(五)八重垣

(見つけた!!)


 華は尊の目の前で立ち止まった。


 尊は、まるで絡め取られるようにして八岐大蛇の肉壁に捕らわれていた。例えるならば蜘蛛の巣にかかった蝶のようだ。

 顔は剥き出しになっているが目を瞑っている。肩がわずかに動いているということは、呼吸はできているようだ。服がところどころ破れている。これらの状態は、八岐大蛇の中で抵抗した結果なのだろう。


(……朔夜はどこ?)


 華はきょろきょろと辺りを見渡した。

 尊の後に飲み込まれたはずの朔夜は、八岐大蛇の使役主でもある。もしかしたら何らかの方法で脱出したのかもしれない。


(そうだとしたら、脱出できる方法は確実にあるということだよね)


 華は尊の前に立ち、見つめる。


 ……生まれ育った山陰の集落から一生出ることはないと思っていた。

 鍛冶師になるという夢を諦め、そのうち幼なじみの朔夜と結婚して、子どもをもうけて、慎ましく暮らしていくのだろうとぼんやり考えていた。

 ところが朔夜が集落を滅ぼし、華だけが生き残った。

 尊によって帝都へと連れてこられたが、一生、心身が回復することはないような気がしていた。

 だというのに、今。

 たくさんの人の助けを借りて刀を鍛え、仇である八岐大蛇の中に飛び込んでしまった。

 命の恩人を、今度は己で助けるために。


(正しい選択肢なんてひとつもない。ただ、選んだ方に進むだけだ)


 この世界は不公平だ。子どもの頃からそう思っていて、今だって思っている。


(それならいちばん後悔しない方へ歩きたい)


「……お慕いしております、一条さま」


 面と向かっては決して言葉にできない想いを音にすると、ふしぎと力が湧いてくるようだった。体の隅々、指の先まで温かい。

 ぎゅっと鞘ごと刀を抱きしめる。


(どうやって目覚めてもらえばいいんだろう)


 華と一緒に飛び込んできたらしい火の精霊たちが、華を真似して首を傾げた。


「一条さまー! 神剣が完成しましたよ!」


 呼びかけてみるものの、当然のように、反応はない。

 翡翠の腕輪をはめた左腕を掲げてみる。


「光れ、って言って光ったら苦労しないよねー……」


(うーん……)


 華は考えあぐねた末に、一歩だけ尊に近づいた。

 つん。柄の先端、かしらと呼ばれる金具で、尊の手の甲をつついてみる。

 ぴくりと動く尊の手。


(反応した!)


「し、失礼します」


 尊の前で片膝をつく。

 今度は、右手に柄を握らせてみる。落ちないように華は自らの手を添えた。

 そして瞳を閉じる。


「起きてください、一条さま。あなたの目覚めを、皆が待っています」


 祝詞のりとなんて知らない。ただただ、祈るように、呟いた。


「……」


 尊の睫毛が震えた。

 やがて、黄金の双眸が、ゆっくりと開かれる。

 華は尊を見上げて微笑んだ。


「おはようございます。神剣が、完成しましたよ」


 華は、目頭の奥が熱くなるのをぐっと堪えた。


「華、か……?」

「はい。華です」

「……夢を見ていた。……君が勇敢に……立ち向かっていた……」


 まだ尊の焦点はぼんやりとして、合っていない。意識が朦朧としているようだ。


(……もしかしたら、あの世界にいた一条さまも、わたしと同じように翡翠に招かれた一条さまだったのかもしれない)


 ここから出られたらくずはへ尋ねてみよう、と華は考える。

 今は、何はともあれ八岐大蛇から脱出しなければならない。


「一条さまのための神剣を鍛えてまいりましたよ」


 すると尊が刀の柄を握る手に力を込めたので、華は離れて立ち上がった。

 尊の表情がくる。己の手にしているものが何かを理解したようで、双眸が強い光を帯びる。


「……玉鋼を、守りきれたのだな」

「はい。一条さまのおかげです。央さんやくずはさんの力を借りて、完成しました」


 厳かな動作で、尊は、鞘から刀を引き抜いた。

 滑らかな音と共に刀身が現れる。瑞々しい光を湛えた刃は、たしかに華が鍛えたものだ。

 研ぎ師によって磨かれ、その後も多くの人間が携わり、一振りの刀となった。


 尊の喉が上下に動く。


「これが、神剣。なんと美しい……」

「名前を付けてください。そうすれば、この刀は、一条さまだけのものです」


 ――迷いも躊躇ためらいもなく、尊の唇が動いた。まるで最初から知っていたかのように。






「『八重垣』」





 

 ごぅっ! その瞬間、神剣から風が吹いた。

 尊が輪郭ごと光に包まれる。


 突風に吹かれてしりもちをついた華だったが、尊から視線を逸らすことはできなかった。


(……なんて美しいんだろう……)


 華の脳裏に、央の言葉が蘇る。

 刀の究極系。それはとどのつまり『美しくて強い』。『八重垣』はまさしくそれを体現しているようだ。


 神剣からの風によって自由の身となった尊は、しっかりと自分の足で立っていた。


「ここから出る」

「はっ、はい!」


 華は慌てて立ち上がる。


「ここがまだ八岐大蛇の体内だというのなら、単純に斬って脱出するのが最善だろう」


 すっと背筋を正す尊。華では両手で抱えるのがやっとの重量だったというのに、尊は軽々と神剣を握っている。

 そして助走をつけて飛び上がると大きく空中で回転した。


「はっ!」


 その勢いのまま尊は天井部に神剣を突き刺し、肉を斬るようにぐるりと一周する。

 ずずずず……。鈍い音の後、切り口から光が迸る。

 着地した尊は神剣を鞘に納めると華を引き寄せた。


「きゃっ!?」

「掴まっているんだ。舌を嚙まないよう、歯を食いしばっておくように」


 華は指示通り尊に思い切りしがみついた。恥ずかしがっている余裕はない。脱出の衝撃でどうなるか分からないのだ。

 切り口が徐々に離れていくと、外の光が差し込んで――。


(出られた……。いや、まだだっ)


 ず、ん……!

 完全に切り離された部分は、どうやら尾に近かったようだ。


「華さん!」


 耳に届く呼び声はくずはのもの。

 浮遊感と共に華は宙に浮く。くずはの力のようだった。

 八岐大蛇へ差し込んできた光は松明たいまつだったようで、辺りはとっぷりと日が暮れていた。それだけ長い間、華は八岐大蛇の体内にいたらしい。


「びっくりしたわよ! 無事でよかった」


 くずはが華を引き寄せてぎゅっと抱きしめてくる。


「あとは尊に任せましょう」


 華は振り返った。


 七つの首は泥酔したまま既に斬り落とされていた。

 最後の首が嘆き、怒り狂っている。七つの仇を討たんと猛っている。


「はっ!」


 ばんっ、ばんっ!

 まるで昔からの持ち主だったかのように尊の手になじんだ神剣は、八岐大蛇の吐き出す光弾を撃ち落とし、八岐大蛇の首元へどんどん近づいて行く。


 とんっ。八岐大蛇の頭頂に、あまりにも軽やかに尊が到達する。


「これで――最期だ」


 尊は容赦なく『八重垣』で八岐大蛇を貫いた。




 ぶわあっ……!!




 八岐大蛇の輪郭が震える。

 元々実体を持たない妖だ。土の力を帯びた神剣の力により、もはやこの世界には存在していられなくなっているようだった。


 分解されるように、空気中へどんどん霧散していく。


 流星群のようにきらきらと煌めきながら、流れ、消えていく……。


(父様。母様。とも。……美代さん)


 華の家族を、集落を飲み込んだ妖の最期は、あまりにあっけないものだった。

 頬を一筋の涙が流れて地面に落ちた。

 喜びなどみじんもない。失われたものは取り戻せないのだ。

 そのことが、ただただ痛かった。


 尊がゆっくりと華たちに近づいてくる。


(……月の光、みたい)


 その双眸の強すぎる輝きに、華は息を呑んだ。

 華の隣でくずはがすっと立ち上がる。


「華さんに無理をさせないでちょうだい」


 声に、わずかに含まれた怒気。

 尊は華に向き合うと信じられないことに頭を下げてきた。


「すまない。心配をかけた」

「いえ! わたしこそ、…………」


 華は勢いよく両手を振ってみるものの、どんどん萎んでしまう。

 ありがとうという言葉が適切なのか分からなかったのだ。

 俯いたまま顔を上げることができない。ただ、地面をじっと見つめる。


(……あとひとつ、解決しなきゃいけないことがある)


 そんな華の心境が伝わったのか、上方でくずはが口を開いた。


「ところで禁術師はどうなったのかしら。華さんの話だと、八岐大蛇は尊を飲み込んだ後に彼へも襲い掛かったそうだけど」

「再度、捜索せねばなるまい」

「そうね。八岐大蛇を倒せたのが、せめてもの収穫かしら……」


 不意に顔を上げた華と、尊の視線が合った。

 尊の眉尻がわずかに下がる。悲しんでいるのでもなく、かといって、決して笑ってはいない。そんな曖昧な表情をしていた。


「帰ろうか。帝都に」


 帰ろう。

 その言葉は華の心に、雫のように落ちて広がった。


 夜が、明けようとしている。

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