第2話

 あっという間に夏休みの半分が過ぎ去って、お盆がやってきた。受話器をおいたおばあちゃんの表情から、やっぱりお父さんとお母さんは来ないんだとわかった。おじいちゃんのシチカイキだから、その段取りを決めなくちゃなのにってブツブツ。でも、やっぱりぼくはおじいちゃんのことを覚えていなかった。

「でさ、明日、よく知らない親戚のヒトが何人かくるらしんだけど。富山のおじさんと、大阪のおばさんは膝が悪いから来れなくて、おばあちゃんの弟の息子のセイイチおじさんとか、従兄のユキト兄ちゃんとか。説明されたって誰のことも知らないんだ。いっしょにご飯とか食べなくちゃで、その日はあんまり外に出られないんだ」

 さぁっと、山から冷たい風が下りてきた。風向きが変わったんだ。

「カオリ?」

 ぼくは不安になって名前を呼んだ。風が彼女のにおいを連れ去って、急に遠くへ置き去りにしてしまった。隣に座っていたのに、触れようとした指先が透き通って、すり抜けたみたいだった。そのとき、ぼくはカオリからなんの手応えも感じなくなった。

「カオリもうちに来たらいいのに」

 ほんの出来心の提案に過ぎなかったけれど、カオリが機嫌を悪くしたのがわかった。なぜって、急に立ち上がって背中を向けて、むすりと黙り込んでしまったんだもの。影に触ることさえ許さないぐらい、ピリピリとんがった静電気が体中から出ているカンジだ。彼女は時々、どうしてかわからないけどひどく機嫌を悪くした。遊んでいて突然そうなる。目には見えないむき出しの柔らかい体があって、知らないうちにぼくが踏んづけてしまっているんだと思う。しばらくすると、何でもない風にぼくを抱きしめて、「怒ってないよ」って、思いっきりばかにするんだ。

 このときもほとぼりが冷めるまで離れていようと思ったんだけど、意外にもカオリはぼくを呼び止めた。

「ねぇ、約束」

 カオリはそっぽを向いたまま、誰かに向けて言葉を風にさらわせた。

「明日。夕焼けがにじんで、夜の群青と仲直りするちょっとの時間。神社の参道と田んぼの畦の交差点。辻のお地蔵で待ち合わせ」

 今まで約束なんかしたこともなかったのに。

 ぼくはその約束を、リュックに忍ばせた瓶に捕まえて、しっかりと口を締めた。

「忘れないで」

 カオリはどんな顔してただろうか。どうせまた、涙もながさず、ひどく泣いているに違いなかった。


「なんもない田舎にほったらかしにされて、暇してるだろ? 外で遊ぶっても、友達どころか人探すのも大変だよなぁ」

 従兄のユキト兄ちゃんは、ゲームに付き合ってくれながら同情してくれた。ゲームは上手いけど、手加減が苦手で、やられっぱなしのぼくは少しも面白くなかった。

「おれも子供のころ、親が忙しいからって放り込まれたっけ。なんとか駅まで行こうとして、一日中歩いたな。結局、駅にはたどり着けず、切符代もないし、連れ戻されたんだよな」

 もう二十年ぐらい前の話だよ、と笑った。眉と同じぐらい整ったあごひげをさすって、「でもな」と兄ちゃんは続けた。

「不思議なことにどうやって家まで帰ったか覚えてないんだ。ばあちゃんは車ないし、近所のひとに見つけてもらったのか。それともばあちゃんが交番に連絡して、警察にみつけられたのか。子供の足だからたかが知れてるけど、車に乗った覚えがないんだよな。それが妙でさ、今でも忘れられずにいるんだ」

 そうこうしている間に料理が出来上がり、大人たちは宴会をはじめた。昼間だっていうのに居間はアルコールとタバコの煙で満杯になった。近況報告ぐらいは平気だったけれど、話題はすぐにお父さんとお母さんのことに移った。ぼくが眼の前にいることなんかお構いないしで、酔いはじめた口はいい加減なことばかりを吐いた。

「どうするつもりかね、まさかここで生活させるわけにもいかないだろう。学校のこともある。依子さんは引き取るつもり、あるのか」

 富山のおじさんが油臭い煙を吐き出して言った。

「顔も出さんさ」

「やっぱり年が離れ過ぎだと思ったのよね。久くんはもう45でしょう? 10も違うんじゃしょうがないわ」

 おばあちゃんのうなるような返事に、キンキンと声を上げたのは大阪のおばさんの娘で、この中では一番若い。若いと言っても、お父さんの従妹だから四十過ぎだ。お母さんや、まさかカオリとは比べるべくもない。女のひとにもたくさん種類があって、ひとりずつ違う生き物なんだってことをおぼえた。すこしの気まずい空白をおいて、再びおばさんが声をあげた。

「私のところは無理よ! ただでさえ三人もいるのに。一番下の子はまだ小学生だわ」

「やめなよ。まだ決まった話じゃないのに」

「いやよ、いるうちに話しておかないと。勝手に決められて押し付けられたらたまったもんじゃないわ。あんたがなんとかなさい」

「うちは新婚で、それにマンションだからさ」

 たばこの煙がどんどん重たくなって、ぼくの鼻先まで垂れ下がってくる。スーパーで買ってきたらしいオードブルは、ギトギト油が冷めて固まって食べられたもんじゃない。居間は気分の悪いものがたくさん詰め込まれた鍋だった。たくさん、たくさん、不快で煮詰められて、まっ黒く焦げだして、ドロドロで。胃もたれが酷くて吐き気がする。小さな体をよじって、テーブルの足の間をくぐり抜けて、おとなたちが爆弾を押し付けあっている間に障子の隙間をすり抜けた。

「カオリっ……、カオリ、カオリ、カオリッ!」

 別に大したことじゃないさ。いつもの『がまん』と『しかたない』のイベントがはじまっただけさ。都会でも、田舎にいても、誰の家でも。ちっともだ。大きな声で寂しいってわけでもない。ほんのちょっとだけ、コップのフチでつま先立ちしていた気持ちがこぼれてしまっただけさ。こんなのなんでもないはずなのに、母親をさがす小さな子供みたいに、大声でカオリを呼ぶ声をがまんできなかった。

 探すときにはみつからなくって、ほしいものってむずかしい。

 夕暮れが泣き虫の目みたいに赤くなって、すこしずつまぶたが垂れ下がって夜がくる。待ち合わせのお地蔵さんで、ぼくは膝を抱えて待っていた。

 カオリはまだ現れない。

 カオリはまだまだやってこない。

 カオリはちっとも透明で、目には見えなくなったみたい。

 カオリはぼくに会いにこない。

(降あね確率0ぱーせんと)

「おォオィ、えらい遠くまでいったなぁ。足疲れたやろう?」

 ほんのりと赤らんだユキト兄ちゃんがバイクをのろのろ走らせてやってきた。ヘルメットは被っていないし、お酒はぜんぜん抜けてない。それを注意する警察はどこにもいないんだけど。

「悪かったなぁ、流石にあんな話されたら居心地悪いに決まってるよな」

「お父さんとお母さんは、別れるの?」

「そうと決まったわけじゃない。おじさんたちが勝手に言ってるだけだよ。今頃ふたりで旅行にでも行ってるかもしれない。夫婦には時々、二人っきりになる時間が必要なんだ。ケンカしたり、話し合ったり、仲直りしたり、ね。ユウトとおなじさ。友達とケンカしたら気まずくなるだろ? 仲直りには時間がかかる。ときには数年、数十年経つこともある。でも、久也兄さんと依子さんにはユウトがいる。時間をかけるわけにはいかないから、夏休み中になんとかするのさ」

「夏休みはとっても長いよ」

「大人にとってはあっという間さ」

 ユキトさんはグシャグシャにぼくの髪をなでまわした。

「帰ろう。飯食って、寝て、元気にしてれば、なんとでもなるさ」

 ユキト兄ちゃんはふとお地蔵さんに目線を移して、目を細めた。

「懐かしいなぁ。俺もよくこの地蔵で待ってたもんだよ。夏休みの間だけ、遊んでいた子がいてさ。元気にしてるだろうか」

(ぴぴぴ、ぴぴぴ。ハロー警報発令。急速に成長した入道雲がお姉さんを降らそうとしています)

 冷たい夜風が吹いた。家路を急がせるような、寂しさをつのらせる肌寒さ。

「約束だよ」

 振り返ったユキト兄ちゃんに向かいあって、カオリが立ち尽くしていた。

「待っていたんだよ」

 見えていないみたいに。

 透明に溶けてしまった。

 ユキト兄ちゃんはカオリにまったく気が付かなくて、その体をすり抜けて来た道を引き返していく。

 夕立がほっぺたを濡らして落ちた。

 ぼくはその雨粒を受け止めて、瓶にしまったんだ。

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