3

 私が誘ったお茶会の最中、夫は倒れた。

 胸の苦しさを訴え、口から泡を吐きながら倒れた様子から、毒を盛られたことが分かった。

 早急に胃の洗浄が行われたのだが、彼の意識は戻らなかった。


 犯人は分かっている。

 私だ。

 私が夫のカップに毒を盛ったのだ。


 しかし、


(昏睡状態になるほど入れていないはずなのに……)


 白い顔でベッドに横たわる夫の姿を思い出すと、握った拳が小刻みに震えた。


 私の憎しみが、あの男の優しさによって力を失っていくことが、怖くて堪らなかった。兄の死に顔を思い出すたびに罪悪感に駆られ、何度も何度も心の中で懺悔を繰り返した。


 あの男の、微塵も変わらない穏やかな表情を少しでも崩すことが出来れば、私が燃やし続けなければならない憎悪の炎は消えなくて済む。


 だから毒を盛った。


 さすがに毒を盛られたとなれば、夫も私を憎むはず。聖人君子の仮面を取り払い、人間らしい怒りを見せながら口汚く私を罵り、突き放すだろうと。


 結果、罪人として処刑されても後悔はない。


 しかし敵国だった相手とはいえ、罪もない人間を殺す度胸はなかった。ルシ王国の民を無差別に殺したこの国の人間と同じでいたくはなかった。


 飲めば数日、腹痛や身体の痛みに悩まされるだけ。

 その程度の分量だったはずだ。


 しかし夫は昏睡状態に陥った。


 薬の量を見誤ったのだろうか。

 そうとしか考えられなかったが、残った薬はすでに処分していたため、確認することは出来なかった。


 皆が私に疑いの目を向ける中、夫は意識を取り戻した。

 倒れて三日が経っていた。


「……失礼します」


 呼び出しに応じた私を迎えたのは、ベッドの上で上半身を起こして窓の外を見つめる夫の姿だった。


 白い肌と金色の髪が太陽の光に照らされている。

 まるで後光が差しているかのように見えるその姿は、ついさっきまで薬で昏睡していたとは思えないほど美しかった。

 

 怒りと憎しみで満ちていると思われた表情は、いつもと変わらない穏やかな笑みを湛えていた。


「悪かったね。せっかく君が準備してくれたお茶会だったのに、途中で倒れてしまって」


 開口一番、申し訳なさそうに眉根を寄せながら夫は謝罪した。それを聞いた瞬間、私の中で押し止めていた何かが弾けた。


「どうして……」

「……え?」

「惚けないでくださいっ! 分かっていらっしゃるのでしょう⁉ 一体誰があなたに毒を盛ったのかを!」


 相手が病み上がりだと分かっていながらも、私は夫の寝衣に掴みかかった。私を支配する怒りが、一体どこから来ているのかも分からなかった。


「何故……何故、私を責めないのですか? さっさと私を突き出せばいいじゃないですか! なのに、どうしてあなたは何も……変わらないのですか? 死ぬかもしれなかったのですよ⁉ なのにいつものように笑って……わから、ない」


 気付けば涙が溢れていた。

 彼に縋るように膝から崩れ落ちると、そのまま突っ伏した。


 夫がどんな表情をしているかは分からない。

 僅かに唸る声が聞こえたかと思うと、夫の手が私の髪に触れた。まるで昂ぶった私の気持ちを宥めるように優しく撫で続ける。


 殺そうとした相手にする行動ではなかった。


「……私の祖国を滅ぼした、罪滅ぼしですか?」


 夫の手が止まった。

 軽く息を吐き出す音とともに、どこか諦めたような夫の掠れ声が降ってくる。


「それもある。だけど、それだけじゃない」

「では、他になにが……」

「幼い頃、君に助けて貰ったから」


 七歳ぐらいだったかな、と笑う夫に、今度は私が動きを止める番だった。

 思考が過去へと遡るが、夫と出会った記憶はない。私が初めてこの男と出会ったのは戦争が始まる数年前――確か十六歳ぐらいだったはず。


 顔を上げると、夫は笑みの中に寂しさを混じらせていた。 


「やはり覚えていない、か……」

「申し訳ございません」

「昔のことだから仕方ない。会ったと言っても短い時間だったから」


 夫は私から視線を逸らすと瞳を伏せた。

 口元が僅かに緩んでいる。その表情はいつもの穏やかな笑みでありながら、愛おしさに満ち溢れたものだった。


 こんな彼の微笑みを見たのは初めてだった。


「幼い僕はね、皆が言うような純粋無垢な存在じゃなかった。毎日がつまらなくてね、世界全てが色褪せているように見えていたんだ。皆が僕を『ハンス』ではなく、次期国王としてしか見ていなかったし、皆が望む王子を演じるのも疲れていたんだ」


 七歳の子の思想にしては、あまりにも成熟しているように思えた。これも彼が優秀すぎる故だったのかもしれない。


「だけど幼い君と出会い、その口から笑顔から語られる輝かしい未来に、僕は初めて心が躍ったんだ。どんな教師が語る言葉よりも、強く、希望に満ちていて……つまらない世界がみるみる色づいていくのを感じたんだ。それからだよ、僕が変わったのは。君と出会わなければ今の僕はいなかった。そして――」


 私の手に夫の手が重なる。

 

「僕の初恋でもあったんだと思う」

「……それが、今まで私が何をしても咎めなかった理由でしょうか?」

「そう、かもね。あの日、君が語った輝かしい未来を、僕は守れなかった。あの日、君が僕に向けてくれた満面の笑みを、この国は奪った。だからせめて君の憎しみだけは、僕が全て受け止めたいんだ」


 夫の表情から微笑みが消えていた。

 私に向けられた真っ直ぐな瞳が、言葉なく語っている。


 今語られた言葉全てが、彼の本心なのだと。


 それを悟った瞬間、私の唇が勝手に動いた。

 

「……やはり私を糾弾してください。私に毒を盛られたのだと……」

「それはしない。誰も悪くないんだから」

「明らかに悪いのは私じゃないですか‼」

「元はといえば、この国が戦争を引き起こしたのが悪い。それを止められなかった僕も同罪だ」


 適当な理由を付けて調査を終わらせるよ、と夫が笑う。


「……愚かですね。私なんかを生かしていたら、いつかまた同じことが起こるかもしれませんよ」

「君に殺されるなら本望だよ」


 その言葉とともに、夫が私を抱きしめた。


 身体を包み込む温もりが心に染みこんでいく。私が守り続けなければならなかった憎しみの炎が、チリチリと侵食されていく。


 憎むべき相手に抱きしめられているのに、不快でない自分がいる。

 その事実が喉の奥を詰まらせる。


「……ごめんなさい……ごめんなさい……ごめん、な、さい……」


 唇が、懺悔の言葉を無意識のうちに繰り返していた。目頭が再び熱くなり、瞳に溜まった涙が瞬きと同時に零れ落ちる。


 閉じた瞼の裏に、無言で私を責める兄の虚ろな瞳が映った。


 今私が口にする懺悔は、一体誰に向けたものなのか。


 命を奪おうとしてもなお、私を守ろうとする夫に向けてなのか。

 憎しみを手放そうとしている私を責める兄に向けてなのか。


 もう分からなかった。

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