2. 病の方がまだ可愛い

 吸血鬼は、ミハイ高月たかつきと名乗った。エリカが彼に連れられたのは、深夜経営の飲食店が密集するビル、その地下二階ナイトクラブだ。同族以外との深い接触は避けたいところだが、この男、放っておけば家まで付き纏ってきそうな危うさがある。上機嫌な高月を盗み見ながら、エリカは彼に促されて踊る喧騒とそれを掻き消す派手なEDMの只中へと足を踏み入れた。


 腹に響くリズムに合わせ、わかめよろしく人間が踊りくねって進みづらい。人混みをかき分ける際にぶつかった男女集団が、千鳥足でステップを踏みながら、下手くそなジョイントを吸い回す様子が視界に入る。煙草とは別の甘ったるい煙の不快さに、エリカは思わず顔を歪ませた。

「あまり睨まない方がいい、こっちへおいで」

 それとほぼ同時に、高月がエリカの肩を抱き寄せた。不思議なことに、すいすいと人混みを進めるようになる。


 人の少ない上階へと上がり、二人は立ち並ぶ個室の一つへ入った。

「私はここのオーナーだ。好きなものを飲んでくれ」

「いらない。それより説明して」

 エリカは苦々しく告げた。対する高月は、一見すると爽やかな笑顔を湛えて、

「では適当にあつらえよう。まあ座ってくれ」

 部屋の電話から注文を始めた。エリカは男と距離を置いて、扉に一番近いソファに腰掛ける。窓からはダンスフロアが一望できて、多様に切り替わる照明が蠢く群集を不気味に彩っていた。やがて店員がワインボトルとグラス二つを運んでくると、高月は上機嫌にワインをグラスに注いだ。


「襲わないさ。人間以外の血はとても飲めたものではない」

「どうだか。ていうかアンタ」

「ミハイと呼んでくれ、エリカ」

「……アタシ、名乗ってないんだけど」

 男のあでやかな微笑に、喉をつまらせたエリカであった。彼はその反応を満足げに堪能しながら、ゆったりとグラスを口に運んだ。

「噂に聞いている。このご時世、搾取できる男との出会いなんていくらでも作れるだろうに、いまだに誰も籠絡ろうらくしたことのない、歌の下手なセイレーンがいるとか。興味が沸いてね」

 その噂を流したやつを絶対に引き摺り出してやると心に誓いつつ、エリカは無言で高月を睨む。男は歯牙にもかけず、それが一層エリカの癇に障った。


「怖い顔をしないでくれ。せっかく愛らしい美人なのに」

「その褒め言葉は聞き飽きてるの」

「相当こじらせているなあ。どれ、いくらか聴かせてくれないか、君の歌を」

「ハァ?」

 思わず間抜けな声を上げたエリカであったが、対する高月は澄ましてワインを味わった。

「こう見えて私は三百歳を超えていてね」

「じゃあその外見若作りなの? キッショ」

吸血鬼ノスフェラトゥに老いも若いもない、話の腰を折らないでくれ。——長い年月の中で、音楽の教養も一通り培っている。その智恵ちけいを教示して差し上げよう。どうせなら、魅了のコツを伝授したっていい」


 どうだい、と眉を上げて見せる高月。エリカは苦々しく眉根を寄せ、膝の上で拳を握りしめた。

「……嫌よ」

「何故」

「馬鹿にされて笑われるのは、人間相手で間に合ってるの。同じ化物にわざわざ披露したくないのよ」

 口籠もり打ち明け、高月から目を逸らす。視線の外で、かたんとグラスを置く音がした。静かに名前を呼ばれて彼を見る。彼の口元に刻まれているのは、冷笑ではなかった。

「私が笑うとしたら、それは君の歌に聞き惚れた時だ。嘲笑うことはないと誓おう」

 存外、悪い奴ではないかもしれないと、思考が勝手に絆されていく。先程助けてもらった礼と思えば、不死の怪物の退屈凌ぎに付き合ってやってもいいのかもしれない。


「そ、それなら、じゃあ昔から練習してる歌と、えっと、流行りのバラードと……あと、お気に入りの——」

 人にねだられて歌ったことがなく、知らず高揚し饒舌になるエリカであった。高月はそれを微笑ましげに眺めている。

 エリカは歌った。母から教わった聖母を称える曲、大ヒットアニメ映画の主題歌、そして最もお気に入り、愛の雨が降り注ぐような人生讃歌の歌謡曲。音痴だとばれているためか、気負いせず肩の力を抜いて歌えた気がした。

 三曲も人前で歌ったのは初めてである。エリカは蒸気した頬を輝かせ、高月を見た。

「ど、どう?」


 男は首を傾け、甘やかに笑った。

「酷いな。本当にセイレーンかい?」

 エリカは空のグラスをぶん投げた。高月はそれを、顔の前で器用に受け止めた。


「笑わないって言ったじゃない!」

「笑ってないよ、率直な感想だ」

 ほら落ち着いてと宥められ、投げつけたグラスにワインを入れて返される。エリカは腹立たしさに任せてそれを煽ると、裂けたスカートから下着が見えるのも憚らず、ソファにふんぞり返って足を組んだ。

「で、聴かせてあげたんだから、上達する方法教えなさいよ」


 すると高月は、すらりと伸びた白く艶かしい足など目もくれず、「ふむ」と顎を撫でて思案した。

「致命的、かつ稀な症状だ」

「病気みたいに言わないで」

「病の方がまだ可愛い。治療ができる」

「アタシの音痴だって治るわ!」

 啖呵を切ると、ふいに高月の眼差しが鋭い三日月を象った。琥珀の瞳に、フロアの明かりの極彩色が映えて妖しい輝きを帯びている。


「その美貌なら、男を誑かすのに十分だろう。百年進歩しない歌なんて諦めて、今あるカードで——」

「余計なお世話よっ」

 エリカだってセイレーンの娘だ。美しい歌声で、誰からも持て囃され愛される、そんな同胞たちが羨ましい。自分もいつか絶対に——そんな野心が胸にずっと渦巻いている。

「無いならカードを作るんだから!」 

 エリカは音を立ててグラスを置き、睨み下ろすように顎を上げて宣言した。

「————良い言葉だ」

 そう言う高月があまりにも優しく微笑むので、エリカは面食らった。彼はこちらに構わずご機嫌で、自分とエリカのグラスにとろりと酒を注いだ。

「一朝一夕では無理だが、練習に付き合わせてくれ」

 男が胡散臭い身振りで指を鳴らし、我に返ったエリカは眉を顰める。

「何企んでるのよ吸血鬼」

「暇つぶしが尽きて、生に刺激がないんだ。長生きのしすぎも健康に良くないな」

 ちぐはぐなことを嘯きながら、高月は愉快げに声を上げるのだった。

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