2-7「人が死ぬ映画」

 しばらく、歩道を進んだ。相変わらず僕たちと川の間には大通りが挟まり、その向こうには街路樹、さらにその奥には川が流れている。川沿いの道、というには違和感を抱くほど距離があるものの、川の流れる様子ははっきりと見えた。


「猿猴川」、というのがこの川の名前なのだろうけど、案内標識に書かれたその地名の正しい読み方を僕は知らなかった。また少し歩いた先で見つけた二つ目の案内標識で、名前の下に「えんこうがわ」とローマ字が振られていることに気づく。


 川と僕たちが歩く道はY字に分かれ、今度は視界に建物ばかりが映るようになった。


「なんか、平和って感じがする」


 ぽつり、かごめが呟くみたいに言った。前から巨大なトラックがやってきて、鈍くて大きいエンジン音の余韻を残し、横を通り過ぎていく。


 振り返ると、歩くのが遅いのか、籠原との間に十メートルほどの距離ができていた。


「平和?」

「うん。村だと、ここまで人はいないでしょ?」

「いないね」

「でも、どこを見ても、ちゃんと人がいるってことがわかるじゃん。あ、ここに暮らしてるんだなって」


 たしかに、辺りは車が走り、歩けば人とすれ違い、顔を上げるとマンションのベランダに吊るされた洗濯物が視界に映る。すれ違う人も、犬を散歩していたり、買い物袋を自転車のカゴに入れていたり、それぞれが、生活の一部であることがはっきりとわかる。


 たしかにこういう様子を平和というのだろう。


 昨日電車に乗っているときは全く気がつかなかったが、僕たちが座る傍らで乗り降りしていた人たちにも、それぞれの生活がある。


 平和というものは、それを平和と捉える側が穏やかな気持ちで観測した瞬間、初めて成立するものなのかもしれない。


 僕の右手のすぐ隣で、かごめの左手が揺れている。握ってしまいたくなる気持ちを、暖かい空気と一緒に飲み込んだ。


 映画館はショッピングモールの六階にあるようだった。エレベーターは一部がガラス張りになっていて、階を移動する人たちの様子が見える。目的地の映画館は、平日という性質もあってか、さほど混み合っている様子はなかった。


「俺はここで待ってるから、お前らは好きなもん見てこい」


 籠原は僕に三千円を差し出すと、どかっと音を立ててソファに腰を下ろした。礼を言ってから受け取り、「チケット」と書かれたカウンターを目指す。その横にはフードやドリンクの受付があり、辺りにはキャラメルポップコーンの甘ったるい匂いが立ちこめている。


 かごめの提案で購入したLサイズのポップコーンは、映画終了までに食べきるビジョンが見えないほど大きかった。


「私、ポップコーンの海に溺れてみたい」


 いや、彼女のペースなら食べ切るのは案外余裕かもしれない。会場に入る前からすでに三分の一が減っている。


「かごめは何か見たいやつでもあったの?」

「んー、特にない。でも、映画を見るっていうの、やってみたかった」


 村の外へ旅行を繰り返した僕でも、映画を見た経験はない。だから彼女が映画を見たいと言い出したとき、正直なところかなり胸が躍った。


 真っ暗な会場、巨大なスクリーン、いくつも並んだ座席。漫画や写真でしか見たことがないその景色を今から体感できるなんて、これは奇跡に違いない。


 かごめが選んだのは、男女の恋愛模様を描いた映画だった。男子高校生の主人公はある日、通学中に出会った他校の女子に一目惚れする。勇気を出して声を掛け、親睦を深めるが実は彼女は大病を患っていて――、というのが映画のあらすじだ。


 映画の上映開始時刻まではまだ余裕があったので、先に入場し、会場内で上映を待つことにした。受付で半券を受け取り、指定された三番スクリーンへ進んでいく。


「いち、に、さん」


 声に出して数えながら歩くかごめは子どものようだった。


 僕たちはチケットを買う際に指定した「E8」、「E9」に並んで座った。場内に、他に客はいない。スクリーンには他の映画の広告や録画等への注意喚起が順に映されている。


 大音量が流れているはずなのに、他に人がいないという感覚や照明の薄暗さによるものなのか、館内はひどく静まり返っているように感じた。


 映画の撮影は法律により十年以下の懲役、もしくは千万円以下の罰金、またはその両方が科せられます。頭がビデオカメラの男が、同じく頭が警報灯の男に羽交い締めにされている。会場内は、秋の空気をさらに冷やしたみたいに、凝縮された冷たさをしていた。


 殺人罪の場合、人はどう裁かれるのだろう。


 外部の警察に通報することも考えた。でも、かごめは生きている人と変わらない姿でここにいる。それに籠原の言葉からは、かごめの捜索隊が組まれたことが窺えた。


 宮司が逮捕されたとしても、村人が僕たちを逃さないだろう。


「考えごと?」

「え?」


 思わず振り向くと、想像より近くにかごめの顔があって焦った。


「難しい顔してたから」

「なんでもないよ」

「そっか」


 考えごとをしないほうが難しいのではないか。かごめの顔が正面を向いてからそんな考えが頭に浮かんだ。


 昨日は「今後」というものについて考えるほどの余裕はなかった。いや、そもそも、これまで明確に未来を思い描けたことなどあっただろうか。


 田沼商店で余り物の弁当をもらっては、いつやってくるかもわからない死に確実に近づきながらも、見ないフリをしてその日だけを生き延びようとしている。


「ねえ、柚沙はなんで私と一緒に逃げてくれたの?」

「自分でもよくわかんない。でも、たぶん、罪滅ぼしみたいなことなんだと思う」

「罪滅ぼし?」

「姉が病気で死んだんだけど、たぶん、僕なら助けられた気がしてて、」


 扉の開く音がして、後ろから人が歩いてくる気配があった。振り返り、椅子と椅子の隙間から様子を窺う。ポップコーンの載ったトレーを持った男は、僕たちの二列後ろの席に座り、それきり音を発しなくなった。


 人の邪魔になったら悪いので、それ以上は口を噤むことにした。


 数秒後にまた一人入ってきてから照明が落ち、一瞬、場にあるのは非常口の誘導灯、それから様々な隙間から侵入してきた微かな光だけになる。スクリーンはすぐに光を纏い、視界が外側に押し広げられたようになった。


「暗いね」


 映画の広告がまた流れ始めた瞬間、かごめが今度は囁くような声で言った。「うん」返事をした僕の声が、ナレーションの音声に重なる。


 腰を浮かせて体勢を直したかごめが、ほんの数センチ、僕に近づいた。


 互いに譲り合って使われない肘置きの、その下のスペースで僕とかごめの手が触れていた。冷たい手の甲のなめらかな感触が、表皮や血管、諸々を通り越して骨の髄に伝わってくる。


 規則的に脈の感覚があって、でもかごめの心臓は動いていないから、これは自分の脈だろうなと思った。


 明らかに手が触れているというのに、かごめは何も言わず、動かすこともしなかった。気づかれないよう、顔を正面に向けたまま視線を送ってみる。彼女は硬く口を閉じたまま、瞬きもせずに画面を見つめていた。


 長い睫毛にスクリーンの光が乗って、幻想的に輝いている。潤った目は、光の加減のせいで今にも雫を結びそうになっていた。


 彼女の頬が赤く見えるのが、スクリーンから放たれる光の色とは無関係だったらいいな、と思う。


 映画はもう始まったというのに、僕はかごめから目が離せなくなっていた。


 ふいにかごめがこちらを振り向いて、その潤った黒目が僕を捉えたとき、つい声が出そうになった。瞼がほんのすこしだけ閉じられて、強張ったような、それでいて妖艶にも無邪気にも見える笑みをたたえながら、「どうしたの?」、口の動きだけでかごめが言う。僕は口を閉じたまま首を横に振った。


 僕は主人公に自分を、ヒロインにかごめを重ねて映画を見た。


 死期が近づいたヒロインと一緒に、主人公は彼女の「やり残したこと」をこなしていく。途中、ヒロインの壮絶な半生が判明し、さらに実は彼女が自殺を望んでいたことがわかり、最後、主人公は一緒に死ぬ覚悟を決めるのだった。


 しかし、最後、死んだのはヒロインだけだった。彼女は主人公を残して死ぬ道を選んだ。生き残ってしまった主人公は彼女のぶんも生きる決意をし、墓参りをする場面で映画は終了した。


 エンドロールに入り、他の二人が座席を立つ気配を背後に感じながら、僕はこの結末について考えていた。


 二人が死ぬよりはいい結末だと言う人が多そうなものだが、これは、それよりずっと残酷な終わり方なのではないか。


 この先主人公は、ヒロインのいない世界を一人で生きていかなければならない。大切な人を失った苦しみを何度も味わうことになる。それだったら、一緒に死んでしまったほうがずっと楽だったのではないだろうか。


 エンドロールが終わって場内が光を取り戻し、僕はゆっくりと立ち上がる。かごめと目が合ったので、「どうだった?」、間を誤魔化すつもりで言葉をかけた。「たのしかった」かごめは目元を両手で順に拭いながら言った。


「あと、」

「うん」

「一緒に逃げてくれた人が柚沙でよかった、って思った」


 かごめから目を逸らす。心に、優しさや温かみとは明らかに異なる、温度を伴った黒い充足感が広がっていく。あ、なるほど、と思った。


 これまで抱いてきた認識のズレが、音を立てて本来あるべき場所に落ち着いた気がした。僕が彼女を連れて村を出た理由は、たぶん、罪滅ぼしのためでも彼女への恩でもなかった。

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