第1話

「……う、朝?いや、もう昼か」


 目は開けたもののいまだ覚醒しきらない思考で、俺は無意識に壁へと視線を向ける。だが、視線の先に目当てのものが無いことに気付き、ようやく今いるこの場所が昨日までいた自分の部屋ではないことを思い出した。

 昨日までは視線を斜め上に向ければ、時刻を教えてくれるアナログ時計が壁に掛かっていたが、今目に映るのはセピアカラーに色褪せた古びた壁紙だけだ。

 身体を起こすため身じろくと、お世辞にも柔らかいとはいえない煎餅布団越しに硬い畳の感触が伝わってくる。視界に広がる景色と慣れない畳の香りに、寝ぼけていた身体が次第に目覚め始めた。


(ああそうだ。俺、引っ越したんだった)


 だからこそ、あんなにも鮮明な夢を見てしまったのだろうか。

 夢の内容は幼い頃から時折見てきたものと同じだが、いつもは朧げな記憶で構築された部屋の様子が、かつての記憶そのままの姿で鮮明に再現されていた。正確に言えば、目覚めたばかりの自分が今いるこの部屋がそのまま夢の中に登場したと言った方が正しいのかもしれない。

 夢の中の幼い頃の自分がいた部屋と、この部屋が全く同じ構図の部屋なのは決して偶然ではない。

 何せ自分が今目を覚ましたばかりの、贔屓目に見ても決して綺麗とは言えないこのオンボロアパートは、かつて十数年前に俺が暮らしていた家なのだから。


 部屋の間取りはリビングに古ぼけた和室がついた何の変哲もない1LDKだ。これから大学生活を始める、一人暮らしで彼女もいない男子学生には聊か広い間取りと言えないことも無いが、ここの家賃は驚くなかれ、なんと破格の一万五千円だ。

 確かに新築からは程遠い、築年数を感じさせる古ぼけた作りのアパートではある。だが、それでも駅まで徒歩一時間以上かかる辺鄙な場所に建てられているわけでもなければ、目を覆いたくなるような治安が悪い場所に建っているわけでもない。

 むしろ徒歩圏内に駅も大学もあり、その上近くにはスーパーやらコンビニやら、生活に必要な施設が揃っているという学生にとっては夢のような立地のアパートだ。さらに言うならば、最新式どころか年代物に近いがトイレと風呂は別という好条件だ。

近隣でもある程度名の知れた大学から徒歩圏内の立地にあるアパート、ということを考えれば家賃が月一万五千円なのはあまりに破格の価格設定だ。

 とはいえ十数年前、かつて自分が住んでいた頃の家賃はそこまで安くなかったはずだ。朧げな記憶をさかのぼっても決して小綺麗とは言えないアパートではあったが、それでも確実に今の賃料以上はしていただろう。

 それが此処まで安い家賃で借りる事が出来るようになったのは、決して築年数による経年劣化だけが理由ではない。

 このアパート、特に自分が借りる事になったこの一〇二号室は心理的瑕疵あり物件、所謂事故物件なのだ。


(……一〇二号室には子供の霊が出る)


 この付近に住んでいる人間なら、その噂を知らない人間など誰一人としていない程有名な怪談だ。おそらく噂自体は自分が家を出た直後から存在していたのだろう。

火のない場所に煙がたつことは無い、それは噂話も同じことだ。

 このアパート、今しがた自分が起きたばかりのこの部屋に「幼い少女の幽霊が出る」という噂は立って然るべき理由があった。かつて自分が暮らしていたこの部屋で、確かに小さな女の子が一人命を絶たれているのだ。

 母親に抱きかかえられるようにして部屋から連れ出されたあの日、この部屋の何処かでたった一人でかくれんぼを続けていた幼い少女。自分と母親があの家を去った直後、この部屋で彼女は俺の父親に殺されてしまった。

 自分と母親が家から逃げた後、入れ違いに帰宅し家に居るべき人間の姿が見えない事にろくでなしのあの男は激怒したのだろう。代わりに居て良いはずのない隣家の娘を見つけ、激高したに違いない。普段から昼間から浴びるように酒を飲み博打にうつつを抜かしていた男だ。まともな理性など、残っているはずもない。

 いつも母親や幼かった俺に拳を振るっていたように、感情に任せ少女の細い体を殴り続けたのだろう。繰り返される殴打を身に受け、殺されてしまった少女の最後はあまりにも悲惨なものだったと聞いている。


(……りんちゃん)


 俺は心の中で、胸の奥に仕舞い込んでいるその名前をそっと呟いた。

 あの日自分が彼女とかくれんぼをしたせいで、あの子は幼い命を奪われてしまった。彼女が短すぎる命を終えた一方で、自分はこうして十八まで齢を重ね、新しい人生の一歩を歩みだそうとしている。

 だからこそ、自分が将来の為に選んだ大学の傍にかつて暮らしていたアパートがそのままの姿で残っており、あろうことかその場所が「殺された少女の幽霊が出る」という有名な事故物件になっていることに驚きを隠せなかった。


(……まだ、あの子はこの部屋にいるんだ)


 家に束縛され度重なる父の暴力に耐えかねた母親が、あの日消えかけていた勇気を振り絞り、幼い自分を守るためにこの家を飛び出した。もしあのまま父と共に暮らしていたら、遠くない将来命を奪われていたのは俺と母親だっただろう。

 あの日、家から自分を連れ出してくれた母親には感謝している。

 とはいえ、あの家を去り、少女殺害の罪で父親が逮捕されてからも俺と母親の人生は決して順風満帆とは程遠いものだった。

 父の暴力からは逃げることができたが、今度は幼い少女の命を奪った殺人者の妻と息子として引っ越す先々で必ず後ろ指を指され続けたのだ。父親の姓を捨て、「間宮」という母親の姓を名乗っても秘密というのは不思議とどこからか漏れてしまうらしい。事件を忘れるために、どんなに過去から目を背けても、噂はまるで影のように俺達親子の後ろをついて回り続けた。

 事件がようやく風化を始めたのは高校に入学したころのことだ。日本は平和、と言われるがそれでも悲惨な事件は後を絶たない。平和に慣れた国民性、というのだろうか。誰もが皆新しいスキャンダルを求め、過去の事件は少しずつ記憶から薄れていく。

 新しい事件の話題に上書きされるように、その頃には随分と誹謗中傷はなりを潜めたが、今度は気を張り続けた母が体を壊してしまった。病室のベッド上で少しずつ枯れ木のようにやせ細っていく母を見舞いながら、この人が病室を出ることは無いのだろうと俺は心の奥底で勘づいていた。

 生きる事に疲れ果ててしまった母にとって、間近に迫ってきた死は恐ろしいものではなく安寧の眠りに等しいものだったのだろう。日々痩せ衰えていく皴だらけの手で、母は最期に自分の頭を優しく撫でながら微笑んだ。


「悟はこれから、好きなように自由に生きなさい」


 まるで母から子への最後の言葉だという様に静かに呟き、その夜ひっそりと一人で息を引き取った。これ以上、息子である俺の手を煩わせたくないとでもいうように。

それは俺が高校三年、奇しくもこれから通う事になる大学の推薦合格が決まった日の事だった。

 母の葬列の席では集まった親戚たちに口々に「残念だった」「力になるよ」と声を掛けられ続けたが、彼らの本心が全くもって異なるものである事に気付けない程俺はもう子供ではなかった。墨で一色に染めたような黒い喪服にうかびあがる表情のどれもが「春から大学生でよかった、犯罪者の子供と同じ家で暮らすなどご免だ」とありありと告げていたからだ。

 俺としても、最もつらい時期に一度も自分と母親に助けの手を伸ばしてくれなかった名ばかりの親戚たちと今更良好な関係を築くつもりはない。母親が最後に残した言葉通り「これからは、俺は好きなように」新しい人生を生きてやる。


 二度と塀の中から出てくることは無い父とも、つらい現実を捨てて安穏な世界へと旅立った母とも別れ、間宮悟という一人の人間として全く新しい人生を歩み始めるのだ。


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