。
だが、特に目を惹くようなものは存在しない。
隣に立つ使用人が何を見ているのか。
アデーレは気になり、その使用人の方へと向き直る。
「あ、ちょっと……」
彼女の姿が隣にない。
背後を振り返ると、少女はおぼつかない足取りで階段を降り、一階へ向かおうといる。
(もしかして、何かの病気かも)
あんな調子で歩いていたら、転んで怪我をする可能性もある。
アデーレは早足で彼女の後を追い、呼び止めようと手を伸ばす。
しかし、アデーレの手が彼女の肩に触れようとした瞬間、先ほどとは違う確かな足取りで、勢いよく階段を駆け下りていく。
「ちょっと待って!」
思わず声を荒げ、アデーレも走り出す。
しかし彼女の脚は想像以上に早く、一階に降りるとそのまま中庭へ続く扉へと向かい、開け放つ。
彼女が屋外に出たのを確認したアデーレが、急いで中庭の方へ向かう。
薄暗い中庭の光景が視界に広がる。
使用人の姿は、先ほど二階から見えた東屋の中にあった。
後姿しか伺えないが、立ち止まって一点を見上げているようにも見える。
「ねぇ、どうしたの? 大丈夫?」
様子のおかしい使用人に注意しつつ、ゆっくりと近寄っていくアデーレ。
徐々に大きくなるその後ろ姿に、動く気配はない。
「ええっと……そこに、何かあるの?」
手を伸ばせば届くくらいのところまで歩み寄る。
アデーレはゆっくりと、再び使用人の肩に手を差し伸べる。
恐る恐る伸ばした指先が、エプロンの肩ひもに触れる。
そのまましっかりと肩を掴み、使用人をこちらへ振り返らせる。
「……えっ、アデーレさん? どうしました?」
うつろだった使用人の目には、既に光が戻っていた。
まるで自分の方が驚かされたかのように、目を丸くしながらアデーレの顔を見つめる使用人。
「どうしたのって、なんだか様子がおかしかったから……」
何事もないことを確認し、胸を撫で下ろすアデーレ。
……だが、異変は彼女の背後で起きていた。
その背後には中庭……。
そう、そこには中庭があるはずなのだ。
なのに、アデーレの目の前には、夜闇すら生ぬるい漆黒が前方を覆い尽くしていたのだ。
警戒心が伝わり、全身がこわばるアデーレ。
そのまま引き倒すように使用人を自分の方に寄せ、背後に回らせる。
急なアデーレの接近に、使用人はほのかに頬を赤らめる。
「邪魔をするか。小娘」
闇の方から、しゃがれた声が響く。
この闇の先に、何かがいる。
(こいつが魔女?)
姿は見えないが、アデーレは直感した。
今対峙している存在こそが、王党派と手を結んだ暗黒大陸の魔女。
島の為、エスティラの為、倒さねばならない敵なのだと。
背後に立つ使用人の方へ、一瞬だけ視線を向ける。
(変身は出来ない……か)
異常に気付いているのは、自分達のみ。
ロベルトを呼べる状況でもないし、ここで大声を出せば、目の前の存在が何をしてくるか分からない。
いや、誰かを呼んだところで犠牲者を増やすだけだろう。
闇から発せられる強烈な威圧感に
文字通り息を飲んだところで、闇の中から細い木の枝のようなものがこちらに伸びてくる。
それは、干からびた蔓らしきものが絡み合って構成された、人間の手だった。
「忌々しいねぇ」
数メートルほどに伸びた手が、アデーレの左頬を撫でる。
そして、至近距離で見たそれを構成していたのが、乾いた蔓などではないことに気付かされてしまう。
異様な湿り気を帯びたそれは、ミミズのような触手の集合体だったのだ。
あまりのおぞましさに、さすがのアデーレも背筋が凍る。
だが、
「最近は邪魔ばかりだ。あのヴェスタの巫女だよ」
その声からは、明らかな不快感が感じ取れた。
これまで出現した魔獣はヴェスティリア……アデーレの手により、全て倒されている。
しかし、直接エスティラを狙う形で出現したのは港の一件のみ。
この魔女が何を考えて魔獣を召喚するのか、その意図はアデーレにも読めない。
「こちらは準備が出来ているというのに、本当忌々しい……忌々しい」
準備が出来ているという言葉に、アデーレの表情はより険しくなる。
こちらは魔女の意図が分からないのに、計画自体は既に危険なところまで進行しているというのだろうか。
「巫女だけじゃなく、アンタみたいなのも邪魔をする……忌々しい。忌々しいよ」
アデーレに触れる手が、怒りを露にするかのように震えている。
背後にいる使用人に対する接触も、魔女の計画の一部なのだろうか。
「ふぅん……怯えて口も利けないかぇ?」
闇の向こうにいるそれが、アデーレをあざ笑うかのようにつぶやく。
「そんな
魔女は、アデーレが強がっているだけと考えているのだろう。
実際は今すぐにでも変身し、魔女を打ち倒してやりたいと考えていた。
だが敵対心を悟られていないのならば、それはそれで好都合だ。
何かきっかけがあればいいと、アデーレは必死に頭を巡らせる。
背後の使用人をこの場から逃がし、屋敷の人を避難させれば、変身して存分に戦うことができる。
このまま魔女による虐殺を許すのは、何としても避けなければならない。
「まぁいいさね。アンタの身体も利用させてもらおうかねぇ」
「ヒッ!?」
後ろに立つ使用人の引きつった悲鳴が、アデーレの耳に響く。
頬に触れる魔女の手がうごめき、細い糸が一本、アデーレの顔をはいずり始める。
それはミミズか、それともハリガネムシか。
おぞましい物が自分の体を這っていると考えると、アデーレの不快感も頂点に達する。
左頬に付いたそれを払い落そうと、手を動かそうとする。
だが、闇の中から伸びた二本目、三本目の手によってアデーレの腕が拘束される。
「くっ!」
アデーレの顔が青ざめる。
顔を這うそれが、自分に対し良からぬことを企てているのは明らかだ。
左の頬から鼻の頭へと這い、右側の頬へと移動する。
それがゆっくりと、耳元へ近づいてきていることに気付く。
生物が這った後には、張り付く粘液の冷たい湿り気が残り、それがより一層嫌悪感を高めた。
アデーレの脳裏に、最悪の光景が想像される。
この細長い生物が、自分の右耳から体内に侵入しようとしていると。
「は、離せ……ッ」
「黙っているほうが痛みも少ないよ。抵抗するだけ無駄なんだからねぇ」
まるで脳内にまとわりつくような魔女の声。
それでもアデーレは、歯を食いしばりながら抵抗を続ける。
しかし拘束する手の力は強く、変身前の彼女では払いのけることができない。
そんな悪あがきをしているうちに、先ほどの細長い生き物が耳たぶに触れるのを感じる。
全身を襲うむず痒い感覚が、あまりにも気持ち悪い。
力の限り、腕を上げようともがくアデーレ。
だが抵抗もむなしく、生き物はアデーレの右耳の穴に触れ……。
「ヒヒ……ッ!!?」
突如、強烈な赤い閃光が闇を貫く。
同時に、アデーレに触れていた三本の手が闇の中に戻る。
自由になったアデーレは、急いで右耳にまとわりつく細長い生物を引き剥がし、地面に叩きつける。
それでもうごめくそれを、靴のつま先で思い切り踏みつぶした。
「チィッ、何者だい!?」
アデーレとの間に割って入った輝く物体に、闇の中の魔女が叫ぶ。
そこで、光に照らされているにも関わらず、魔女が纏う闇を払うことが出来ていないことにアデーレが気付く。
あれはもしかしたら、闇ではなく黒煙やその類なのかもしれない。
「お前の計画を邪魔する者の一人、といえば分かるかな?」
赤く輝くそれの声は、アンロックンのものだった。
アンロックンを入れていたスカートのポケットに手をやると、そこに錠前が入っている感触はなかった。
どうやら、気付かないうちにポケットから脱し、助けに入ってくれたようだ。
「なるほど、巫女の手先……いや、アンタが巫女を見出した元凶だねぇ?」
闇に紛れる魔女が、忌々しそうにつぶやく。
「もうすぐここに、お前を倒すためにヴェスティリアがやってくる」
「何ィ?」
「さぁ、どうする?」
実際には、ヴェスティリアの正体であるアデーレは変身すらしていない。
これは駆け引きだ。
魔女がこの場で戦う意思を示せば、一瞬でこちらが不利になる。
だが、こうして人目を避けて策を巡らせている最中ならば、今現在魔女に戦う意思はない可能性もある。
そんなところにヴェスティリアが現れれば、魔女にとっては極めて不都合だろう。
魔女が身を引くか、それとも反抗の意思を示すか。
わずかな沈黙が、互いの間を流れる。
「……いいさ。アンタ達と決着をつけるのは、今ではない」
そうつぶやくと、魔女を隠す闇が、徐々にアデーレ達から遠ざかっていく。
「私が欲しいのはねぇ、地獄にも似た絶望さね」
「絶望……?」
「ヒヒ、せいぜい寄り添ってやりな。アンタ達のお嬢様にねぇ……」
遠ざかる闇が、徐々に薄くなる。
魔女の笑い声はやまびこのように反響し、徐々に消えていく。
全ての闇が霧のように霧散した時には、アンロックンのオーラで照らされる中庭だけが広がっていた。
ようやく命の危機を脱した。
そのことで気が抜けたのだろう。背後にいた使用人は、腰が抜けたかのようにその場にへたり込む。
「……ふえぇ」
そして、安心して気が緩んだか。そのまま泣き出してしまった。
そんな彼女の体を、アデーレは優しく抱きしめる。
「うん。もう大丈夫だから……」
泣きじゃくる使用人が、アデーレの身体にしがみつく。
そんな二人を確認したのか、アンロックンはオーラを放つのをやめ、再びアデーレのポケットに滑り込んだ。
突如対峙することとなった、魔獣たちを召喚した元凶。
魔女のおぞましくも強大な力の片鱗を目の当たりにしたアデーレの表情は、いつもにも増して険しいものだった。
そして、一人の少女を守り切れたことに、ほんの少しだけ安堵するのだった。
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