【完結】君に傘はいらない

あきのな

とある南の島にて

 何故にこんな場所で、傘をさしたままトランク一つだけを抱え、泣きながら歩いている女性、それもどうやら海の向こうからやってきたであろう女性がいるのだろうか。彼には事情がよくわからなかったが、既に雨もあがり、晴れ渡ったこの夏の空の元、めそめそと泣きながら歩くのは、こう、もったいないのではないか。陽気な性分の男は何ともなしにそう思って、思わず声をかけてやる。


 女性がびっくりして顔を上げた。大丈夫です、というような事を、この国の片言の言葉で返事しながらまごまごと足を止める。遠方からやってきたらしいが、この町に知り合いでもいたのだろうか。心に痛みを負った女性というのは万国共通でこんな顔をするものだ。もっとも彼にとって「世界」とはこの小さくも陽気な街が全てであり、それは勝手な想像でしかないのだが。


 彼はふと、二年前に別れた幼馴染の女の子の顔を思い出す。もっとも、その時の女の子と違って、目の前にいるこの異国の女性は、自分の横っ面をはたいた上に背中を盛大に引っ掻いてくるタイプには見えなかった。

 いっそこのまま景気付けに仲間内のパーティーにでも連れて行ってやろうか、と思ったが、ガンジャの香り漂うあの場所に外国人観光客、しかも女性ひとりを連れて行っては後日面倒なことになりかねない、と彼の良心がそれを押しとどめる。彼はつい先日やっとのことで職を手にしたばかりであり、まだ警察のお世話にはなりたくはなかった。


 思わず声をかけたは良いが、何をどうやって話せばいいのかわからない。地元の女の子達をナンパするのとは丸で勝手が違う様だ。次の言葉を探して視線をちょっと上の方へ彷徨わせていると、雨上がりの空に虹が出ているのに気付く。彼はそっと、女性の顔を翳す影を押しのけるように、傘の縁に手を伸ばして、空を指差した。


 雨上がりの空から光が一筋差し込み、傘で隠されていた女性の顔を照らす。泣きはらした黒い瞳、きっと泣きはらしてさえいなければもっと美しいのであろう黒い異国の瞳。海の向こう、自分の「世界」の外から、トランク一つ抱えてやってきた女性。事情をあれこれ聴くのは野暮なことだ。男はそんな自分の陽気な性分に、自分で感謝する。少なくとも、遠い世界からはるばるやってきたこの女性の前で、かっこ悪い振る舞いをせずにすんだのだから。


 女性が空を見上げ、虹に気付き、何度も何度も目を瞬かせながら、ゆっくりと傘を閉じて、空を見上げる。そして、しばらく後に微笑んだ。

 ああ、何と美しいのだろう。その微笑みの眩さに思わず目を瞬かせた男を見て、小さく、そして今度ははっきりと、翳りのない、光の灯った顔で礼の言葉を言った。


 …………ああ、親愛なるボブ・マーレー、敬愛するミュージシャンにして我らが偉大なるラスタマンは知っていたのだろうか。世界で最も小さな「雨上がりの空の光」は、美しい女性の顔の真ん中に現れるということを。

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