怪奇雑記――待つもの――

雪村 紅々果

待つもの。

 初雪。ぬるい足あとがすぐさま溶かしてしまってもう見えない。しかし、猫はそんなことにちっとも関心がなかった。猫は鼻をツンと上げて、しっぽを揺らし、気取った足取りで通りを歩いている。


 猫は、白色の短毛。丁寧に撫で付けられた毛並みは少しびっくりするくらい今風で、美しかった。また、彼が着ている着物もここらでは見かけない派手にかぶいた柄物で、しかも、金刺繍の半衿、麗糸の肩掛けに、とんぼ玉の帯飾りをいくつもつけている。年をとった亀はすれ違いざまに白猫を見て、顔を顰めた。最近の若いモンはやたらと着物を派手にして云々。俗っぽくていっそ下品だ云々。聞こえたが、白猫は気にも留めない。


 白猫はしるこ屋の角を曲がり、亀も二言三言呟いたあとはそのまま歩いて行って、彼らは結局それっきりになった。


 しるこ屋の角を曲がり、小料理屋、レコード屋、しばらく行って、貸本屋の角を曲がり、それから呉服屋、元損料屋の空き家、甲斐犬のご隠居の屋敷の前を過ぎて、そして着いたのは硯と細筆の夫婦が住んでいる家だった。


 白猫はひょいッと庭に入り込むと、勝手知ったる顔で縁側から上がり込んだ。一分の隙間もなく閉じられていた障子を開けて、中に首だけを突っ込む。見ると、夫君の硯は出かけており、細君である細筆だけが炬燵に足を入れて読み物をしていた。


 細君は柔毛、長鋒の十号筆。長い白髪は緩くまとめられて、華奢な肩に垂れかかっていた。着物は紅鳶、帯は玄色。白い髪と肌によく映える。白いのと、細いのが目立ってしまって、細君は特段の美人と言うほどでも無かったが、ふと頬に浮かぶえくぼになんとも言えない愛嬌があった。


 白猫は細君の姿を認めるとニヤリと笑って、


「やァやァ、よしの先生。聞きましたよお、またアメハタ師匠を追い出したンですってね。」


 と、挨拶もそこそこに声をかけた。


 細君は頭を振って、読み物から顔を上げた。それは白猫の言葉を否定したのではなく「ヤレヤレ」と呆れからくる仕草だった。


「サンザから聞いたの? あの子も相変わらずだけれど、あなたもそれだけのことでいちいちうちへ来るんじゃありませんよ。」


 サンザとは韋駄天サンザのことで、ここらじゃ名の知れた噂好きのイタチのことだった。


「違いますよ。今日のはマルカクの大将からです。いい鰤が入ったからと声をかけられたついでに、ちょッと立ち話を、ね。」


 白猫はすっとぼけて、部屋の中に入った。早く閉めてちょうだい、という細君にはいはいと気のない返事をしながら、すぐに障子を閉めた。


 中は程よく温まっていて明るかった。白猫は、炬燵の中にまるで潜り込むようにして、いそいそと足を入れると、くふくふと小さな笑い声を立てる。細君は何気ないふうを装って彼の様子を微笑ましく見ていた。


「かりん糖でも持ってきましょうか。」


「オヤ、いいんですか? あンまり僕を甘やかすなと、師匠に言われてるんでしょう?」


「構いやしませんよ。」


 細君は言って、手元の小説を閉じた。


「あなたに厳しくするのはあの人の特権ですが、あなたを甘やかすのは私の特権ですからね。」


 言いながら、細君は立ち上がって、居間から出ていった。かりん糖は台所の棚の中であった。


 ○


 ここで簡単に話を整理しておこう。この話は猫、硯、筆、または亀、甲斐犬、イタチ、それから、烏と、魚籠と、そろばんと、そういうニンゲンでは無いものたちの日常雑記である。しかしながら、読者の皆さまの多くはニンゲンであろうから、猫や亀が着物を着て、硯や筆が夫婦になっているという現象に面食らってしまった人もあるかも知れない。もし、そういう読者さまがいるなら、ここでいちどキャラクタァ達を整理しておくとよろしいでしょう。


 初めに、硯の夫君こと、藤屋アメハタのことから。未だ小説の本編には出ていないが、この小説を読む上できちんと知っておいて頂きたい重要なキャラクタァであるので。


 藤屋アメハタ。彼は広く名の知れた物書きである。硯として、多くの古典に親しんだあと、当時の文壇の大家であった文鎮の某先生に影響を受け、自身も執筆を始めた。その作風は写実的、漢文の文体を下地にしつつも無駄のない実直な筆致で、知識人や文壇の重鎮たちからの評価が高かった。


 次に、その妻、細筆の藤屋よしの。彼女も夫と同様にいくつかの小説、または詩歌を発表しており、女流作家として新しい時代を拓くものと、主に精力的な女性活動家たちから支持されていた。彼女の作る作品は夫が書く真面目くさったのとはまるで違って、奔放であり新しかった。また、彼女の作品に出てくる女性は皆自由で気丈であった。


 ここまで読めばお分かりかもしれないが、この夫婦、あまり仲のいい夫婦ではなかった。夫君と細君のスタンスがまるっきり正反対なのである。文学談議、あるいは日々の些末なことでしばしば口論になるのだが、この細君、見目に反して負けん気が人一倍であった。


 例えば、夫君が一つ言えば、細君は五つにして返す。また夫君が二つ程言い返すと、細君は十にして反論するのである。夫君はすぐにだんまりになる。しまいに夫君は黙ったまま家を出て行くのが常のことであった。そのまま町をぶらぶらと歩き、頭が冷えたところで戻ってくる。これは近所のものなら皆知っている、いわば名物のようなものだった。


 そして、そんな夫婦の家に出入りしているのが、白猫の橘七宝であった。


 彼は藤屋アメハタの二番目の弟子であり、彼も執筆業を営んでいたが、この頃は代表作の『やえざくら』を書く前で、まだまだ駆け出しと言って差し支えなかった。


 さて、以上のことを踏まえた上で小説の続きに戻られたい。


 ○


 細君が居間に戻ってくると、白猫は細君が読んでいた小説をぱらぱらとめくっているところであった。栞の位置は動かさないでちょうだいよ、と細君が言うと動かしてませんよォと白猫は本を閉じた。


 細君はかりん糖が入った袋を置くと、白猫の向かいに腰を下ろした。


「面白そうですねェ、コレ。今度僕も読むことにします。」


「あなた、あの人に勧められた時は読む気がしないって断ってたじゃあないの。」


「そうでしたッけ? まァ、師匠に言われると読む気が失せるンですが、先生が読んでるのを見ると読む気が湧くんですよね。よくあることです。」


 細君は心の中でだけ、白猫に同意を示した。夫君は本を勧める時、文体や主題の選び方云々を理屈立てして、小むつかしく批評しながら勧めてくる。悪気あってのことでは無い。しかし、細君としては初読を純粋な読み物として楽しみたいのである。そういうところが相容れない。


 白猫の手がかりん糖に伸びる。ひとつを口に放りこんで「ンまい!」と頬を緩めた。


「コレ、何処のやつです? 随分と上物のようですが。」


 白猫の手がまた、袋の中からかりん糖をつまみ出す。


「さあ、なんという名前の店だったかしら。橡が送ってきたものなの。手紙にはちゃんと書いてあったと思うのだけれど。」


「へえ! 橡にィさんが!」


 白猫は強面な兄弟子の顔を思い出して、吹き出した。地味な見目の、図体も声も大きな烏の兄弟子が菓子屋の前で、しかめっ面で上等なかりん糖を買っているところを想像して、それはさぞかし滑稽だっただろうと笑いこけている。


 ひとしきり笑って、またかりん糖を口に放り込む。久しぶりに手紙でも出して見ましょうか、と独りごちた。細君もかりん糖を一口、それから、そうしなさいそれがいいわと頷いた。白猫はまた、満足そうにくふくふとと笑った。


「いつ頃帰ってくるンでしょうねえ、にィさんは。足の湯治もそろそろしまいでしょうに。」


「そう心配せずとも、そのうち帰ってきますよ。」


「いえいえ、にィさんには早く帰ってきて貰わないと。今度こそ師匠と先生が本気で離縁するンじゃねえかッて、僕ァ毎日毎日肝を冷やしてンですよ。矢っ張りにィさんの仲立ちがねえと。」


 サッと細君の顔がかたくなった。


「別にあなたたちの仲介なんていりませんよ。」


 何気ないのを装って、細君は早口に言った。本当になんでもないのだ、と自身に言い聞かせながら、手を伸ばして小説を引き寄せた。


 しかし、細君の強がりは火を見るより明らかに白猫の目に映った。が、彼の方でも意地の悪い言い方をした自覚があったので、細君の方を見つめながら、しばし黙った。


 白猫は先程とは打って変わって、至極真面目な顔をしていた。


「違いますよお。『仲介』じゃなくッて、『仲立ち』です。」

 白猫の口調は幾分かゆっくりになっている。


「意味はそんなに違わないのじゃなくって。」


 反対に細君の声音はかなりきつくなっていた。


「『仲介』は不仲な二人の間に入ることを言うでしょう。師匠と先生はお互いに惚れてるからこそ、毎日毎日喧嘩になるンです。ほら、『仲介』より『仲立ち』の方が正しい。」


 細君は閉口した。何を言っても白猫の言葉を肯定してしまうようだった。迷いに迷って、


「惚れた腫れたなんてことは当人らにしか分からないものよ。」


 とだけ言った。これも言い訳のように聞こえると気づいて、言ってすぐに後悔した。


「エェ、ですがこれだけははっきりしてるンです。」


 白猫が静かに言った。何が、と問い返す。白猫は声も出さずににんまりと笑った。白猫の目がきらきらと光った。


「先生は僕と毎日喧嘩なンて、絶対にしてくれないでしょう。」


 今度こそ、細君は黙り切ってしまった。むつかしい顔をして、手元の本の表紙を睨んでいる。目元に影が落ちて、ほんの少し、怒っているようにも見えた。


 白猫はかりん糖を口に入れて、噛み砕いた。行儀が悪いと知っていて、そのまま横になる。炬燵の布団を胸元まで掛けると、自分の腕を枕にした。


 ──彼は見た目に寄らず、お節介な質であった。


「……いつ帰って来るんでしょうねェ。」


 白猫はしみじみと言った。炬燵の布団に鼻を押し付けているのか、幾分か音がくぐもっていた。


「足の湯治が終われば、すぐに帰って来ますよ。」


「にィさんのことじゃあありませんよ。師匠のことです。」


 弾かれたように細君が顔を上げた。けれども、白猫の顔は炬燵の影に隠れていて、どうしたって寂しい気持ちが際立っていた。


「……そのうち、帰ってきますよ。」


 細君はか細い声で呟いた。


 外は雪。しんしんと振り積もった牡丹雪は、どんな音でもみんな吸い込んでしまって、寂しいくらいに静かだった。寒さは家の中まで染みてきていた。それからしばらく、二人の間には白い沈黙だけが交わされていた。

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