第14話 オーバーラン

 熱く荒いハル様の息遣いが聞こえる。色気に当てられ、秘部が疼いた。

 汗を滴り落としながら単調な動きを繰り返すハル様の一生懸命な姿は、それだけで尊い。そしてエロい。

 息苦しさに歪んだ顔を見ながら、私の性的な欲求は膨れ上がっていく。とどまるところを知らない。


「見られてると走り辛いんだけど?! てかなんで股押さえてる?!」


 呼吸を乱しながらもハル様が並走する私を睨んだ。

 余裕がないはずなのに、私を——私の股を——見てくれるなんて……さては私に惚れてる?

 体力的には余裕だが心臓が乱暴な鼓動を始めた。歓喜のパルスである。


「なんで文句言われてテレテレしてる?! この変態!」

百地ももちは決して変態ではありません。人よりほんのちょびっとだけ性欲が手に負えないだけです」

「手に負えない時点でほんのちょびっとじゃないよね?! とりあえず股押さえて走るのやめてくれない?! キモいから! おしっこ漏れそうな人みたいだから!」

「おしっこなんて……そういうアブノーマルのはちょっと……」

「なんで僕がアブノーマルプレイ要求したみたいになってんの?!」


 何故ハル様が走っているのか。ハル様に並走してはいるものの、実は私も知らない。

 4時限目の授業が終わるや否や、ハル様が彗星の如く、教室から全力疾走で飛び出してきたのだ。

 いや、その例えは彗星に失礼である。例えるならば、UFOキャッチャーのアームくらいが妥当か。ハル様の全力疾走は遅い。遅すぎる。遅可愛おそかわいい。


 廊下はもう終わりに差し掛かった。

 角が見えて来る。その先は階段だ。どうやら目的地は別の階らしい。

 90°の急カーブをハル様はだいぶオーバーラン気味に軌道を取り、そして壁に激突した。


「ハル様! 大丈夫ですか?!」


 ハル様は顔を赤くするだけで答えない。まさかあのノロさで曲がりきれないとは想定外である。可愛い。

 ハル様は壁を支えに無言で立ち上がったと思えば、ノロノロ疾走を再開した。

 階段を登り始める。


 え、上階に行くの?! 上階は2、3年生の教室しかないけど、と不審に思いながらついて行こうとしたら、ハル様が戻ってきた。そして今度は下の階へ向かう。どうやら間違えただけのようだ。頭が良いのに、たまに抜けている。そこが堪らなく愛おしい。


 ようやくハル様が止まった場所は、情報室だった。殺人現場となった職員室の代わりに、一時的に教員が日常業務を行う部屋となっていた。

 ハル様は膝に手を当て、ゼェハァ肩で呼吸していた。足元がハル様の汗で点々と湿っていく。

 私はハル様を覗き込むように、しゃがんで言った。


「教師に用があるんです?」


 ハル様は息絶え絶えに情報室の出入り口を指差す。


「江藤、先生が、いるか、ハァハァ、見て」

「江藤?」


 江藤は確かこの学校に3人——西田が殺害された今、2人になったが——しかいない男性教諭の1人だったはずだ。

 言われるがまま、情報室内を覗き込んだ。

 情報室は意外にも広く、落ち着いた色のカーペットが敷き詰められていた。壁際を沿うように長机が並び、机上にはデスクトップパソコンが等間隔に設置されている。

 何人かの女教師がパソコンに向かって作業していた。


 えーっと、江藤、江藤。

 男性教諭は少ないから、席にいればすぐ分かる。だが、席には女性教諭しかいなかった。

 席を外しているのか、と諦めたとき、丁度死角になっていた左の複写機の方から、江藤がやってきた。

 声をかけてもいないのに私の方へ歩いてくる。モテる女は辛い。でも私にはハル様というフィアンセがいるから、良い返事はできそうにない。

 江藤が私の前で止まった。


「江藤さん。残念ですけど、私は既にハル様にこの身を捧げる身であって、それにいくら男性とはいえ、小太りの——」

「——どけ」


 江藤は私の言葉を遮って、さらに乱暴に私を押し除けた。いくらフラれたからと言って暴力は感心しない。


「江藤先生」とハル様が廊下から江藤を呼び止めた。息は整ったらしい。ハル様が江藤の前まで駆けてくる。

 江藤は嫌そうな顔をして、それを隠そうともせず嫌そうな顔のまま言った。


「またお前か。今度は何だ。俺は忙しいんだ」

「そうですよね。いつも昼は学校の外で食べて来てますもんね」


 だからハル様は急いでいたのか、と私は得心が行ったが、江藤は訝しむ。自分の行動を把握されているのは確かに嫌なものだ。刑事の仕事柄、煙たがられるのに私は慣れている。だが、まだ高校生のハル様がそれに慣れているのは如何なものか。

 ハル様は江藤の顰めっ面に構わず、笑顔を維持して続ける。


「お時間は取らせないので少しお話しできませんか?」

「断る」と江藤は最大限の怒りを込めて言った。血走った目を憤怒で見開いた小太りというのは、意外にもなかなか迫力があった。

 江藤は言うなり、先ほど私にしたよりも強く、ハル様を横に押し飛ばした。


 江藤がハル様に腕を伸ばす時には、私は既に動いていた。

 ギリギリのタイミングで、ハル様を抱き止めるのに間に合う。抱きしめたまま、ハル様もろとも床に打ち付けられた。

 ハル様から放たれる芳しい匂いに気が行っていたためか、痛みは然程でもなかった。


 ハル様柔らか〜❤︎


 江藤は倒れた私たちを気にもせず、「全くどいつもこいつも」と愚痴を垂れながら去って行った。


 生徒に暴力を振るうなんて信じられない!

 教師失格である。

 だが、それがまかり通ってしまうのが男性教諭なのだ。

 世の男性はほとんど働かない。働かなくても、男性給付金だけで生きていけるのだ。

 働いている男性は例外なく高所得者である。贅沢な暮らしが染みつき、やめられなくなった男性だけが働きに出る。男性労働力は引く手数多だ。高給高待遇で迎えられるのだ。

 教育機関も例に漏れず、男性教諭は甘やかされ、その結果、図に乗った彼らはやりたい放題するのだろう。

 私は江藤の後ろ姿を睨んで見送った。



「ねぇお餅」


 不意に私の胸から声がした。性欲を刺激するイケナイ声。


「はい。なんでしょう。百地です」


 視線を自分の胸に移すと、そこには胸の狭間で顔を赤らめて固まるハル様がいた。


「早く離して」

 

 固まりながらも、ハル様は離せと言う。言いつつも決してもがいたり暴れたりはせず、私の胸に収まっている。このとき私は確信した。






 やっぱりハル様は童貞だ。





 可愛すぎる。優勝。大優勝。

 私はとりあえず聞こえないフリをして、もうしばらくハル様を堪能した。


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