A Day In The Life

 八月十五日

 帝国の終焉と共に僕の人生はある終局を迎えた。

 騒々しい夏の沈黙を封入した喫茶店の中で、僕は黙ってアイスコーヒーを飲んでいた。それは自分の余裕を少しでも彼女に示すためだった。彼女は泣きながら僕に別れを切り出した。スマホから連絡先を消去したというし、もう二度と顔を合わせたくないと言ってきた。だのにもかかわらず、彼女の瞳には悲しみの涙に満ち満ちていた。別れたくないのであれば、どうして僕にそんなことを切り出したんだろう。

 翌日、大学のいつもの部屋で落ち合った彼にこのことを話した。すると、彼は溜息を吐きながら「人の感情は複雑怪奇なんだよ。ある一つの感情にだけ偏ることはない。もっとも、彼女が別れるという行為に走ったのであれば、連続する意思は君と別れたいということなんだろう」と言った。

 一体、僕が何をしたというだろうか。僕は彼にそう問うたが、彼は苦笑いを浮かべながら「君がここに来た時の情景を想像してごらんよ。君はまだそこまで達していないはずだろう?」と言った。その上で僕は「分からない」と答えた。これに彼は急に真面目な表情になったと思うと、すぐにけろりと笑って、手元の書類に何かを記述した。


 九月一日

 彼の用事についていく形でベルリンに行った。

 僕の知っているベルリンは森鴎外がかつて記した伯林だった。菩提樹の通りとブランデンブルク門、寂れた石造りの街、そういった伯林を僕は想像していた。この想像と現実とは異なっていた。それもそのはずだ。だって、僕はベルリンに行ったことがないのだから。だから、実際に見たベルリンの寒空は僕の心をげんなりさせた。いつか破壊され、分断された歴史を持つ都市は陰鬱な雰囲気を持っていてとても見ていられなかった。東京でさえ覚えなかった酷い居心地の悪さが僕を襲った。

 毎分毎秒、顔色を悪くさせる僕を彼は心配してくれた。おぞましい都市の雰囲気の中でも顔色ひとつ変えなかった彼は、普段と同じように僕の顔を覗き込むと、ブランデンブルク門近くの売店で水を買って、持ってきてくれた。硬水は僕の弱い胃に響いた。居心地の悪さから来る体調不良は、これによってさらに悪化した。けれども、人の親切を無碍にすることなんて僕にはできなかった。無理を言って同行させてもらっているのに、その人にさらなる負担を掛けるのは無遠慮が過ぎる。体の弱い人間が一丁前にする配慮ではないのだろう。けれど、僕は元気になったふりをした。冷たい風に当てられていれば体調が良くなるだろうと、状況が好転すること祈りながら。球体関節人形に成れることを、つまるところ体調を崩すことのないある物質に固着した変化のない肉体になること願った。

 ただし、僕如きの演技が彼に聞くはずがなかった。公園のベンチでに背中を預けてぼうっと歴史の壁を見つめる僕を、隣に座った彼は覗き込みながら「やっぱり、外に出るのはまだ早かったみたいだ。これは私の失敗。本当に申し訳ないことをしたよ」と言って、申し訳なさそうに頭を下げた。しかし、本来謝らなければならないのは僕の方だ。だから、出来るだけ柔らかい表情を作って僕はこう言った。「取材の仕事を邪魔しているのは僕なんだ。だから、君は謝らなくて良い。僕を心配するんじゃなくて移民問題を取材してきてくれ。それこそが社会が君に与えた記者っていう仕事の使命なんだから」と。

 すると彼は怪訝そうに僕を見つめ、倦怠を含んだ白い溜息を吐いた。そして、乾いた冷たい風に手をこすり合わせてぼうっと、「ああ、なるほど、確かにやらないとだね。確かにこれに付き合うのは僕の使命だ」なんて呟いた。

 なんて素晴らしい意志を持った人間だろう。


 九月十一日

 暫時、僕の記憶は消えていた?

 ぐるぐると頭を巡らせても記憶は蘇ってこない。蘇ってくるとしたら名前と家族、日本の東京都××区に住んでいるということ、あとはいつか学校で学んできた知識の断片くらいだ。いまの僕を構成しているものの全てが思い出せない。一体、僕は今まで何をしてきたんだろうか? 

 初めて会ったうらぶれた青年から一冊の手帳を貰ってここに『記せ』と言われた。僕はこれに驚いて台所へ駆け込んで包丁を彼に突き付けた。実家を出て? 一人暮らしをしていただろう古ぼけたアパートにある軽いステンレスの包丁は、手に妙に馴染んだ。恐れも特になかった。いや、恐れが無かったわけじゃない。包丁を他人に対して向けていることに罪悪感だとか緊張感だとかを覚えていない僕自身に恐れを抱いていた。そして、おずおずと近づいてくる彼に恐怖を抱いていないことにも。

 どうして僕の一室に彼が居るのだろうか? 

 どこから侵入してきたのだろうか? 

 僕は迫りくる彼に精一杯の大声で問い詰めた。自然と柄を握る力は強まったし、全身が硬直する感覚も覚えた。肉体が感情と合致して反射的に動いている感覚は、本来は自然でなければならないはずなのに、僕にとっては酷く不自然だった。違和感が頭を貫いて、強張った体を震わせた。そして、強く震える体を抑えることができずに僕は包丁を薄っすらと埃が被ったフローリングの床に落として、倒れ込んだ。

 ばたりと倒れる僕に彼は駆け寄った。そして、僕の首筋に冷たい掌をあてがうと安堵の息を吐いた。狂人が無力化されたことに安堵したんだろう。醜い安堵だ。自分の仕事を患者の反応に任せているんだから。

 狂人? 患者? 誰のことを言っているんだ?

 いや、こんなのは気の迷いでしかない。僕はずっとこの部屋に暮らしてきたんだ。この部屋は、古ぼけた木造アパートの一室は僕にとってロバが繋がれた家だ。家の裏を流れる側溝こそが我がヨルダン川だ! 洗者ヨハネこそ僕だ!

 違う。僕は人。一切の特別を与えられなかったただの人だ。だからこそ彼の足に縋りついて水を強請ったんだ。ボロボロの爪を携えた脆くて弱い両手で彼の足首を掴みながら。

 弱々しい哀願は彼の目に絶望の色を浮かばせた。けれども、彼はそこで窮することなく、曇り切ったガラスコップ一杯に水を入れて渡してくれた。あと、ラムネもくれた。訳はたまたまポケットに入っていたかららしい。同時に「錯乱は誰にだってある。そして、狼狽えることもね。だから、君はいまの自分に絶望することなく、ひがむことなく現実を見てくれ。そうすれば君も報われる。全て君が悪いわけじゃないんだ。君を切迫したこの社会というものが悪いんだから」と彼は言った。

 意味が分からない。僕はまだ学生のはずだ。社会となんて関わっていない。せいぜい、大学の教授たちとした関わっていないはずだ。だのに、どうして彼は僕にそんな助言を柔らかな表情で向けてくれたんだろうか。記している今でさえこのことは分からない。ラムネを食べた後、急に眠くなったのが原因なんだろうか。

 追記。

 これを記している途中、僕の瞼の裏には数列が浮かび上がった。それは今も見えている。というよりも、僕の視界はその数列で満たされている。だから、ここに『記す』。


“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”


 一体、何の意味を持つんだろうか? 妄想癖気味な頭はとうとうおかしくなってしまったんだろうか?


 九月三十一日

 九 7 1 20 19 20 三十一 14 9 3 8 9

 数列と共に僕は夢を見た。

 それは青白い月明かりが差し込む埃っぽい見覚えのある一室で、デスクを挟んでパイプ椅子に座っている彼が、書類ではなくて、いつも僕に渡してくる交換日記に『記している』夢だ。喘息持ちの僕がどうして体調に害をなすような空間に居るのかはわからない。もっとも、その部屋に居る意味が分かったら夢じゃないんだろう。夢というのは不安定だからこそ夢であって、その輪郭がつかめるのだとしたら、もはや夢ではなく現実と言った方が良い。だから、今日見た夢が、もしも具体化されたのなら、それは夢じゃなくて現実になる。僕自身がそこに居るという確固たる自覚を覚えたら最後、そこは僕自身の現実から遠ざかるためのアジールへとなる。

 夢がどうこう言っている場合じゃない。僕はただそういう夢を見たんだ。そして、僕はこの妙にしっくりくる夢を彼に話した。すると、彼は怪訝そうな面持ちで、畳の上にあぐらをかきながら「夢じゃないのかもしれない。それはある意味、君が求めた現実の一つかもしれない。こうしてアパートの和室、その布団の上で僕に語っているいまも含めてね」と言った。何時からか吸い始めた煙草の紫煙を吐きながら、気だるそうに、澱んだ目でそう言っていた。こちらが喘息だということを知っておきながら煙草を吸う彼は傍若無人だと思う。

 けれども、彼は煙草を吸っていた方がその身なりからして似合っている。つまるところ彼のミュージシャン人生において、煙草という毒は色気をつけるために必要なんだ。香水をつけるのと同意義だ。ただし、部屋にヤニが着くのは頂けない。だから僕は彼の加える煙草をひょいッと取って、青い磁器の灰皿に押し付けた。彼は不服気な顔をして白衣の胸ポケットから新しい煙草を一本取り出して、再び火を点けた。そして、くゆる紫煙にゲホゲホとせき込む僕を嘲笑した。「病む体には少々の毒も必要さ。もっとも、医学に基づかない私なりの処方箋でしかないがね」と言い、硬い人差し指の腹で、せんべい布団に仰向けに眠る僕の額を摩った。上から目線の彼の言葉遣いには苛立たしさを覚えた。けれども、僕の持っていない全てを持っている彼に当たることはどういうわけだか出来なかった。立場というものが、僕の行動を限定するんだろう。

 カビとヤニの臭いに塗れる古ぼけた和室の中で僕は煙草をのむ彼の姿を見つめた。ただ、やっぱり、あの数列が僕の目を犯した。


“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”


 十一月二日

“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”

 病室で目を醒ました。同時に数列と共に頭の中で小鳥が鳴いた。かばん語の調べの中で、お地蔵さまがケラケラと笑って僕を見つけている。石造りなのにどうしてか有機的なその地蔵には、彼の顔が刻み込まれていた。

“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”

 視界の中に数列が映るたびに、彼に似た地蔵があげる嘲笑を声高になる。止めてくれ、止めてくれ、どうかホルマリン漬けの脳髄であってくれ。君は誰なんだ?

“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”

 卒塔婆の代わりに猥雑な女性の裸体が描かれたミカン箱程度の大きさのおもちゃ箱を背負った地蔵は、聴診器、ペン、原稿用紙の束、一眼レフ、飛行機模型、形而上学の哲学書、テレキャスター、煙草を僕の目の前に放り投げた。リノリウム張りの床に落ちる夢の産物たちは、真新しいベッドのマットレスを汚泥へと変貌させる。

“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”

 ああ! ここはどこだ! 僕は誰だ!

 ふと、そう叫ぶと僕の手元には一帖の使い古した手帳と安物のボールペンが置かれていた。僕は躍起になってそれを彼によく似た地蔵にぶつけた。嘲笑が止むのならば、なんだって良い。そう願いながら僕は叫んだ。すると地蔵は「君はまだ夢の中に? いや、これ自体が夢なんだ。そう、君が握っているものは夢で、君の目の前に散らばっているものこそが現実だ。君が放棄し続けてきたね」と声高に叫んで消えていった。

 “9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”

 錯乱した僕はベッドから飛び降りて、手帳に、交換日記に、いまこのことを『記して』いる。

 いや、どうして僕はベッドで眠っていたんだ?

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