夏の標本、そのかおり

志村麦穂

第1話

 仕方ないには田舎が詰まっている。

 しかたがない。いながたかし。いなか、がたし。

 ぼくには田舎が耐えがたい。お父さんもお母さんも、ぼくをばかにして、靴紐さえ結べないグズだと思い込みたいらしかった。わかっていないって思いたいんだ。例えば、お母さんが夜勤のときに、ぼくが寝たフリをした部屋の隣を、アルコールと甘ったるいジュースみたいな香水の足跡がお父さんに肩を貸して入ってくること。例えば、ぼくが学校からはやく帰ってきても、玄関の扉の外で言い訳のようにお小遣いをくれるお兄さんが出てくるのを待っていること。

「わかってくれるでしょ?」

 自分たちの言い分を通すときにだけ、わざとらしくゆっくりと喋る両親が嫌いだった。大人と子供のちがいははっきりしていて、つまりはぼくは何を言われても従うしかないってことを、お父さんもお母さんもわかりきっているってことだ。

 がまんとか、仕方がないとか。言い訳に隠した本音とか。そんな早朝のネオン街みたいな臭みがぎゅうぎゅうにつまったセダンの助手席で、鼻をつまむこともできないでいたんだ。せっかくの夏休み。ほんとうはぼくだって、友達と遊ぶ予定があったかもしれないのに。がまんと仕方ない、だ。

 お母さんは夜勤明けで疲れているから、とついてこなかった。お父さんは薄気味悪いほど笑顔で、サービスエリアではなんだって買ってくれようとした。そこにぼくの欲しかったものはひとつも並んでいないのに気が付かないで。膝の上に置かれた食べきれないお菓子とファストフードを持て余す。お父さんはこれから行く場所がどれだけ楽しいかを説明するのに一生懸命だったけれど、すぐに話題がなくなって、虫取りと川遊びと自然の豊かさを三周したところでカーステレオに手を伸ばした。ラジオなんか入らないから、いつものCDから聞き慣れた歌が流れてきた。マイラブ・イズ・フォーエバー、出逢った頃のように。どっちが買ったCDなのか、ぼくは知らない。


 高速道路を四時間、下道に降りてから二時間。見飽きていたはずのビルが見えなくなって、山と田んぼが交互にやってくる景色。路面のアスファルトは、アトピーとピーナツで噴火し続けるタケ坊の兄貴みたい落ち着かない。うんざりしてお尻が音をあげたころ、大きくため息をつくようにして、お父さんのセダンがその足を止めた。

 コンビニすらないような田舎の名前をぼくは知るはずもなかった。息苦しさから飛び出すように開けたドア。伸びをした鼻に、嗅いだことのないしっとりした山の気配が許可していないのに入り込んできた。洗っていない靴底の裏側と、ほったらかしたみかんの皮みたいな、ぼくの複雑さと負けず劣らずのむつかしいにおいだ。

「大きくなったね、いうと」

 セダンの止まった古い家から、毛羽立ったまだら色のセーターをきたおばあちゃんがぼくを迎えた。年を取ってうまくぼくの名前をいえないみたいだ。おばあちゃんとは、何年も前におじいちゃんの葬式であったことがあるのだと、お父さんから聞かされていた。だから、ちっとも覚えていなくても、知り合いのフリをしなくてはいけないんだって。ぼくはこれから初めてあったひとの家で暮らすのだ。ベニヤ壁の表面がべろんと剥がれて、不安なぼくをからかった。

「ほら、挨拶なさい」

 お父さんが背中を押し出して、くずる靴を車から遠ざけた。そんなの、ちっともよけいなお世話なんだ。

「こんにちは」

 気まずくて顔を見れなかったけれど、おばあちゃんが頷いたのはなんとなくわかった。

「依子さんは来なかったんだね」

「病院勤めは簡単に明けられないのさ。俺だって、無理言って有給をとって来たんだ。ユウトのことよろしく」

 そういってお父さんが下ろしたのは、ぼくの体ぐらいの大きすぎるキャリーバックだった。昔、新婚旅行でハワイに行ったとき使ったものらしい。ぼくの着替えや宿題なんかは、すっかりリュックに入ってしまっているのに。おばあちゃんは大荷物をみても、眉を上げただけでなにも言わなかった。

「盆には来れるね?」

「俺も依子も忙しいからな。とりあえず、夏休みの間でみといてくれ」

 頼むよ。お父さんは手荒くぼくの背を叩いて、セダンに乗り込んだ。分かれの挨拶もなく発進したものだから、ぼくの体を車の進路からどかしただけだって、すぐにわかった。


 おばあちゃんとの生活は、たくさんある『しかたがない』との戦いだった。

 おかずは基本的に茶色いし、お菓子はあっても茶色。近くにお店なんてないし、歩いても歩いても山か田んぼ以外のどこにもいけない。夏の暑さと退屈が喉を締め付けても、寝返りだけではどうにもこうにもならないってこと。一人でやるゲームもすぐに飽きて、話題の合わないおばあちゃんとは遊ぶこともできない。テレビのチャンネルは少なくて、人気の番組は天気予報。毎日何度も再放送される。

『ハロー警報が発令されています。日中出現するの確率が高まっております。十分にご注意ください』

 田舎では『あね』がふるらしい。

「『あね』ってなに?」

 聞いてもおばあちゃんは教えてくれなかった。

 降あね確率50ぱーせんと。お姉ちゃんのふる。ちょっとぐらい変なことでもなけりゃたまらない。

 家を囲んでいた山の木が、いつしか、ぼくを閉じ込める檻みたいに思えていた。居間には固定電話があったけれど、ぼくが来てから一週間、一度も鳴ったことがない。


 『しかたなさ』に耐えかねて、歩いて歩いて、歩きつかれて、お地蔵さんのいるボロいお堂に腰掛けていたときのこと。帰りたいとは思わなかったけれど、とにかくどこかに出たくなった。無性に泣きたくなって、誰かに見られたら恥ずかしくて、でもみるようなひともいないんだって気がついて、よけいにイライラして、本当に涙がこぼれてしまったとき。

 ぼくは、カオリにであったんだ。

「こんにちは」

 ハロー警報。声掛け注意。田舎じゃときどき姉がふる。

「ボク。ねぇ、ボクったら。なんで泣いてんの」

 人の気配なんかしなかったから、すっかり驚いてTシャツの裾で顔を拭ったんだ。

「うるさい」

「ねぇ、ボク。ねぇ、あんたってホントに子供だね。私が構ってやろうってんのに、わかんないの?」

 どうしてか、素直に話してやる気にならなくて。でも、足が痛かったから、立ち去るわけにもいかなくて。せめてもの意地でそっぽを向いた。思えば、ぼくらしからぬ、分からず屋の子供っぽすぎるやり方だ。お父さんやお母さんには通用しないから、すっかり忘れてしまっていたんだ。

「もっとかわいくしなよ。私に気に入られたいはずでしょう」

 その時、まだ名前も知らなかった彼女は、ぼくの頭を遠慮ない力で叩いた。

「なにすんだよ!」

 反射的に振り向いたそこには、ぼく以上に寂しげで、家主のいなくなった鳥の巣みたいにがらんとした彼女が泣きそうになっていた。初めて会ったひとに、眼の前で泣かれそうになって、ぼくの涙はすっかり追いやられてしまった。

「なんだよ、オマエ」

「カオリだよ。カオリって呼んで。お姉さんでも、あんたでも、オマエでもなくて」

 そんな義理はちっともなかったけれど、有無を言わせぬ彼女の目に頷いた。どことなく若い頃のお母さんに似ていて、痩せっぽちで、化粧っ気がなくて、切りたての果物の匂いがした。

「……カオリ」

 微笑んだカオリの顔は、もっとひどく辛そうで、この夏に見つけたはじめての宝物だった。

 ぼくらは、汗が張り付いて、寝苦しくなる気配がする夜の入り口に立っていた。

 そこからどうやって家まで帰ったのか、よく覚えていない。気づいたら筋の硬い野菜の煮物を噛んでいて、お風呂の支度が整っていた。おばあちゃんは帰りが遅くなったなんて思ってもいなかったし、遠くのご近所さんの軽トラで送ってもらったなんて話もしなかった。ただ、脱いだシャツや手首や体のあちこちに、そっけない入浴剤みたいに染みついたいいにおいがあった。けばけばしい都会の夜とは違ったにおいで、ぼくの鼻をいらだたせないにおいだ。

 それからカオリはいろんなところに現れた。ううん、それはちょっと違うかもしれない。ぼくがカオリを思うとき、彼女はそばにいたんだ。退屈だと思ったとき、ひとりきり静かで心細いと思ったとき、蝉しぐれや夏風のなかにやわらかなすっぱさをみつけたとき。いつだって隣にいるんだけど、見つけようとしてもぼくからは探し当てられないんだ。

 ぼくはおばあちゃんから使ってない瓶をもらって、小さなひかる宝物のカケラを詰め込んでいくことにした。漬物用だったから大きくてたくさん入る瓶だ。カオリを追いかける探知機にするつもりだった。その小さな宝物のひとつひとつにカオリの影を感じていたんだ。カラカラの抜け殻。河原でみつけた平べったい石。草むらをなぎ倒した真っ直ぐな枝。神社に落ちるまだら模様なひかり。夏空を閉じ込めたビー玉。畦道を吹き抜ける青くさいぬるま風。それらのカケラを集めた宝箱だ。その思い出の隣にはいつだってカオリが笑っていた。でもまだまだ、ぼくからカオリを見つけられなかった。

「がらくたじゃない。もっときれいなの集めてよ」

 カオリは唇を尖らせて、川べりにひたしていた足を跳ね上げて、ぼくの顔を見事に濡らした。日向の下で彼女をみると、思ったよりも幼い顔立ちをしていた。背だってぼくよりもかかと一つ分高いだけだ。何歳か聞いても教えてくれないけれど、それほど年上でなさそうに思えた。意地悪したり、すねたり、泣いたり、ぼくなんかに甘えたり。小さい子供みたいにわがままなんだ。がまんとか、仕方がないとか、そんな言葉は使わないんだ。

「きれいなものって?」

「壊れないもの。古くならないもの。薄くならないもの。飽きたりしないもの。忘れないもの。誰かのものにならないもの。ボクと私だけのもの」

 だから、ぼくを困らせるようなわがままを平気でいうんだ。

「なぞなぞ? 現実にあるものの話をしてよ。そういうのはズルだ」

「現実にあってほしいもの、だよ。ボクなんかには難しいかもだけど。子供がちっさな脳みそで考えるより、私のきれいはずっと大変なの」

 ばかにされていることだけは分ったけど、河原の大きな石を投げて、水しぶきをはねさせることで反抗するしかなかった。水滴は透明すぎるカオリには濃ゆすぎて、髪を洗うみたいに通り抜けてしまう。

「持ってたら欲しがったりしないわ。それが宝物ってものなんだから」

 そういって、また泣きそうな顔でわらったんだ。

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