第4話 フェアのその顛末

「ほらよ、サービスだ。あとケーキいくつか買ってけ」

「えっとあのその」

「大丈夫だよ、ちゃんとドイツ語で書いたから。あんた読めないだろ。それにアイリスの花言葉は愛のメッセージだ。ちゃんと渡せよ」

 えっ愛の⁉︎

 呆然としているまま、あれよあれよと英一が好きなやつだとケーキを2つ包まれて追い出された。わけがわからない。お代はそれなりに高かった。高すぎるほどではなかった。確かに美味しそうだった。

 とぼとぼと公園通りを反対側の入口の喫茶店アイリスまで戻る途中にようやく頭が働き始め、2つ持たされたアプフェルシュトゥルーデルの箱を片手に途方に暮れる。どっしり生地のアップルパイなのだけど、これ2個で1週間分のカロリーはありそうだ。


 英一の好きなケーキ……?

 そういわれるとなんだかこれは贈呈しなければという強い気持ちが沸いてくるわけで。推しに推しの好きなものを進呈できるなんて推し冥利に尽きる。そうかぁ、マスターが好きなケーキなのかぁと思えば気持ちはぐへへと向上した。

 そして今日2回目の喫茶店アイリスの扉を押し開けると、ふと目をあげたマスターと目が合った。ラッキー。

「おや、おかえりなさいませ」

「た、ただいまなさい! あ、あの、これを!」

 おかえりとか鼻血出る滾る。混乱するままケーキの箱を押しやると『ああ、ノルゲンのケーキですね』と返事があった。会話、尊い。

「よくご存知なのですか?」

「ええ、小さい頃からよく。この企画もノルゲンのご亭主の案です。お若いでしょう?」

「ご亭主、ですか?」

「ええ。赤毛の女性です。私より歳上なんですよ」

「ブッ」

 10代にしか見えなかったんだけど? いやでも確かに貫禄が。

 マジか。いやそんなことより推しの前で吹くとは失態がすぎます。けどマスターより年上⁉︎ ならマスターの若い頃のことを是非聞きに伺わないといけない。心のメモに書き留める。

 ケーキのお礼ですと本日の珈琲をご馳走になり、じゃりじゃりしそうなほど甘くて林檎の香り高い至福のケーキを頬張りつつ、ポエム対策を考えた。


「参加したいと思わせるにはスペシャリティがあってもよいのではと」

「スペシャリティ、でしょうか。けれどもこの店のお客は大抵がお一人様ですので、ノルゲンのようには無理でしょう」

 確かにこの昭和感あふれるアイリスにラブイベントは無謀すぎる。

「そうですねぇ。バレンタインに縁がなさそうな方ばかりで……すからバレンタイン路線は捨ててしまってはどうでしょう」

「捨てる、でしょうか?」

「スペシャリティ、つまり特別な気分になればいいわけです。このお店のお客は珈琲好きな人ばかりです」

 私以外は、という言葉をそっと隠す。

「例えば詩に合った珈琲をマスターがお勧めするのはどうでしょう」

「私が、ですか」

 マスターの整った眉毛が少し驚きの形をつくる。

「はい。普段と違うコーヒーが楽しめるっていうスペシャリティ」

「なるほどそれは面白そうですね」

「このお店にイチャつきにくる方はいなさそうですし。……それでこれはおまけです」

 再び私以外はという言葉を隠してどうしたものかと逡巡する。愛というよりそれは推し。推し活ならばプレゼントは鉄板とビクビクしながらチョコを裏向きにお渡しすると、ありがとうございますと穏やかに受け取って頂けてホッとした。


 その後、私のアドバイスが功を奏したのかお勧め珈琲案は大好評で、何日か通ううちにアイリスの掲示板もノルゲンほどではないにしろ、紙が降り積もるようになっていた。よかったよかったと胸をなでおろし、けれどもこれだけ応募が増えると商品券は当たらないのだろうなと少し残念になる。

 けれども推しの喜ぶ姿が一番だ。

 そんなこんなでバレンタインデーは穏やかに過ぎてしばらく経った頃、小さな異変が起こった。

「吉岡様、いらっしゃいませ」

「マスター、本日の珈琲お願いします」

 そして本日の珈琲とは別に小さなチョコレートが4つほど入った小皿がついてきた。

「あの、これは」

「私も商店会員なので応募された詩を拝見したのです。そうしたら吉岡様のお名前がいくつもありまして」

「な」

 その瞬間の衝撃と不覚感とジレンマと絶望と羞恥と驚天動地と動揺は筆舌に尽くしがたい。よく珈琲を吹き出さなかった。まさか、あれを、あれが、マスターの目に⁉︎ なんだって! もう駄目だ!

「このお店を気に入って頂けて本当に……吉岡様?」

「うがが……お店?」

「ええ。それにチョコレートもお好きなようで」

 絶望に打ちひしがれようとしていた私に予想していなかった言葉が響く。

 お店? お店? マスターではなく⁉︎

 そういえば詩にダイレクトアタックはなかったはず。内心の大混乱がマスターの笑顔で癒やされ、疑心暗鬼と対抗している。大丈夫? 本当に? 恐る恐る見上げても、マスターは優しく微笑むばかりだ。本当に?

「ノルゲンのご亭主に伺ってテンパリングというものを教えていただきました。召し上がって頂けると幸いです」

「頂きますとも‼︎」

 その艶めいたチョコは本当に美味しかった。本当に、色々な意味で涙が出た。推しから手作りのお返しを頂けるなんて。心臓が止まると思った、本当に。色々な意味で。

 そしてアイリスはバレンタインの喧騒から日常に戻り、私が降り積もらせたポエムは結局商品券をもたらしたりはしなかった。


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