第9話

「本当に金無いんですよ、俺一万五千円の事故物件に住んでるんで」


 明らかな苛立ちと共に言い放ったその言葉に、先ほどまで頼んでもいないのに肩を組んでいた男の身体が硬直する。


「お前、あのアパート住んでるのか?」


 嘘くさい陽気な笑みが消えたその声が本来の男の地声なのだろう。男だけではない。先ほどまでは頼みんでもいないというのに、周りに集まっていた自称先輩方も、気づけば俺の周りから離れようと徐々に距離を取り始めている。

 肩を組んでいた男など、まるで汚物に触ってしまったとでもいうように、俺の方に触れていた手をこれ見よがしに振り払って見せた。


「うわ、やべえ。俺触っちまったよ……大丈夫かな、呪われたりしねえ?」

「やだ、こっち来ないでよ。私までやばいことになったらどうすんの」

「あのアパート住む奴まじでいるんだ……気でも狂ってるんじゃねえの?」


 ただの事故物件に住んでいるだけだというのに、あまりにも散々ないわれようではないか。ネット上の噂や引っ越し業者の対応を見る限り、あの物件がこの辺りでは相当有名な幽霊物件であることはわかってはいたが、まさかこれ程だとは思わなかった。

 先ほどまでの熱烈な歓迎ムードは一体どこに去ってしまったというのか。俺に声をかけてきた先輩達がそろって距離を取り続けた結果、サークル勧誘でごった返す春のキャンパスの一角に不自然に人がいない空間が出来上がってしまった。明らかに不自然な光景を前に、その場にいた他の生徒たちが何が起きたのかと興味を持つのは自然な流れだ。


「何、なんかあったの?」

「ほら、あの霊が出るっていう事故物件、あそこに住んでる新入生がいるんだって」

「うっそ、まじ?あれって都市伝説じゃなかったの?」

「いや、あそこはガチでやばい。俺高校がこの辺りだったけど、学校でも超有名だった」

「あそこって一日住んでるだけで呪われるんだろ?」


 ひそひそと囁く声が、まるで波のように徐々に周りへと広がっていく。噂が広がる速度というのは、まるで波が広がるように早く一度広がれば止めることなど不可能だ。それは俺自身、嫌というほど身に覚えがあった。

 母と共に転々と引っ越したその先で、どこから洩れたかは分からないが殺人犯の妻と息子だという事実はいつの間にか広まっている。人の口を媒介し広まる噂というのは、疫病と同じか、それ以上に厄介なものなのだ。


「あのアパートに住んでるのってあいつ?」

「やっば、あの子同じガイダンスで見かけたかも。ってことは同じ学部?」


 輪の外から首を伸ばしてこちらを覗きこんでくる顔ぶれの中には、先日のガイダンスに集まっていた同じ学部の生徒達の姿も見える。その中には、先ほど教室で言葉を交わしたばかりのあの二人の男子生徒の姿もあった。

 この調子では、きっと俺があの有名な某心霊物件に住んでいるという噂は、明日には学校中に広まっていることになるだろう。どうやら平凡な大学生として、新生活を歩みだそうという試みは無駄に終わりそうだ。

 関わっただけで呪われる、という元々の噂に尾ひれやついている以上、必修科目で同じ教室にいたところで進んで俺に話しかけてくるような奴はいないだろう。

 折角心機一転、新生活を始める予定だったのだがと落胆する一方で、これで誰からも話しかけられなくて済むと安堵してしまう自分が居るのもたしかだった。


「……じゃあ、俺もう行くんで」


 とにかく、今は一刻でも早く野次馬で構成されたこの場所から立ち去りたい。噂が広がるだけならまだしも、これ以上此処にとどまって写真を撮られるような真似だけは勘弁願いたかった。心霊物件に住んでいる俺にも、人権というものはある。

 一歩足を踏み出せば、まるで映画のワンシーンのように人の群れが割れていく。まるで旧約聖書にあるモーセが海を割る場面のようだ、などと現実逃避じみた妄想をしつつ、俺はただ黙って針のように注がれる視線の中で足を動かし続けた。

 ひそひそとさざ波のような声はいまだ耳に届くが、歩き続ける俺を引き止めるものも、後をつけてくる者もいなかった。


 大学を出て、周りに学生がいなくなるまで足を動かし続け、俺はようやく足を止めた。このまま真っ直ぐ家に帰ることもできるが、この騒ぎがあった後でこのままあのアパートに戻るのも気が重い。

 とはいえ、どこかで喫茶店で時間をつぶすためだけに割高の珈琲を頼むのも懐が痛い。となると、俺にできるのは普段通らない道を選びながら、遠回りという名の散歩をすることだけだった。


(この辺りは、ずいぶん新しい家が多いんだな)

引っ越してからというもの大学とアパートの往復だけだったが、こうして改めて街を見回してみるとわずかに残った記憶の街並みとは明らかに様変わりしてしまっていた。

 かつては木造の古い家や、古くからの農家だったことがわかる古風で威圧感のある壁で囲まれた屋敷などがあったはずだが。それらはいつの間にか姿を消し、比較的新しいこじんまりとした建売住宅やこぎれいなアパートがきれいに軒を連ねていた。

おそらく大学ができたことで、もともとこの土地に住んでいた住人たちの多くは、地価が値上がりしたタイミングで土地を売り払ったのだろう。


(……昔からの住人が減ったのは、助かるな)


 以前に比べてネットが格段に発達し、日々与えられる情報に過去の事件の風化が早くなったとはいえ、かつて事件が起きたとき時にそこに住んでいた住人たちとなると話は別だ。幼い少年から青年へと姿を変え、今は母方の姓を名乗っているためすぐに「あの殺人者の息子だ」と気づく人はいないだろうが。それでも古くからの住人が少ないに越したことはない。


「あれ、こっちは行き止まりか」


ふと覗き込んだ路地の先がフェンスで閉ざされていることに気づき、足を止めた瞬間だった。


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