最高のお兄ちゃん(Side:沙枝)

 21時を回る頃。ペンタブに向かっていた沙枝の耳に、玄関の鍵が開く音。

「ただいま」

 帰宅した謙一を迎えるべく、沙枝は部屋から顔を出す。

「お兄ちゃんおはえり~」

「ん、おはいま」

 朝は顔を合わせないため、合体した挨拶が通例になっている。


「謙くんお疲れ様~」

 キッチンからパタパタ駆けてきた光梨が、労るように謙一の手を包む。顔を綻ばせた謙一を見て思う――やっぱり可愛くてたまらないでしょ、この子のこと。

「謙くん、手冷たい……」

「ん、さっさと風呂入ってくるわ」

「ゆっくり浸かっていいからね」


 謙一が脱衣所に入り、鍵が掛かり、持ち込んだスマホからの音声が漏れ聞こえ――キッチンへ戻ろうとする光梨の手を、沙枝は掴まえて。

「――んっ」

 廊下の壁に光梨の背中を押しつけ、沙枝は彼女の唇を貪る。謙一が流しているニュース、謙一が服を脱ぐ音、それらを背に必死に耐える光梨の静かな嬌声。

「ひかり、かわいいよ」

 囁くと、目を潤ませた光梨が無言で押し返してくる。その細い手首を掴んで征服感を堪能しているうちに、シャワーの音が聞こえてきた。


「だから沙枝、謙くんの前でこういうのは困るって!」

「バレないって、それに私たちがくっついてるのなんていつものことだし」

 ――まあ実際のところ、謙一にはどこかで察されているだろうけど。それでもこの生活は崩れないことを、沙枝は確信していた。


 謙一の自己効力感の源泉は、沙枝と光梨の「お兄ちゃん」であるという意識だ。全ては妹たちの笑顔のために――それが第一義である謙一にとって、沙枝たちの関係性を壊す選択は取れるはずがない。

 それに家の中ではどうあれ、余所から見れば謙一は光梨の結婚相手なのだ。今の社会では沙枝には手に入れようがない、世界一の名誉を手にしているのだ。


 だったら、それで十分でしょ?

 家の中でくらい妹が独占してた方が、釣り合い取れるでしょ?


 だから信じてね、お兄ちゃんも。

 信じさせてあげるからね、お兄ちゃんに。


 部屋に戻った沙枝はSNSを開き、謙一のアカウントをチェックする……お、今日も弱音が零れてますね?

〈家でも職場でも頼られるのは嬉しいし、居場所ないよりは全然良いんだけどさ〉

〈たまに思っちゃうのよね、誰かの一番として扱われたいって〉


 その文面を頭の中で転がしながら、アカウント切り替え画面で思案する。

「さてと……誰にしましょっかね~と」


 現在、21個。使わなくなったアカウントを含めれば40個くらいになるだろうか。

 謙一が友人のように思っているフォロワーたち――を装う、沙枝の裏垢たちである。全員、謙一の心理と行動を誘導するための架空の人格だ。作業の合間に適当にオタクっぽいワードを書き込みつつ、代わりばんこに謙一へとメンションを送っている。


 謙一はオフラインでは家と会社にしか居場所がないし、会社の同僚と社外で交流することもほとんどない。必然、オンラインでの交流や承認に飢えている。だから沙枝の仕込みだって謙一の心理にプラスに働いているはずなのだ、悪いことじゃない。


「よし、マコマコちゃんでいこう」

 謙一とはアイドルアニメが縁で知り合った、同年代の女性。学生時代に彼氏のDVで心身を病んだが兄に支えられて回復し、今は優しい夫と同居している――という設定。謙一が沙枝たちにキツく当たれないよう、DV彼氏やモラハラ夫のネタは裏垢の定番にしてある。セックスの習慣がなくても仲の良い夫婦、というアピールもマコマコの役割である。


〈普段はあんまり言えないですけど、マコは最高のお兄ちゃんと最高の夫に恵まれてるってずっと思ってます! けんけんさんの妹さんと奥さんもそうなんだってマコは確信してますから、自信もってほしいです!〉


 十数分後、風呂から上がってきた謙一は、上機嫌そうな顔色だった。特に言及することなく、沙枝はいつも通りを装って食卓につく。

「お兄ちゃん、昨日更新された『音カノ』読んだ?」

「いやまだ、良かった?」

「さっき光梨と悶えながら読んでた」

「そりゃ何より、後で読むわ」

 ずっと百合を好きでいてね、骨の髄まで百合厨でいてね――私と光梨を、何よりも優先してね。


「じゃあ光梨、今日もいただきます」

「はーい、謙くん今日もお疲れ様」

「明日も頑張ってね~お兄ちゃん!」

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最愛の兄嫁と、最高のお兄ちゃん 市亀 @ichikame

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