三日目~草原の月~
目を覚ますと、ゲルの中に透き通るような青白い光が差し込んでいた。あいかわらず外は音ひとつなく、静かだ。朝を迎えたのだと知り、ベッドから下りて、ドアを開けてみる。昨日の夜からの雨が、まだ降っている。大したことのない小雨だが、乗馬するにはちょっとつらい。
そう、今日は乗馬ハイキングの予定があるのだ。
幸いにも、小雨は時間になったらやんでくれた。晴れ空が見えており、ちょうどいいハイキング日和となってくれた。
馬のところへ向かうと、馬引きの少年がすでに待っていた。不慣れな自分は彼の手助けを借りて、やっとのことで鞍の上に乗る。
やがて、草原をのんびりと進み始めた。ポッコポッコと心地良い蹄の音だけが聞こえている。馬が歩を進めるたびに、草のなかに隠れていたバッタたちがジジジと音を立てながら左右に散っていく。たまに風の音、馬のいななき、牛の鳴き声がかすかに聞こえる以外は、静かな世界。
世界は本来、こんなにも穏やかなものなのか。
今日もどこかで争いが起きている。誰かに頭を下げて働いている人がいる。人間は、ときには同じ仲間で構成されているはずの人間社会の中で、数え切れないほどの苦痛や不幸を味わわされている。そんな悲しい現実を忘れさせるほど、モンゴルの大地は静かだった。
上を向けば、青く澄んだ天空のドーム。そこに溶け込むように、まっ白な雲がふわりと浮かんでいる。そういえば、高校生のころはあの雲の向こうに自分の居場所があるような空想を抱いていた。もしかしたら、このモンゴルの空に浮かんでいる雲の上なら、本当に自分が夢見た幻想の宮殿が存在しているのかもしれない。
馬は歩きながら気ままに草をむしりとり、もしゃもしゃと食べては、フンだのおしっこだのをボロボロジャージャーと垂れ流す。馬の血を吸うため集まってきた小蝿が、ガイドさんの背中にビッシリとはりついているけど、彼は全然気にしていない。
また風景に目を向けると、草原のはるか彼方に集落が見える。
いつ終わるとも知れないのどかな時間。
周りの景色が少しずつ変わってきていた。それまで草地だったのが、デコボコの湿地へと変化してきたのである。
「ここは……?」
「川が近いんです。もうすぐ川原に到着しますから、そこで昼食にしましょう」
名前は知らないが、とにかくどこかの川についた。
手近な木にヒモをくくりつけて、馬をつないでおく。
お弁当を食べるのにちょうどいい場所を探し当て、ガイドさんはおもむろにビニールシートをバッグから取り出して、草の上に敷いてくれた。
川はゆったりと流れている。モンゴルの大地らしい、母性的で大らかな流れ。
胸の奥底から呼び起こされてくる感覚。幼い頃、自分が空想の世界で見ていた、川が流れている風景。それと、目の前の景色は、どこか似ている。遠くの空の色も、川の流れる音も、鼻孔をくすぐる草木の匂いも、何もかも。
ふと、思った。昨日からモンゴルの風景に見出していた、奇妙な懐かしさ。それは、自分のDNAに刻み込まれた祖先の記憶がフラッシュバックしているものではないだろうか。
かつて日本人の祖先が大陸に住んでいたころの記憶――日本へ渡来する前の原初の人々――同じ蒙古斑を持つ種族であるから、私の祖先がモンゴル人であり、その記憶情報が体内に刻み込まれて受け継がれているのだとしても、なんら不思議な話ではないんじゃないだろうか。
前世、というのとはちょっと違うが、自分が草原の民の生まれ変わりであるというのはあながち間違いでもないのかもしれない。そう考えると、なんで自分がモンゴルの大地を見て感動できなかったのか、ようやくひとつの解を得られたような気がした。
※ ※ ※
ツーリストキャンプに戻ると、時刻は十七時半となっていた。実に六時間半も外出していたことになる。
夕食を終えて、部屋に戻る前に、ガイドさんと一緒に岩山の上にのぼった。
夜の帳が下りようとしているテレルジは、水の底のように青白く染まっている。なんて美しいのだろう、と息を呑む。
見たいと思っていた草原の風景はここにはなかったが、代わりに、見ようと思っても見られるものではない絶景を、私はこの両目に焼きつけることができた。
蒼き狼を産み育てたモンゴルの大地が、青へ、より深い青へと沈んでいく。闇夜を迎え入れるかのように、ゆっくりと、世界の色が塗り替えられてゆく。
やがて、暗さが増してきたので、私とガイドさんはそれぞれのゲルへと戻っていった。
ゲルに戻ってから、ベッドの上に座りながら、私は思索に耽っていた。
外国ってなんだろう。
人種ってなんだろう。
なんとなく人間が地図上に引いた線があり、なんとなく分類した人間の種類があり、そしてなんとなくお互いに壁を感じたりしている。
遠いと思っていたモンゴルの大地。
それが、どうだ。こうしてなんの違和感もなく私はそこに存在しており、そこの人々と夕飯を食べ、人生について語らったりしている。日本人と一緒に時間を過ごしているのと、何が違う?
人間は、しょせん人間が作り出した通念に踊らされているだけではないだろうか。情報過多になり、世界のすべてを掌握したつもりになって、そのくせ、その国の人間と腹を割って話したわけでもないのに、他の国のことを決めつける。
そして、それは悔しいことに――この国へ来る前の私の姿でもあった。
「モンゴルとはこういう国だ」
「モンゴル人はこんな人たちだ」
いい加減な情報を鵜呑みにしていた私は、実際のモンゴルを目の当たりにして、何度もカルチャーショックを受けた。
我々は何も知らない。
それなのに知った気になっている。
ふと、こんな疑問が湧いてきた。
(僕は、なんのためにモンゴルへ来たのだろう)
急にいても立ってもいられなくなった。こんな思いを抱えたまま、日本へ帰りたくなかった。最後の最後で、何か自分が変われるものを探したかった。
外に出ると、何人かのツーリストキャンプ宿泊客が集まって空を見上げていた。
天蓋に宝石をちりばめたかの如く、視界いっぱいに星が広がっている。中央には天の川が流れている。まさに満天の星空。生まれて初めて、これだけの数の星を目にした。
そんな中で、私は、裏手にある丘を目指して、ひたすら歩いていく。
何かを、とにかく、何かを見つけたかった。
それにしても、文字通りの、漆黒の闇だ。
星空のおかげで丘のシルエットくらいは多少見えるが、足もとは完全に見えない。すぐ近くに誰かが潜んでいたとしても、まったく気が付かないだろう。
「わっ⁉」
突如、目の前をコウモリのようなものが横切った。
しばらくその場で硬直する。胸のドキドキがなかなか収まらない。完全に油断していた。自分の足元すら見えないような暗闇だ、人間でも動物でも、何か害意のある存在にとって、いまの自分は、いくらでも奇襲し放題の獲物でしかない。
遠方から犬の遠吠えのようなものが聞こえる。野生の狼とかが生息してないだろうか。
振り返れば、ツーリストキャンプからけっこう離れてしまっている。
何かあっても、助けを求められない距離まで来てしまっている。
(どうする? 引き返すか?)
闇夜に対する恐怖で、自然と息が荒くなっている。
(ん……?)
先ほどまでは暗闇に翻弄されて目に入らなかったが、一度立ち止まったことで、あることに気が付いた。
丘の向こう側が、ぼんやりと輝いている。
(あの光はなんだ?)
さらに歩を進める。あの光の正体を、この目で確かめてみたかった。
そして、二つの岩山の間を通り抜け、丘の上へと辿り着いた時。
月が、姿を現した。
満月が放つ黄金の輝きが、山肌を照らし、私の周囲を明るく覆っている。これまでの暗闇は、あまりの明るさに恐れをなしたかのように、どこかへ消え去ってしまった。
胸が熱くなる。私の中に眠る何者かの血が、喜びでざわついている。
(そうだ、この光景は前にも見たことがある!)
遥か遠い昔のこと。その時も独りでここに立って。うっすらと蘇ってきたその記憶は、果たして誰のものなのか。名のある人物か、無名の民か。
私は――きっと、帰るべき故郷に帰ってきたのだ。
もしかしたら、この月下の風景を「もう一度」見たいがために、私はモンゴルへ旅しようと思ったのかもしれない。
そう思った瞬間、脳裏に電流が走った。
私が生きる意味。私がこの世界に存在する意味。それは、言葉で表せるようなものではないけど、確かに理解することが出来た。
「ウオオオオオオオ!」
感極まっての雄叫びを放つ。
私のこれまでの人生は、この月を「また見るため」にあったのだ。成功したことも、失敗したことも、全てが、今日この時この場所へと導かれるために起こったことだったのだろう。
そして、きっとこれからも、私は色々な経験をする。楽しいことや嬉しいこともあれば、辛いこと悲しいこともあるだろう。でも、その先には必ずや「この瞬間のために全てがあった」と思う時が来ることだろう。
それが、生きる意味。私が存在する意味。
人生、思い通りにいかないものだ。落ち込むこともあるし、浮かれて失敗することもある。そのせいで、前へと進むことが怖くなってしまう時もある。
だけど、全ての出来事に、何らかの意味がある。あらゆることを乗り越えた先に、今夜この月を見た時のように「このために僕は生きてきたのだ」と思える瞬間が必ずやって来る。
(日本に戻ったら、また小説を書こう! 書くぞ!)
自分に才能があるのかどうか、そんなことは関係ない。自分がやりたいこと、すべきことを、ひたすらにこなして前へと進んでいけば、いつかまた素晴らしい瞬間に巡り会うことが出来る。
そのことを、私は草原の月に教えてもらった。
こうして、日本へ戻った私は、精力的に色々な文学賞にチャレンジし――四年後、小説家としてデビューを果たしたのである。
草原の月に教えられたこと 逢巳花堂 @oumikado
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