少し顔を上げてみた

加加阿 葵

少し顔を上げてみた

  夢を見たことがあるだろうか?



  それは、経験したことのない怖い夢?

  それは、すごい魔法を使う夢?

  それは、空を自由に飛ぶ夢?



  それは、儚い幻想的な世界。



 目覚ましの甲高い音で目が覚める。

 毎日聞いているのに、この音だけは好きになれない。

 ベッドから起き上がり、カーテンも開けず、朝ごはんも食べずに身支度をして家を出る。


 イヤホンをつけているため、通学途中の学生の会話や駅のホームの喧騒は全く聞こえない。

 スマホを見ながら電車に揺られ、誰でもできるような仕事を淡々とこなし、またスマホを見ながら帰路に着く。


 一人暮らしを始めた時は、家具をこだわろうとか自炊しようと思いもしていたが、今やただ寝るだけの部屋になっている。


 何も変わらない日々、寝て起きて仕事の繰り返し。

 買いだめしてあるカップ麺を啜り、シャワーを浴び床に就く。


 また明日も仕事か。


 いつもと変わらずただ同じ朝を迎えるだけ、そう思っていた。



  夢を見たことがあるだろうか?



 意識が起きる。

 目覚ましの音は聞こえてない。

 少し早く起きてしまったかと思ったがベッドが硬く感じ、風が頭を撫でる。


 ――風?


 バネにはねられたように飛び起きる。

 そこに知ってる天井は無かった。いや、そもそも天井が無かった。


 雲一つない真っ青な空。


 ここはいったいどこなのだろうか。夢の中なのだろうか。


 目の前に絨毯のように広がった草原は風が踊る場所のようだった。  

 風はまるで無数の妖精たちが踊るように草を揺らし、日の光によって宝石のように輝いている。


 背後にある森は、競うように伸びた木々が歌い、花々が微笑んでいるかのように揺れ、見たこともない小さい生物が顔をのぞかせている。


 水の音が聞こえる。


 少し歩くと滝が虹の橋をかけていた。


 水しぶきが空中で煌めき、その美しさは言葉では言い表すことができず、その力強い滝の音は、まるで「がんばれ」と自分を鼓舞してくれているようだった。


 目を閉じ深呼吸をする。

 吸い込んだ空気が体全体をかけめぐる気がした。

 目を開けるとあたりが暗くなっていた。


 夜の湖は暗闇を映しだし、月光は静かに水面を泳ぎ、星々が光り輝いていた。

 まるで夜空が大地の鏡であるかのように。


 闇夜の中、自分の周りを月光に照らされ輝く水晶の蝶が舞い、夜空の星々は物語を紡ぎだす。


 湖のほとりに座ると、月光を何かが遮る。

 見上げるとそこには、羽ばたく巨大な鯨体が、凪いでいる湖面に影を投げかける。 

 その背中には、空中を泳ぐかのように羽ばたく美しい羽が広がっている。


 空飛ぶクジラの歌声は、風に乗って広がり、自分の鼓膜を優しくなでる。


 クジラに魅了されたからだろうか、その歌声のやさしさに胸を打たれたからだろうか、雫が頬を伝う。


 その雫に悲しみの色はなく、母の胸で眠る子供のように、自分のすべてを肯定し受け止めてくれるような幸福感に包まれた。


 クジラが見えなくなるまで見送ると、眠気が襲ってくる。


 もっとこの場所にいたいと思っても、瞼が次第に重くなり、プツンと意識が途切れる。



  夢を見たことがあるだろうか。



 甲高い音が聞こえる。

 目を開けると、毎日見ている知ってる天井があった。


 いつものようなけだるさは全くなく、久しぶりに熟睡したらしい。

 夢に見た幻想的な風景や出来事は鮮明に覚えている。

 自分を励まし、肯定してくれたことを。


 カーテンを開け、空を見上げる。

 雲一つない晴天だった。カーテンを開けたのはいつ振りだろうか。


 今日は朝ごはん買ってから会社に行こうかな。


 少し目線を上げたくらいの心境の変化だが、今まで何度も見てきたはずのものでも輝いて見え、無意識のうちにイヤホンを外していて、駅のホームの喧騒も心地よく感じる。


 いつもはスマホを見ながら揺られていた電車も、外の風景を眺めてみたり、はしる電車の音を楽しんだ。


 仕事の帰り道。ふと空を見上げると、夢で見たような輝きに満ちた星空がそこにはあった。


 美しい歌を歌いながら優雅に飛ぶクジラはそこにはいないが、現実世界にもこんなに美しいものがあったのかと、感動のあまりため息をつく。


 おもむろにスマホをカバンから取り出し、カメラを起動させる。


 (綺麗に撮れた。せっかくだしSNSに上げようかな。タイトルはどうしようか)



  夢を見たことがあるだろうか?



  それは、経験したことのない怖い夢?

  それは、すごい魔法を使う夢?

  それは、空を自由に飛ぶ夢?



 夢と現実は時折曖昧になる。

 夢の中で経験する出来事は、現実と同じくらい鮮明で感情は本物のものと変わらない。

 夢の中で何を見たのか、それはただの幻想なのか、それとも何か重要なメッセージがあるのか。


 私は夢の中で幸福を感じた。

 今まで下を向いていた私に上を向かせてくれた。


 (タイトルは『少し顔を上げてみた』にしようかな)


 スマホをカバンにしまうと、いつもの帰り道と違う道に歩き出す。


 (今日の夜ご飯は自分で作ってみようかな)


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少し顔を上げてみた 加加阿 葵 @cacao_KK

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