第2話 ハル

 ハルは再度リビングに掛けられた時計を見た。

 もう何度目の確認になるか分からない。先の確認時から5分しか経っていない。すなわち現在午後10時35分。

 空腹に耐えかねて、カーペットの上に大の字に倒れた。


 もしこれで死んだら真理亜のせいだ。


 ハルはダイイングメッセージとして、真理亜にメールで『犯人は真理亜』と送ってみた。犯人にメッセージを残してどうするのか、とは思い至らない。ハルはまたも時計を確認した。10時38分。真理亜は帰って来ない。




 ハルがこの男女比のおかしい狂った世界に迷い込んでから、はや三年。苦労の連続であった。

 最初の3日はタコさん公園で過ごした。前の世界で『死んだ』と思ったら、訳もわからずこの世界のタコさん公園で目が覚めたのだ。

 歓喜したのは最初だけだ。


 どこを歩いても見知らぬ土地が延々と続いた。道ゆく主婦にここはどこか、と聞くと頬を赤らめ『東京』だと教えてくれた。しかも馴染み深い区だ。にもかかわらず、一向に知っている道に出ない。道ゆく女子高生に今は何年何月何日かと聞けば、もじもじしながら、ハルが死んだ日と同じ年月日を答えた。

 帰る場所が分からず、仕方なくタコさん公園に帰った。

 幸い、雨風を凌ぐのにタコの遊具は最適だった。

 日中やってくる女児たち——この時は男児がほとんどいないことに気付かなかったが——には「お兄ちゃん、妖精?」としつこく話しかけられた。

「違うよ。お兄ちゃんはね、神だよ」と言っておくと『タコ神様』と呼ばれるようになった。


 程なくして警察がやって来て保護された。女児の親御さんが通報したのだろう。

 その時の警察官が真理亜だった。後で知ったが、真理亜はキャリア組と呼ばれ、一般の巡査よりも高い階級から採用されるエリート警察官らしく、「私これでも警部なんだよ」と後に散々アピールされることになる。



 真理亜には「きみ、自分が男の子だってこと自覚しなきゃダメだよ?」と家出少年だと勘違いされ、怒られた。


 何がどうしてそうなったのかは全くもって不明だが、おそらく色々複雑な事情があったのだろう、結局ハルは真理亜のマンションで、真理亜の管理下に置かれ保護された。

 そうして2年。中学にも通わせてもらい、高校に上がろうと言う時に、突如として真理亜が警察を辞めた。

 そして——






 ハルは真理亜と婚約を交わした。






 2年間、真理亜と愛を育んだ訳では決してない。

 詳しい事情は知らない。知らないが、どうやら警察を辞める真理亜がハルと一緒に暮らすには『家族』でないとならない、ということらしかった。


 付き合ってもいないのに、いきなり婚約を申し込む真理亜の目は真剣そのもので、情欲はまるで見えず、何故か鬼気迫るものがあった。

 ハルが真理亜の申し出を受けたのは、それまでの2年間の真理亜の真摯な対応に好感を持ったのと、天涯孤独で誰かとの繋がりが欲しかったからだ。


 ハルは真理亜との生活をそれなりに気に入っていた。

 男女比が著しく偏ったこの世界で、ハルに好意を寄せる者は大勢いた。ハルの容姿が整っていることもあるし、この世界のハル以外の男子は性格破綻者が多いことも関係しているだろう。

 ハルに近寄ってくる女子はほとんど例外なく下心が透けて見える。

 唯一真理亜だけがそういった感情を露骨に向けてこない女性だった。

 2年間、ハルが真理亜に襲われたことなど皆無である。真理亜との暮らしはハルにとっても心地よいものになっていた。


 真理亜と離れたら次はどこに飛ばされるか分かったものではない。大物政治家の婿とか愛人とかにあてがわれても困る。あるいは、それの阻止が真理亜が急に警察を辞めて婚約を申し込んで来た理由なのかもしれない。

 とにかくハルは婚約の申し出を受けた。割りかし軽い気持ちで。

 照れ臭さから下を向いた真理亜は笑みを堪えるように口の端をもにょもにょとさせ、頬を染めていた。

 しかし、やがて顔を上げて言った。




「キミは私が守るから」




 その言葉をハルはそれなりに頼もしく思った。

 この先もう何一つ不自由なく、楽して生きていけるだろう。ハルはそう確信した。

 だが——








 ——それは大間違いだった。











 真理亜を待ちかねて、冷蔵庫に何かないか漁っていると、リビングの固定電話が設定された音声で着信を知らせる。



『真理亜ー、アイシ、照る、よ』

『真理亜ー、アイシ、照る、よ』

『真理亜ー、アイシ、照る、よ』



 不自然に繋ぎ合わされたハルの声が繰り返される。ちなみにハルは真理亜に『愛してる』など言ったことがない。再生されているのは『アイシールド』『照る照る坊主だよ』の一部だ。

 下心を見せない頃の彼女が懐かしい。



『真理亜ー、アイシ』受話器を取る。「もしもし?」



「白石真理亜さんの旦那さんですか?」と事務的な声がした。


「まだ旦那じゃありません。婚約者です。でもそのうち破棄するので未来の他人です」


「はぁ。そうですか」事務的な女はやはり事務的に聞き流す。そして、これを言えば自分の仕事は終わりですと言わんばかりの事務的さで事務的に告げた。











「その未来の他人さん、白石真理亜さんですけどね、逮捕状が出て、今こちらで身柄を預かっています」








 嘘から出た真。

 ハルの残したダイイングメッセージは正しかった、ということか。

 犯人は真理亜。

 完。

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