第26話 一つの道

「39番白石真理亜」と呼ばれ集団房から出た。

 いつものように看守について歩いたが、途中でスーツを着た職員に交代となった。

 様子がおかしいな、と思ったのは取調室の扉を通り過ぎた時だ。

 私が集団房を出るのは取調べを受ける時か、運動の時間くらいのものだ。にもかかわらず、この日は職員に連れられ、説明もなく取調室を横目に真っ直ぐ進み、そのままエレベーターに乗った。勾留中の者をいったいどこへ連れて行く気なのか。私の知る限り、これは前代未聞の事態だった。

 エレベーターが開いた先は、以前の私も幾度となく出入りしていたフロアだった。職員が機械のように一定の歩速で廊下を進む。私もそれに続いた。


 職員が歩みを止めたのは、『第二会議室』とプレートのかかった部屋だった。目で促され、私が第二会議室に入室すると、スーツの女たちが何人か席に着いていた。

 その中にはチラホラと見知った顔が混ざっている。全員が神妙な顔をして私を見ていた。

 そして人の影に隠れるようにして座る人物と目が合う。



 ——時雨しぐれ



 私が駆け寄ろうと足を踏み出すと、時雨は目を伏せた。

 時雨……。


「白石真理亜さん」と声をかけられたのは、丁度その時だった。

 時雨から視線が外れる。

 声の主は、30代前半くらいの女性。見るからにハイキャリアと分かるが、冷たい雰囲気はなく、薄く微笑むような落ち着いた態度が印象的だった。

冴島さえじまよ」と彼女が言った。「あなたに嫌疑がかかっている西田教諭殺害事件の捜査を指揮しているわ」

 私は冴島の自己紹介に返答する代わりに「あの」と切り出す。「なんで私、ここに連れてこられたんですか?」

 冴島は「ああ、それね」と疲れを吐き出すように、一呼吸してから言う。「名探偵さんが連れて来い、というものでね」

 冴島は部屋の一番奥に目をやった。つられて私も目を向ける。不自然に後ろを向いた背もたれの高い椅子が見えた。

 前代未聞の容疑者召喚、それを警察に実行させるカリスマと人望——とおそらくハニートラップ——を持つ人物。そんな子は1人しか思い当たらない。

 椅子が回転して、姿を現した。


「真理亜」とハルくんが言う。


 その吸い込まれるような蒼い瞳に目が釘付けになった。私を包み込み、全てを受け入れるような慈悲深く広大な瞳。それはハルくんの心が瞳に写っているように思えた。

 ハルくんを目の前にして、上手く言葉がでない。代わりにハルくんが先に口を開いた。


「——助けにきたよ」


 にしし、と陽気にハルくんが笑った。

 ハルくんを見ていたら、なんとなく涙は見せちゃいけないような気がした。

 人差し指で涙を拭って、私も「うん」と笑った。





 そっか。ハルくんはここで明らかにつもりなんだ。

 この事件の真相を。









 全員が出揃ったのか、ハルくんが「さて」と言った。

 見回すと、刑事十数名——時雨と百地も含まれる——が神妙な面持ちで一様にハルくんに顔を向けていた。


「今日集まってもらったのは、何も僕が犯人を名指しして、事件を解決に導くためじゃない。僕は現時点で犯人は分かってない。それはあらかじめ言っておくよ」


 ざわざわと捜査員たちが各々話し合う声が広がった。中には失望の声も聞こえる。

 勝手なものだ。高校生のハルくんに捜査に協力させ、挙句犯人が分からなければ、困惑顔で「話が違う」と言う。刑事として情けないとは思わないのか。——いや、それ以前に大人として情けない。


 百地が手を上げて、誰の許可を得ることもなく勝手に発言する。「では、ハル様は今日は何のために皆を招集したんです?」

「ああ、当然疑問に思うよね。でも、僕の目的は最初から一貫してる。それは、真理亜を助けるため、だよ」


 ハルくんの答えを受けて尚、百地はよく分からなかったようで、首を傾げた。


「真理亜さんの疑いを晴らすために、真犯人を見つける、ということとは違うんです?」

「違うね。僕が証明するのは真理亜の疑いが晴れるまでの事実で良い。真犯人まで突き止める必要は僕にはない」


「ふざけるな」「人の命がなくなってるんだぞ」といった声がどこからか上がった。ハルくんは全く気にする素振りはなく、取り合いもしなかった。

 百地はハルくんの言葉に「言われてみればそうですね」と納得顔で頷いていた。


 冴島が言う。「いいわ。ならば、ひとまず白石真理亜の無実を示してみて」

 騒がしい会議室は冴島が喋り出すと、途端に静まった。


「そうしよう」とハルくんは頷いた。

「まずは事件のおさらいだけど、西田先生が殺害されたのは2月6日の21時から翌7日の午前1時頃。この4時間の間に殺された。場所は職員室だ。職員室のカギが収められたキーボックスの管理記録から、西田先生は20時52分に職員室のカギを取り出している。最後まで残業していた真理亜が退勤したのが20時8分」

「西田さんは一度退勤した後に、何らかの事情で職員室に戻ってきた、ということね」時雨が情報を整理する。


「そう。そして殺害された」とハルくんが言った。どこか儚げな眼差しで宙を見つめていた。西田先生と交流はあったのだろうか。16歳の少年の心の負担を思うと胸が痛んだ。


 不意にハルくんが私の方に顔を向けた。見慣れていてもドキリとする。ハルくんは『事実を話せば良いよ』とでも言うように微笑んでいた。


(まったく。人のことばっかり。お人好しだな)


 自然と笑みが漏れ、身体も心もリラックスして良い具合に力が抜けた。


「真理亜が退勤する時、カギは2本とも揃っていたのかな」とハルくんが問う。

「間違いなく、2本あったよ」

 ハルくんは一つ頷いた。「この事件で最も不可解な点、それは、西田先生殺害後の職員室にカギがかかっていた、という点だ」


 ハルくんが百地に目で合図する。百地は「はいな」と返事をし、メモ用紙をポケットから取り出して読み上げた。


「えーっと、西田さんは腹部をナイフで複数箇所刺され、頭部をバットで潰された状態で発見されました。西田さんのポケットからは職員室のカギが1つ見つかっています。真里亜さんの証言が正しければ、職員室は施錠され、窓も全てカギがかかっていたようです」


 つまり、完全な密室。いや、正確には違うか。私が犯人だった場合は、密室にはなり得ない。なぜなら、職員室が施錠されていたことを証言しているのは私だけなのだから。ハルくんは流れるように百地から説明を引き継いだ。


「繰り返しになるけど、6日の真里亜の退勤時にはキーボックスに職員室のカギは2本揃っていた。西田先生が真里亜の退勤後に戻ってきて1本カギを持ち出したとしても、残りのもう1本は依然キーボックスの中だ。そして、殺害後の西田先生のポケットには職員室のカギが1本入っていた——これは西田先生がキーボックスから持ち出したカギとみて間違いないだろう」


 ハルくんは一呼吸おいてから「となると、だ」と続けた。





「犯人はどうやって職員室にカギをかけたのか」





 ハルくんが黙り、会議室内はしんと静まり返った。生半可な意見は発せられない。そんなぴりついた空気が充満している。

 先ほどまで威勢よくヤジを飛ばしていた捜査員からも意見はでない。ただ縮こまるように存在を薄める努力をしているだけのように見えた。


 結局ハルくんが最初に口を開いた。「西田先生の持ち出したカギは西田先生が持ったまま、もう1本のカギはキーボックスの中。では、どうやって犯人は職員室にカギをかけたのか。警察の見解をもう一度、教えてもらえる?」と冴島警視に語りかけた。


 冴島警視は小さく頷いて、「鑑識が調べたところ、職員室の扉は正規のカギを使用する方法以外には施錠又は解錠は不可能、という見解に達したわ」と高らかに述べた。


 ピッキングやその他のトリックを使った形跡はなかった、ということだろう。正規のカギを使う以外の開錠、施錠は必ず痕跡が残る。鑑識が入ったのだ。小さな痕跡でもあれば必ず見つけただろう。だが、そういった痕跡は見つからなかった。つまり、カギは正規の閉められ方をした。これは確定情報のようだ。冴島が続ける。


「白石真里亜の供述どおり、20時08分の退勤時に職員室のカギが2本揃っていた、とするならば、被害者の殺害は誰にもできない。教師であろうと生徒であろうと、ね」


 確かに。冴島の言うとおりだ。西田先生が持ち出したカギは西田先生のポケットに残っているわけだから、犯人が去り際に施錠するためのカギがもう1本必要になる。そのカギはキーボックスに収められており、そしてその時間にキーボックスを開いた記録はない。八方塞がりである。


「そうなると」と冴島が私の方に挑戦的な視線をくれた。いい加減認めなさい、とでも言いたげな眼差し。「必然的に白石真里亜の供述が嘘、ということになるわ」


 悔しいが筋は通っていた。話を聞いた者全てが納得することだろう。白石真里亜以外の者の犯行は不可能、と。だが、その不可能が実際に行われてしまっている。私は事実やっていないのだから。

 焦りで居ても立っても居られない程だった。このまま、この事件は私のやったこととして、この場で『共通の見解」とされてしまう。そんな恐怖があった。

 しかし、ハルくんは全く動じていなかった。「それで真里亜を逮捕したんですね」と淡々と言う。


 少し胸が高鳴る。これからハルくんが警察の言い分をぶち壊し、誤りを指摘してくれる。誰にも思いつかない推理で私を助け出してくれる。私はそう信じてハルくんの言葉を待った。

 しかしながら、ハルくんの言葉は私の予期しないものだった。


「そうだね」とハルくんが言った。「冴島さんの言っていることは概ね正しい。僕も同じことを思っていたところだよ。どうやっても犯人がカギをかけて立ち去るなんて不可能だ」


(そんな……)


 眩暈がした。負けたんだ、と自覚するとただ座っていることさえ、困難になった。今自分が座っているのか、倒れているのかさえ、はっきりとは分からない。

 だけど、ハルくんは責められない。ハルくんはよくやってくれた。頑張ってくれた。ただ——


(ハルくんは敗北したんだ……)


 口の中が乾いて、呼吸の音がひゅうひゅう聞こえる。動悸が激しくなり、食道を立ち登るような吐き気が押し寄せる。

 不意に頭にハルくんの言葉が浮かんだ。







 ——僕が疑いを晴らしてやるよ







(敗北? いや、そうじゃない)


 ハルくんに助けを求めたのは誰だ。16歳の少年に重荷を背負わせたのは誰だ。

 私だ。私はハルくんに全てを託したんだ。だったら、最後までハルくんを信じるべきじゃないのか。

 大丈夫。ハルくんなら、なんとかしてくれる。

 ハルくんに目を向けると、彼は薄く笑っていた。そして、冴島警視に顔を向けて言った。


「でも同時に、1つだけ道があることに気が付いた。西田先生を殺して、職員室にカギをかける方法が」


 会議室が再びざわめく。

 誰もがハルくんに目を向けていた。

 青い澄み切った瞳が捜査員たちに向けられると、ざわめきは次第に落ち着いた。

 誰かが唾を飲む音が聞こえた。

 ハルくんの瞳からは誰も逃れられない。全てを見透かすスカイブルー。静寂に包まれた会議室がまるで深海のように感じられた。

 

「そんなこと可能なんですか?! どうやったんです?」と百地が声を上げると「簡単なことだよ」とハルくんは何でもないことのように言い放った。


「西田先生を殺しはしたけど、逃げなかったのさ。犯人——」















 静まり返る中、ハルくんが言う。
















「——市川 奏恵いちかわ かなえはね」






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