2-8「少し話そうか」

 何か恐ろしいことが起こったような気がして身体を起こしたとき、張り詰めていた空気が一気に弛緩した。耳の奥に残っていた音は次第に薄れていき、自分が何に怖れていたのかもわからなくなる。


 夢の嫌なところは、目を覚ましたあとも「あれは夢だった」と認識しない限り、永遠に現実として記憶に残り続けるところだった。それに、夢を見ている間はそれが夢であることに気づけない。


 夜中の空気はしっとりとしていた。水分を帯びているというより、水分を帯びているものが持つ、重量はあるのに軽いという性質がこの部屋にはあった。


 何の電子音なのかはわからないが、虫の声に似た音が絶えず鼓膜を揺らしている。家庭用より大きいテレビの、下部にある準備中の赤いランプが息を潜めてこちらを見ている。


 隣のベッドにかごめの姿があって、ここ二日間で見たのと変わらず、そこに生の雰囲気は全く感じられなかった。昨日は籠原側で寝たが、今日はかごめの側で眠っている。


 これは僕が下心を働かせたからではなく、彼女に頼まれたからだ。


 あの村を出てから悪夢を見る、とすでに籠原の寝息が聞こえる部屋でかごめは言った。電車で眠っているときや、夕食前にうたた寝をしてしまったとき、眠りという全ての行動にそれは付随して現われるようだった。


「怖いから、近くにいてほしい」


 寝たくないというかごめを宥めて眠らせたのが午後十時で、現在、時計は午前一時を示していた。かごめがうなされている様子はない。


 眠りに就く直前、夢の内容を尋ねたものの、抽象的な説明ばかりでよくわからなかった。話しているうちにかごめ本人もよくわからなくなってしまったようで、夢の話はそれで終了となった。


 目を擦り、部屋を見回す。かごめから始まった視界が百八十度回転したとき、そこに映る景色を見て心臓が跳ねた。ベッドに籠原の姿がなかった。


 周囲を見回し、籠原の荷物を探す。彼のバッグはベッドの麓に置いてあった。おそらく一時的に部屋を出ただけだろう。でも、こんな時間に、一体なんのために。疑念が頭に湧いてはスペースを押しつぶし、思考がままならなくなる。


 かごめを起こすか迷ったが、結局一人で部屋の外を探すことにした。ホルダーからカードキーを引き抜き、扉を開ける。廊下は薄暗く、人の気配は全くしなかった。


 身体を出し、耳を澄ませてみる。部屋を出たとき、廊下のずっと奥、非常口のマークが付いた扉が僅かに開いているのが見えた。


 静寂の音が鼓膜を刺す。足を踏みだすたび、理解の及ばない存在がどこかで僕を観察しているような気配が強くなる。


 足音を立てないように廊下を歩き、半開きの扉に近づいていく。今になって、武器を持ってこなかったことを後悔した。金属製の鍵ならまだしも、カードキーで身を守ることはできない。


 扉にはガラスの窓が付いており、そこから隣接した建物の外壁が見える。扉の向こうは、ホテルの壁に沿うように通路が設置されているようだった。息を吐き出し、隙間に顔を近づける。


 例えば外に村人がいた場合、気づかれる前に撤収し、かごめを連れて外に逃げる。もしくはホテルの人に通報してもらい、「不審者がいる」と言って警察に匿ってもらう方法もある。


 どちらにせよ、逃げるためには気づかれないことが大前提だ。


 扉の向こうには、籠原がいた。幅が一メートルもない足場のような通路で、ホテルの外壁にもたれるようにして煙草を吸っている。怪しい素振りは見られない。


 ふと、予備動作も何もなく、籠原の顔がこちらを向いた。


「うわっ!」


 僕が逃げるよりも先に、籠原が悲鳴のような声を上げた。その声に驚いて、一瞬、身体が強張る。逃げるのが遅れた。


「なんだ、柚沙かよ」


 籠原が息を吐き出したとき、身体の緊張が和らいでいくのを感じた。逃げの体勢に移行しかけていた身体を戻し、再び隙間から籠原を覗く。


「何、してんの」

「見ればわかんだろ。目が覚めたきり寝れなかったからな。煙草吸ってんだよ」


 目が覚めたきり寝れなかったから、という部分は見ただけじゃわからない。


「ここって吸っていいの?」

「外だし大丈夫だろ」

「ってか、カードキーは? ホルダーに刺さったままだったけど」


 籠原は何も言わずにポケットからカードキーを取り出した。受付時に二枚渡されていたのだろう。


 特に怪しい様子は見られなかったため、僕も外に出ることにした。乾いた空気が身体に絡んで、案外、心地がいい。


「隙間から覗くのやめろよ。幽霊かと思ったわ」

「幽霊なんて信じてんの?」

「いるだろ、かごめ様ってのが」

「見たことないくせに」


 はは、と笑ったあと、籠原は時間をかけて煙草を吸った。吐き出された煙がぶわりと膨らみ、空気に溶け込んでいく。


 少し話そうか、と籠原が言ったので素直に頷いた。

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