補完され続ける記録

鍋谷葵

2014年


“9 1 13 23 1 20 3 8 9 14 7 25 15 21”


 青白い月明かりが差し込む埃っぽくて狭苦しいこの部屋は僕らの城だ。つまらない大学に、花を添えてくれるたった一つのエデンだ。資料が乱雑に投げ込まれた全く整理されていない灰色の金属棚、床に積み重ねられた雑誌や漫画、お菓子の空袋やDS、PSP、消しゴム、レポート用紙が散らばっているデスク、クッションの綿が飛び出しているボロボロの茶色い綿張りのソファ。均一が存在しない乱雑に満ち満ちた薄暗いこの部屋こそ、モラトリアムのアジールだ。

 形而下の世界においてこれほど落ち着ける場所ないはないだろう。現に外だと満足にコミュケーションを取れない僕は、この部屋において富楼那の弁を振るうことができる。ここにおいてのみスポークスマンに成れる。あれほど恐れていた会話を交わすことができる。

 ああ、鬱屈なる日々よ! この聖域に触れることなかれ!

 ギィギィと錆びついた蝶番が鳴って、廊下から蛍光灯の光が部屋に入ってくる。月光とは別の冷たさが侵入し、僕らの世界は現実界に接触する。酷い嫌悪感だ。ここは聖域であり、約束された千年王国だ。だのに、どうして世界に対する背教者が侵入することができるのだろうか。ユリアヌス帝はゲヘナに行っただろう!


「ああ、起きていたんだね」


「なんだ、君か」


 いや、これは僕の間違いだった。ここにやってきたのは原罪を贖わなかった愚か者ではなく、煉獄を経過することなく天国へ行ける良き洗礼者だったのだから。

 柔和な笑みを浮かべる彼は私を眼鏡越しにジッと見つける。月光と蛍光灯の光を反射する丸眼鏡の銀色のフレームに、少しばかりの威圧感を覚える。

 ただ、やせ細った躯体とぼさぼさに伸ばした白髪交じりの髪が、纏っている威圧感を幾らか抑える。青年にしては真っ黒すぎるクマと、生気のない澱んだ黒い双眸、青髭、乾燥した唇もまた彼の威圧的な印象を幾らか柔らかにさせている。薄汚い白衣と汚れ切ったジーパンもまた然り。


「部屋の真ん中で突っ立ってないで、座ったらどうかな。君もまた私と同じように貧血なんだ、立ちっぱなしは眩暈を招く」


 彼は数枚の書類を挟んだ青いクリップボードで、クッションがぺったんこになっているデスクチェアを指し示して、座るよう勧めてくる。彼は毎回私に会うとあの椅子に座るように勧めてくる。飽きもせず何度も何度も。そして、今日も例外なく、丸まったポスターが大量に入った段ボールと金属棚の間に置かれたパイプ椅子を取って、彼は私が座る予定の椅子の対面に陣取る。


「さあ、座って。落ち着いて」


「僕は何時でも落ち着いているよ」


「本当かい? 私の目にはとても落ち着ているようには見えないんだけれど。なんというか、内部に興奮を抱えているように見えるよ」


 ご名答。

 やはり僕の親友なだけあって外の世界の凡人とは異なる。彼こそはポルフィーリだ。ラスコーリニコフのような選民思想を抱かない優秀な人間だ。いや、ラスコーリニコフは優秀な人間か。


「とにかく座ってくれ。私はまたここで『記す』から」


 重い溜息を吐いた彼は、乱雑なデスクを挟んで置かれたデスクチェアを今度はボールペンで指し示す。これ以上余計なことを考えていたら彼の機嫌を悪くしてしまう。早く座ってしまおう。


「オーケー、今日は随分と利口だね」


「基本的に君の前だと僕は利口だよ」


「利口ねえ……。もし、君が本当に利口だと思うなら……、いや、これは違うな。強いて言うなら君は利口だね。うん、とても利口だ。少なからず他の人よりかはずっと利口だと思う。相対的な評価でしかないけれど、これは確かな事実」


 硬い座面は尾てい骨を容赦なく圧迫して、じんわりと痛みを与えてくる。ただ、その痛みは彼の作り笑いの前にどうだって良くなる。一切の感情を含んでいない機械的な彼の表情に雑念は飲まれ、外の世界だと恐れては言えない言葉の数々が脳からぽたぽたと垂れ落ちてくる。骨髄という樋を伝って声帯を穿つ言葉の粒は、僕の顔をほころばせる。


「さて、こんな言葉遊びなんてどうでも良いんだ。私は君と話に来たんだからね」


「いいや、君が求めているのは『記す』ことだろう。小説のネタのために」


「……今度は、いや、そうだね。情熱を内に秘めながら、外面的には鬱屈とした矛盾を抱えた青年のお話は面白いからね。それこそ、君の語る言葉だけは小説になりそうだ。口述筆記を試してみるかい?」


「試さないよ。第一、君は速記できないだろう」


「確かに、そうだ。前提がおかしかったか……」


 ああ、なんという喜びだ。

 この厩の他には鬱屈とした感情しか抱けない僕に、気だるげな言葉と親密な微笑で気を使ってくれるなんて素晴らしい。本当にうっとりとする。何時までも彼とこうして見つめ合って、言葉を交わし合っていたい。

 彼は伸びきった髪の毛をわしゃわしゃと右手で掻きながら、クリップボードに挟んでいる紙に新しい小説のネタを『記す』。毎度、同じ椅子に座るように彼は毎回こうして忙しなく記述する。アマチュアの小説家の言動としては素晴らしい行為なんだろう。石ころを蹴飛ばしたことからドラマを生まなければならない職業柄、こうした細かな作業に従事するのは不可欠なことなんだろう。ホルマリン漬けにされた風景ではなく、生きる人間からしか得られないネタは彼の独創的な物語を加速させるのだ。

 つらつらと何かを書き綴った彼はふうっと再び溜息を吐いた。そして、白衣から一冊の文庫本を取り出した。それは僕が彼に会うたびに思っていることを『記す』、いわば交換日記として使っている革張りの表紙の本だ。彼はデスクの上に散乱するゴミをかき分けると、いつものようにボールペンと交換日記を僕の目の前に置いた。くたびれた革と頁が僕と彼との交流を思い出させる。


「かれこれ半年かな? 君がここにきてから私は随分と勉強させてもらったよ」


「そりゃあ、だって、大学は勉強するところだから当たり前だよ。モラトリアムを全うしていれば話は別だろうけど、君はそんなルサンチマンの道を歩む様な人間じゃない。その上、君は永劫回帰を認めていない。だから、君が何かを学んでいるっていうのは当たり前だよ」


 澱んだ双眸で彼は僕を見つめる。瞼は少々重くなっている。眠いのだろうか?


「もちろん、学術的な面での勉強はしているさ。私が学んでいるのは君という人からだよ」


「君はそれを僕に言って恥ずかしくないの?」


「ああ、恥ずかしくはないよ。あいにく私にはそういった感情が欠如しているらしくてね」


 言葉とは違って彼は顔を覆う。薄暗さのせいで分からないけれど、きっと彼の耳は真っ赤になっているはずだ。自分に正直になれない人間は、見る者の心を安らかにしてくれる。それが例えうらぶれた成人男性であったとしてもだ。


「恥をかくのなら言わなければいいのに。明晰な頭脳を持っているのに、君はどこか抜けているよ」


 差し出されたボールペンのお尻をカチカチと押しながら、顔を赤くしている彼を見つめる。きっと、ジッと見つめられていることを分かっているから手を顔からどかすことができないんだろう。

 けれど、彼は非常に合理的な人間だ。感情よりも知識を求めるし、この整合性に合わせた行動を取る。彼はそういう人間だ。


「オーケー、私は少々自分を見失っていたよ。少しばかり頭を使い過ぎたんだ。今日も今日とて多忙だったし、昨日もずっと執筆していたせいで寝れなかった。だから、そう、これはただ自分を見失っていただけさ」


「君はもう少し寝た方が良い。目のクマも酷いし、髪質も抜群に悪い」


「寝れないんだよ。真理関数で表せないことに沈黙することは許されないからね。私たちは机上の空論で動くわけにはいかないんだよ。私たちは常に現実を生きて、自分の許容できる範囲の世界に奉仕しなきゃならない」


「大学生の言葉じゃない。それは実社会に所属してから初めて使うべき言葉だよ。理想に生きることは間違ってない。少なからず学生の内は許してくれるはずだ。だから、特別な責任を背負って腐った世の中について奉仕するなんて考えなくても良いはずだ。世界は常に鬱陶しいんだから」


 急にエンジンがかかり始めた僕に彼は溜息を吐く。おおよそ、僕の言葉は多忙な彼の心に響かなかったのだろう。それもまた当然だ。心を殺し、友人との貴い時間でさえ、奪い取るのが忙しさと社会なのだから。

 社会?

 どうして僕はそんなことを知っているんだろう。僕が未だかつて社会に所属したことがあっただろうか? 僕はこうしてずっと引きこもっていただけじゃないのか? 引きこもっていた? 違う。僕はこうして大学に来て、僕と彼だけのサークル活動にモラトリアムを費やしている。

 あれ? 本当に僕は……。


「的を射た言葉だね。学生の内は責任を放棄して、安逸な快楽を享受する。それもまた一興だ。この社会はあまりにも排他的だからね。無意識的な階級闘争、いや、階級闘争というよりも共食い、あるいはウロボロス的と言った方が良いかもしれない。ロバが繋がれた家は無いのだし」


 頬杖を突く彼の顔色から赤みはすっかり消えた。彼の顔に宿るのは月光の青白さだけだ。微笑も浮かべることなく、漆黒を宿した双眸が僕を貫く。


「そうだろう、そうだろう。だから、君がそこまで社会に執着する必要はないんだよ。僕らに必要なのはただこの空白期間を楽しく費やすだけだ。ただ一つ、それだけが重要なんだ」


「現実逃避に溺れるのもまた一興だろうね。けれど、やっぱり、どこかで僕らは現実を見なければいけない。そのために、ある現実を記述するために僕は『記す』。そうなんだ。つまるところ、僕は小説を書くという行為によって現実を見つめているんだよ。だから、君もまた現実を見つめよう。もちろん、強制はしないさ」


 柔らかな微笑を浮かべながら手帳の表紙をトントンと指で叩く。それは彼がいつも僕にこの本を読むこと促す合図だった。どうして彼は僕の書いた日記を僕に読ませたがるのだろうか。それに、不思議なことに僕はこれに記述したという記憶はあるし、読んだという記憶もある。けれど、いかなることを書いたのか、その内容が何なのかはわからない。まるで幻術にかけられたように、この記憶だけがすっぽり抜け落ちている。

 戸惑いと躊躇が僕の手を襲う。やせ細って骨ばった鳥の足みたいな手はブルブルと震える。余裕綽々な彼の態度とは異なり、酷い緊張が僕に与えられる。果たしてなぜ僕は緊張しているんだろう? 形而下に恐れるなんてありえないはずだ!

 いや、でも、こうして僕は恐れている。

 しかし、それでも僕は手を伸ばす。

 そして、適当にページを広げる。


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