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 私が何をしても、あの男は怒りを露わにすることはない。

 その理由は、侍女たちの噂話によって伝え聞いている。


『カチェリ様に罪悪感を持っていらっしゃるからだそうよ。祖国を奪われ、人質のようにハンス様の元に嫁がされたからって』


 この発言の後、他の侍女たちはこぞって私が今まで行ってきた悪行をなじり、あの男の優しさを称賛した。


 ああ、お優しい。

 なんという慈悲深き御方。


 確かに、祖国とグランニア王国との戦争にあの男は関与していない。むしろ最後まで無益な戦争を止める立場だったと聞いている。

 

 泥沼化しつつあった戦争を終わらせたのが、彼だということも。

 夫は始めから最後まで、祖国とグランニア王国との戦争を止める立場だったことも。


 侍女達の言う通り、私を妻として受け入れたのも、私が暴れても何をしても決して怒らないのも、戦争を止められなかった罪悪感からきているのだろう。


 そんな優しさはいらなかった。

 いっそのこと、


(私を責め立て、とんでもない悪女だと突き放してくれれば……)


 あの男を心置きなく憎むことが出来るというのに。

 天の使いでもなく聖人君子でもなく、私と同じ、度量が狭く浅ましい人間なのだと満足できるというのに。


 夫から与えられる無償の優しさを受けるたび、何とも言えない息苦しさが私の胸の内に広がる。


 私も分かっている。

 理性では分かっているのだ。


 夫は悪くないのだと。

 

 あの男が両国を和平のテーブルにつかせなければ、我が祖国は復興のの字すら吐けないほど、徹底的に破壊され尽くされていた。

 私の命も危うかった。


 分かっている。

 分かっているのに――


 目を瞑れば瞼の裏に、血塗れになって倒れる兄の姿が浮かび上がる。

 慈悲深き夫が産まれた国が何をしたのかを忘れるなと、濁った兄の瞳が私を見つめる。


 記憶の中の兄に詫びた。


(ごめんなさい、兄さま……ごめんなさい、ごめんなさい……)


 きっと兄は気付いている。

 あの男に心を許そうとしている、私の弱さを。


 皆が私を腫れ物のように扱う中、出会った時から今まで態度を変えず、私の蛮行に理解を示し庇ってくれる夫の姿を見るたびに、胸の奥を針で突かれる痛みに襲われていることを。


 あの男の優しさに触れるたびに、私は私ではいられなくなる。


 憎しみを忘れ、屈するくらいなら、最後まで抗いたい。

 その結末、この命を失うこととなっても――


 私は白い粉が入った薬包紙を握りしめた。

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