第38話 追い出しライブ



 壁に向かって頭を下げる。もう何百回と繰り返してきた行為にも、碧は寂しさを感じずにはいられない。


 入ってきたときから、筧の部屋にはいくつもの段ボールが立てられて置かれていた。ただでさえ少ない物は大半がその中にしまわれ、今の筧の部屋にはベッドや本棚、テーブルといった家具しかない。


 筧の引っ越しは、明後日の予定になっている。追い出しライブが終わった翌日には、もう新しい部屋に越してしまうのだ。


 だから今日は、碧が筧の部屋で過ごせる最後の日だった。


「じゃあ、今日のネタ合わせはこれくらいで終わりにしよっか」


 筧はあえてあっさりと言ってみせた。


 もう夜の九時を回っていることは、碧にも分かっている。筧家の夕食の時間を考えると、そろそろ帰らなければならないことも。


 それでも、碧はまだ筧の部屋に留まっていたかった。このまま夜を徹してまでネタ合わせを続けたい。


 しかし、納得がいくまでしていたら、ネタ合わせはそれこそ際限がないから、どこかで区切りをつける必要がある。


 碧は小さく頷いた。疲れている自分の身体に、嘘はつけなかった。


「碧さ、明日の集合時間分かってるよね?」


「もちろん。三時に部室でしょ」


「うん。分かってると思うけど、遅れないでね」


「当然だって。筧こそ気をつけてよ。前の活動のとき、ギリギリだったじゃん」


 曖昧に微笑む筧。「そのときはごめんね」と言いたげな表情に、碧は切なさを感じてしまう。


 明日の追い出しライブは三時集合、五時半開場、六時開演というスケジュールだ。大事な最後の舞台に筧が遅れてくるとは思えない。


 だからこそ、碧の胸は少しずつ締めつけられていく。


 筧と一緒にいられる時間は、もうそれほど長くない。今こうして無駄話をしている時間も含めてだ。


 意味のない会話は、二人の間を埋めることはない。二人の時間を一秒一秒削り取っていくだけだ。


「念のため聞くけど、今日もウチで晩ご飯は食べていかないんだよね?」


「うん。今日でしばらく筧は家でご飯を食べることはないんでしょ。せっかくなんだから、家族水入らずでいなよ」


 終わりの足音が着実に二人に迫る。碧は思わず、現実から目を逸らしてしまいたくなる。


 それは筧も同様だったのだろう。碧を見ていながら、目はどこか遠くを向いていた。


「はあぁ、碧との漫才も明日で終わりかぁ」


 気の抜けたような声で筧が言う。緩い声色でも、言葉自体は碧の心にグサッと刺さった。


「わざわざそれ言う? せっかく私は意識しないで、普段通りやろうと思ってたのに」


「そんな完全に意識しないなんてできる? 私はどうしても考えちゃうけどな。それに追い出しライブは一回しかないんだから、最後だって意識したうえでいい漫才見せないとね」


 筧は四月からのことを考えずに、ただ明日だけを見据えていた。前向きな言葉に、碧も同意する。


 いくら意識しないようにしていても、最後だということはどうしても考えてしまいそうだし、それに観客には碧たちの事情は関係ない。


 舞台に上がったら、自分たちにできることは一つ。笑わせることだけだ。


「そうだね。筧の言う通りだよ。私もせっかく自分で書いたネタなんだからウケたい。爆笑とまではいかなくても、スベることだけはしたくない。それが筧との最後の漫才になったら、悲しすぎるから」


「ちょっと何弱気になってんの? 最後なんだし、どうせやるなら今までにない大爆笑を取ってやろうよ。大丈夫だって。私はこのネタなら、それができるって信じてるから」


 ネタ合わせから薄々分かっていたことを改めて口にされると、碧は嬉しさと心強さで涙ぐみそうになる。筧が自分の書いたネタに全幅の信頼を寄せていることは、今の碧にとって何よりも大きな味方になった。


 一階から、筧の母親が筧を呼ぶ声がする。もうこれ以上はここにいられない。


 碧は後ろ髪を引かれるような思いで、小さく笑ってみせた。


「うん、ありがと。そう言われると元気出てきた。そうだよね。せっかくやるんだから、今までで一番の笑いを取りたいよね。そうできるように明日はがんばろう」


「うん、がんばろうね。スケアクロウとして最後の舞台、何としてもやりきろう」


 「じゃあ、また明日」。そう言葉を交わして、碧は筧家を後にする。


 少し歩いて振り返ると、柔らかな明かりが夜の闇の中で温かく光っていた。


 駅までの道を、碧は身をかがめながら歩く。三月になっても、夜はまだ真冬並みに寒かった。





 舞台の上では西巻がネタを披露している。架空の動物を紹介する新ネタは、程よく観客の笑いを誘っていた。


 大爆笑とはいかないまでも、客席を暖める役割は果たしてくれている。おかげで自分たちの出番のときは、大分やりやすくなっていそうだ。


 一人奮闘してくれている西巻に、碧は心の中で感謝した。


 ちらりと横を見ると、筧が慈しむような視線を舞台に向けている。ALOに入ってからの二年間を懐かしんでいるのかもしれない。碧はこの先何度も目にするこの舞台袖からの光景も、筧にとっては今日で最後だ。出る前から感慨深いものを感じているのだろう。


 碧は筧に話しかけることをしなかった。


「どうもありがとうございました」


 オチの一言を言うと、西巻は軽く頭を下げてネタを終えた。客席から一体となった拍手が飛ぶ。


 碧たちが舞台袖に向かう間際に見たときには、観客は二〇人ほど入っていた。部員たちの家族や友人が主だが、碧たちがまったく知らない人もやってきている。デビューライブの倍以上の観客は、碧たちがやってきたことの成果に違いなかった。


 温かな拍手を送られて、西巻も満足したのだろう。表情には充実感が満ちていた。


 碧や筧に近づいてきて、音が出ないようにハイタッチをする。自分よりも大きな手の感触が、碧の心の火に薪をくべていた。


 転換の間を埋めるポップなBGMが会場に流れる。


 とはいってもその間なされるのは、瀬川が舞台にセンターマイクを用意するくらいだ。今日の主役である瀬川に準備をさせてしまうことは忍びなかったが、戸田は引き続きネタの撮影を担当するので致し方ない。


 一本のセンターマイクがすくっと立つ舞台は、碧にとってはとても広大で物々しく見えた。


 一歩を踏み出したら、いよいよ筧との最後の舞台が始まってしまう。碧は少し恐ろしかったけれど、精悍な筧の横顔を目の当たりにすると、やってやろうという気持ちが大きく上回る。


 碧たちは、最後にもう一度顔を合わせた。目だけで会話をする。お互いの意思を確認するのに、言葉は必要なかった。


 筧が合図して、瀬川は転換のBGMを止める。代わりにアップテンポな音楽をタブレットから流し始めた。


 碧たちはステージに向かって歩き出す。眩い照明に照らされて、自分が実在よりも大きくなった気が碧にはした。


「どうもスケアクロウです。よろしくお願いします」


 そう名乗った筧に、碧も「よろしくお願いします」と続く。


 すると、客席からは登場したときと同様に拍手が巻き起こった。手を叩いてくれている人は、誰もが一切迷っていないようで、「ありがとうございます」とお礼を言いながら、碧の士気はますます高まる。


 拍手が引き始めたのを確認して、碧はネタを切り出す。今持てる全てを、ここに置いていくつもりで。


「いきなりなんですけど、私最近好きな人ができまして」


「おお、さっそくきましたね。いいじゃないですか。好きな人がいるっていうのは、素晴らしいことですよ」


「で、今度勇気を出して、その人に告白してみようと思うんですよ」


「ここでそれを言うなんて、本当にすごい勇気ですね。えっ、でもあなたがですか?」


「はい。今までは告白は男性からすべきみたいな空気があったと思うんですけど、これからはどんどん女性の方から告白していってもいいと思うんですよ」


「確かにそれはありますね」


「なので、今日はここでその告白の練習をしたいんですけどいいですか?」


「いや、いいですけど、私で大丈夫なんですか?」


「大丈夫です。時間も五時間ぐらいしか取りませんから」


「いや、長い長い。超大巨編じゃないですか」


 最初のボケこそ漫才で一番重要だ。ここがうまくいくかどうかで、漫才の出来があらかた決定してしまう。


 だから舞台の上から何人かが微笑んでくれたのが見えたとき、碧は何か一つ成し遂げたような気になった。


 大成功というわけでもないけれど、まるっきりスベったわけでもない。ほどほどといった笑いが、今の碧たちにはちょうどよかった。おかげで自信を持って、ネタを続けることができる。


「で、どうしたの? 上野。話があるって呼び出しといて」


「はい。筧先輩。あのこれから私が言うことを、嫌だと思わずに聞いてくれますか?」


「もちろんだよ。話してみな」


「はい。これは四十六億年前、宇宙に地球という星が誕生したときの話です」


「いや、スケール大きすぎるし、遡りすぎでしょ! そんな地球誕生から話してたら、明日になっても終わらないよ!」


「冗談ですよ。初めて先輩と話したのは四月。サークルの勧誘期間のときでしたよね」


「そうだったな。あの時の上野はあからさまに緊張してたもんな」


「先輩だっておかしかったじゃないですか。赤いジャケットを着て、後ろにゾンビの軍団を従えて踊ってた」


「いや、それはマイケル・ジャクソンでしょ! 『スリラー』のときの!」


「新歓のときもよくしてくれて、実際に私がサークルに入って一緒に活動するようになっても、いつも温かく接してくれて。私が困ったときも、親身になって相談に乗ってくれましたよね」


「まあ、そんなこともあったな」


「先輩と一緒にいるうちに私気づいたんです。自分の本当の気持ちに」


「本当の気持ち?」


「はい。先輩、好きです! 私と付き合ってください!」


 そう口にした瞬間、客席の声にならないどよめきを碧は感じた。息を呑んだ人もいて、自分たちの漫才にリアリティが宿っていると確信する。


 筧も次のセリフを言うまでに、少し間を取っている。あたかも戸惑っている自分を演出するかのように。


「いや、まさか上野にそう言われるとは思わなかったな。正直びっくりしてるよ」


「どうですか、先輩? はいですか? イエスですか? それとも、ウィームッシュですか?」


「グイグイくるな。あとなんで最後レストラン風なんだよ。まあでも、上野が俺をそういう風に見てくれてるのは嬉しいよ」


「ってことは……」


「ああ、上野の言うこと受け入れたいと思う。こんな俺でよければ、これからも一緒にいよう」


「本当ですか! 先輩、ありがとうございます! じゃあ、さっそくこの書類にサインをお願いできますか!?」


「いや、何の書類だよ、これ」


「はい! 先輩に私の連帯保証人になってもらう、そういう書類です!」


「いや、重いな! そんなすぐ、はいって返事できるかよ! せっかく告白はよかったのに!」


「ダメですか?」


「いや、常識的に考えて難しいだろ。告白するところからやり直そうぜ」


「はい。これは四十六億年前、宇宙に地球という星が誕生したときの話です」


「いや、戻りすぎ! 『好きです』からで頼むよ!」


 練習通り漫才を進めていく二人。


 すっかり暖まった空気にあてられたように、二人がボケてツッコむ度に客席には笑いが起きていた。しかも徐々に大きくなってさえいる。


 それは二人の自信を補強し、漫才はさらに熱を帯びていった。


「先輩、好きです! 私と付き合ってください!」


「上野にそういう風に見られてるのは嬉しいよ。でも、俺のどんなところが好きなの?」


「はい。この前二人で北極に行ったじゃないですか」


「いや、行ってねぇけど」


「その時、こんなに大きいホッキョクグマから身を挺して、私を守ってくれたじゃないですか。それを見てすごく頼りがいがある人だなって思ったんです」


「いや、それもしてねぇし。そもそもホッキョクグマに襲われてたら、今ここにはいられないだろ。もう一回告白するところからやり直そうぜ」


「先輩、好きです! 私と付き合ってください!」


「上野にそういう風に見られてるのは嬉しいよ。でも、俺のどんなところが好きなの?」


「私だけじゃなくて、いつも他の人のことやサークルのことを一番に考えてくれる優しいところです。なかなかできることじゃないですし、心から尊敬しています」


「今度はまともだな。そっか。じゃあ、俺たち付き合ってみるか」


「本当ですか!?」


「ああ、本当だよ。さっそく今週末どっか遊びに行こうか。上野はどこか行きたいとこある?」


「はい! 私は博物館に行きたいです!」


「ずいぶん渋いな。行って何すんだよ」


「それは地球の歴史を学んだりですよ。四十六億年続く地球の歴史を」


「いや、地球へのこだわり強いな」


「大丈夫ですよ。時間も五時間ぐらいしかかかりませんから」


「いや、五時間かかるってそれにかよ。ていうか何なんですか。冗談ばかり言って。全然告白うまくいってないじゃないですか」


「でも、今回練習したことで自信が出てきました。きっと本番ではうまくいくはずです!」


「まあ自信が出てきたならいいでしょう。告白、がんばってくださいね」


「はい、練習した通りにがんばります!」


「いや、それはどうでしょうか。もういいよ」


『どうもありがとうございました』


 二人が頭を下げると、客席から二〇人ほどとは思えない、大きな拍手が飛んだ。まるで筧の今までのALOでの日々を労っているかのようだ。


 碧は舞台に留まって、拍手を全身で受け止めたくなったが、漫才が終わったらすぐに舞台からはけることは身体に染みついてしまっている。


 途切れない拍手を受けながら、碧たちは舞台袖に戻った。


 瀬川や西巻が目元を緩ませている。それは自分の鏡写しでもあったのだろう。


 今の碧には達成感しかなかった。筧とともに最後の舞台をやり遂げたことに、この上なく満足していた。


 視線が合う。筧の瞳は清々しくて、今の漫才に心残りは一つもないように見えた。


 でも、転換の時間は短く、いつまでも立ち尽くしているわけにはいかない。もとより碧にはこの後、瀬川と戸田のコントを録画するという仕事がある。


 転換時のBGMが流れ、西巻がセンターマイクを回収しに行った中で、碧と筧はお互いの目を見て、一つ頷いた。


 今感じている手ごたえを、碧は簡単な言葉に押しこめたくはなかった。



(続く)

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