第3話 アンコーラ

 トビーさんが密かに母に想いを寄せているのは、なんとなく幼い頃から分かっていた。

 けれど、このような情熱的に言われるとは思ってなかったので、恥ずかしさより驚きと父に対しての思いが混ざりそうだった。

「すみません、気持ちは嬉しいんですけど、トビーさんとどうこうなるとかは全く考えたことがなく、父も家族想いで、嫉妬深いですし」

自分の悪い癖が出たので、反論を述べたがトビーは手を振って否定する。

「そんなことは気にしてないよ」

真面目な声だった。では何故母との交際を知っていたのに隠すような真似をしたのかが未だにピンとこない。トビーさんは、私の目を見て話しを続けた。

「千花は、本当に素敵なピアノを奏でる人だったから、君もそうであってほしいって勝手に、そう思ってしまったんだよ」

「母をまだ想い続けてくれていたんですね」

そう話すと、トビーさんが頭を椅子の背もたれに寄り掛けていたので、私はそれを見ることしかできなかった。

 その後、彼はぼんやりとした様子で口を開く。

「本当に、たまに夢の中にも出てきたよ。いつかもう未練はないとか言いながら、蘇ることも千花の自由だと思うようにしようと思ったんだけどね」

 トビーさんは後半、声が小さくなっていきながらそう言った。

「千花は千花で、麻白は麻白だよな」

少し、自分を戒めるような、間違ったことをしていた自分に気付いて、仕方がなかったという雰囲気が出ていた。

「そうです。母の代わりでもありませんし」

母の死と共に日本でのソロリサイタルを同じ場所で、同じ二月の第二土曜日に毎年続ける彼は、千花をすごく慕っていたのだろう。

「僕は千花からたくさんの幸せを貰ってきたから、君が困った時は力になるよ」

 そう言って、彼は穏やかに笑った。

 私も同じように笑って見せた。


「私の父には会いましたか?」

 話を父の話に変えると、昔話をいくつかしてくれた。

 彼は、ピアノを弾くときは強靭で繊細な表現で奏でるが、こうして話すときはとても柔らかい話しをするのであった。

「父は、いつも母のこれからが気になっていました」

彼は目を細めて

「僕もだ。幸せだったのなら、それでいい。これで良かったんだよ」

 私は彼の言葉が嬉しかった。私の父を尊敬してくれていることがよく分かった。

 少しの未練もあるのかもしれないが、彼はそれをどうにか自分自身で納得できるようにしようとしているのだ。彼の在り方と、彼のピアノを弾く姿を見て私はとても尊敬していた。


 それから、彼は何かを思い出したように、自分の膝を軽く叩く。

「ちょっと、ステージまで来てほしい。まだピアノあるだろうから、プレゼントを贈らせてもらいたい。あまり遅くなると君のお父さんが心配するだろうから、これで最後だ」

 楽屋のテーブルに置いていた温かそうなスヌードを私の首にかけてくれる。「ありがとう、トビーさん」

どういたしまして、と彼が答えてくれる。私はトビーさんに微笑んだ。

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