3. 人間じゃないとこ

 とあるオフィスビルにて。

 エリカは定時きっかりに自分のデスクを去ると、黄昏の薄暗い街に繰り出した。歩きながらスマホをチェックし、マッチングアプリもパパ活アプリも通知が数件ずつあることを確認。ターゲット選びは帰宅後だ。東京都のセイレーン限定グループチャットでは、最新情報は更新されていない。


「やあ、今日もお疲れ様」

 前触れのない気配とともに、柔らかな声が隣に並んだ。エリカは反射的に舌打ちをする。

「こんな美形が声をかけているというのに、何が気に入らないんだ」

「人間じゃないとこ」

 耽美な顔を見れば腹立たしさが減退するので、彼を見ないまま罵った。すらりとした黒い人影が視界にちらついて、エリカはふいと明後日の方へ視線を逸らした。


「アタシ忙しいんだから、どっか行って」

「確かにあくせく働いて忙しそうだ。セイレーンにしては珍しい」

 煽られている自覚はあるが、一番気にしていることを言われれば、エリカは黙っていられない。

「あのねえ、アタシだってこんな自立した人間の女じみたこと、やりたくないに決まってんでしょ。男を誑かすセイレーンなのよ、屈辱だわ」

「それを百年近く続けているのだから、涙ぐましいことこの上ない」

「腹立つわね」

「君の努力を褒めているんだ。ほら、今夜もまた私の店へ行こう」

「吸血鬼の相手はお断り」

「君の音痴克服を手伝うと言っているんだよ」


 そんなのいらない、と言えないくらいには、エリカは自分の音痴にうんざりしていた。

「アンタ、よほど暇なのね」

 代わりに減らず口を叩くと、吸血鬼はにたりと笑って「君と違ってね」と痛い一言を返した。

「それと、気安くミハイと呼んでくれ、エリカ」

「馴れ馴れしいっ。名波さんと呼びなさい」

 肩に置かれた手を乱暴に払い嘆息したところで、持ったままのスマホ画面に通知が表示された。


『大田区在住××さんが音信不通となり二週間です。東京都及びその近郊にお住まいの皆さんは、婚活・恋活・パパ活の対象を慎重に選び、危険を感じた際はムードなど気にせず直ちに歌いましょう! また、不審人物情報はこちらのURLから————』

 見れば、ここ数ヶ月で発生したセイレーン失踪に関する連絡だった。危険を感じたら歌いましょう、なんて人間から見れば滑稽な文面だが、こちらとしては至極真剣な話である。


「不穏な報せだ」

 すぐ頭上から囁かれて、エリカは画面を胸に伏せながら睨み上げた。

「勝手に見ないでよ」

「しかし、ハメを外したセイレーンが裏社会に消えるなんて、無いことではないだろう。随分警戒しているんだね」

 エリカのひと睨みなど、どこ吹く風の高月。それに苛立ちながら、エリカはスマホをバッグにしまった。


「全国で年に一度、あるかないかよ。それが今年になって、東京で三人も失踪しているの。福岡と大阪でも似たようなことが起きてるって話だから、定期的に注意喚起があるってわけ」

「そうか。なら安心だね」

「何がよ」

「君の歌唱力じゃあ、セイレーンだとばれる心配はないだろう」

「————いつか絶対魅了して、いいように利用してやるんだから」

「それは魅力的なお誘いだ! その野心のために、私は今夜も君に尽くそう」

 無邪気に破顔して嫌味なことを言う男から顔を背け、しかし、エリカは彼と共にあのナイトクラブへと向かうのだった。





「そも、歌というのは単なる上手い下手で優劣が決まるわけでは無い、と、私は思うんだ」

 クラブの個室で一通り基礎練習を行った後、好きな曲を歌えと言われたエリカは、色っぽいエレクトロスウィングが窓越しにくぐもって聞こえる中、これにつられてジャズナンバーを披露した。歌い終えると、高月は深い吐息と共にそんな講釈を垂れ始めたのだった。

「そういうのいいから、手っ取り早くアタシを上達させなさいよ」

 すると男は、悩ましげに眉を寄せて苦笑した。いちいち腹の立つ表情である。


「無理だ。音程もリズムも壊滅的、抑揚が支離滅裂、意味不明なタイミングでビブラートやこぶしを効かせる、エトセトラエトセトラ。何故そこまで不愉快な歌い方ができるんだ」

「細かくダメ出ししないでっ」

「しかし、お世辞にも歌唱力が高いは言えない歌手が、歌自慢のカラオケ名人なんかよりよほど人を惹きつける時だってある」

 視線で射抜かれ、エリカは無意識に身を引きソファの背もたれに体を押し付けた。瞬きもしない琥珀色が、とろけるような熱を孕んでいる気がして、その底知れなさに背筋が寒くなる。


「セイレーンの美しい歌とは、上手なそれとは限らない。狂い惹かれる魔性が宿るのなら、紛れもなくセイレーンの歌といえるさ。……君にしか奏でることのできない旋律がきっとある。私はそう期待しているよ」

「……アンタ、アタシに何を求めてんのよ」

 今のところ、都合よく助けられ都合よく(かどうかは現時点で判断しかねるが)歌の練習に付き合うばかりで、対価を求めることもない。それがエリカの懐疑心を一層高めた。

「だから、私は退屈なんだ。君に付き合うことが、今の私には何よりの楽しみさ」

 胡散臭い笑顔に一瞥くれながら、エリカは彼が店に用意させた温かい蜂蜜レモンを啜る。


「…………ねえ、アタシのこと好きなの?」

 恥じらいというよりは信じ難いという面持ちで、エリカは恐る恐る尋ねた。高月は顔色一つ変えずにワインを一口味わって、

「当然だろう。そうでなきゃ、ここまで尽くすことはないさ」

 あっさり認めた男の笑顔に、エリカは狼狽して頭が真っ白になる。


 それから高月といくつか言葉を交わして部屋を出たが、あまり記憶にない。ぼんやりしていた思考が明瞭さを取り戻したのは、帰宅しようとダンスフロアに降りて、顔見知りとばったり出会でくわした時であった。

 同じセイレーンの同胞だ。彼女は人混みの中、独り踊っているようにも見えたが、すぐに重なる人影の奥から相手の男が現れた。エリカが惚けてそれを眺めていると、彼女もまたエリカに気づいた。

 彼女は人懐っこい笑みをこちらに向けて、彼女の腰を抱く無骨な手の甲を撫でた。男の熱っぽい瞳の奥に虚無が映り、魅了の餌食になっているのだと気づく。エリカは下唇を僅かに噛んで、妬ましさを押し隠して同胞に笑顔で手を振り、店を後にビルの谷間を急いだ。高月に店の外まで見送ってもらえば、まだマシな見栄も張れたのに、と惨めな後悔が肩を重くした。


 駅の地下出入口から地上に出て、刺すような冷気に顔を歪めながら、エリカはマンションへと帰り着く。エリカの自宅は、セイレーンたちが遊興に溺れる繁華街とは異なり、雑居ビルやアパートが狭苦しくひしめく一角にあった。男の一人でも心掴むことができたなら、たった一晩だけでもこんな寒々しい生活から離れられるのに。

 幾星霜も繰り返した夢想に浸っていると、背後から靴音。振り返る間もなく、髪をひっつかまれて口を塞がれる。


「ちょ、ちょっと何————!?」

 首筋にちくりと痛みが走る。途端、ぐらりと視界が歪んでエリカはその場に崩れ落ちた。朦朧とする中、注射針を持った男と、聴き慣れない言語で誰かに連絡を取る男を見たのを最後に、エリカの視界は暗く閉じた。

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