第37話 勇気と覚悟



 翌日。碧は筧の部屋にいた。


 ただでさえ物が少なかった筧の部屋はよりこざっぱりとしていて、引っ越しの準備は着々と進んでいるようだ。


 久しく味わっていなかった緊張感に、座布団に座りながらも碧の背はすくっと伸びた。


「じゃあ、碧。追い出しライブのネタ、見せて」


 碧は小さく息を呑んだ。バッグからクリアファイルを取り出して、筧に渡す。受け取った筧は碧をもう一度見て、クリアファイルからA4のプリントを取り出した。


 プリントに落としている視線から、ネタを確認していることが碧には否応なく分かる。


 筧には一週間ほど前にできたと言っていたが、実際はもっと前、筧にネタ作りの相談をしたその日の夜に、一気に書き上げたネタだ。碧も二、三回ほどしか読み返していない。


 それを筧に読まれていることは、恥ずかしさで顔から火が出そうで、ドキドキで心臓が口から飛び出しそうな感じがする。


 筧が一つ息を吐いた。プリントは三枚目に達していて、読み終えたようだ。


「ど、どうだった?」


 碧の声は、かすかに震えてしまっていた。心臓の鼓動がやかましく、筧も初めて人にネタを見せたときには、こんな感じだったのだろうかと思う。


 筧の目は優しかった。碧がネタを書いたこと自体を認めるかのように。


「うん、面白かったよ。初めて書いたことを抜きにしても」


「本当に? 本当に面白かった?」


「本当だってば。私が初めて書いたネタの数倍は面白いよ。このネタならちゃんとできれば、お客さんを笑わせることも十分可能だと思う」


 筧の態度は柔軟で、嘘をついていないのは、碧にも分かった。自分で書いたネタが褒められることは、こんなにも嬉しいものなのかと思う。心の重りが外されて、どこか高いところまで浮かびあがってしまいそうだ。


「ありがとう。筧にそう言ってもらえて嬉しい」との言葉が自然に口をつく。ネタ作りを続けてきた筧の気持ちが、少しは理解できている気がした。


「うん。私も碧がネタを書いてきてくれたことが嬉しいよ。じゃあ、一回立って読み合わせしてみよっか」


 二人は立ち上がり、壁の方を向く。そして、プリントを手に持って読み合わせを始めた。


 今まで何度もしてきた行為が、このときばかりは碧には特別なものに思える。


 自分の頭でばかり考えていたネタが今、筧の声となって具現化している。


 それは碧には想像以上の恥ずかしさを伴った。面白いと信じて疑わなかった言葉たちが、少しずつ揺らぎ始める。


 筧も毎回こんな感覚を味わっていたのだろうか。まだ自分が分かっていない感情が、筧にあるように碧には思えた。


「ねぇ、碧」


 最初の読み合わせが終わって、舞台で披露するまでの途方もなさを碧が感じていると、筧が呼びかけてきた。


 胸に芽生えた不安を悟られないように、平坦な返事をする。


 筧の表情は、厳しくもなければ優しくもない。完全な真顔だった。


「これって、今碧が本当に言いたいことを書いたんだよね?」


 碧は頷く。改めて確認されると、照れくささをはっきりと感じる。


 夜中に勢いで書いたものを声に出して読まれることは、予想の数倍のダメージを碧に与えていた。


「本当に大丈夫? 提案した私が言うのもなんだけど、言いたいことを表立って言うには、たとえネタだったとしても、それなりの勇気と覚悟がいるよ。ウケてもウケなくても、口にした事実は変わらないしね。碧はこのネタを本当に人前でできるの?」


 筧の言葉は、明確に碧の意志を試していた。言いたいことを言うことに伴う痛みは、碧だって分かっているつもりだ。恥ずかしさで消えてしまいたくなるときもあるだろう。


 それでも、碧は顔を上げ続けた。今の自分にこれ以外のネタが書けるとは思えなかった。


「うん、大丈夫。できるよ。自分の心から出た言葉じゃないと、お客さんには伝わらないもんね。それとも、もしかして筧はこのネタを人前ではやりたくないの?」


「ううん、そんなことない。碧の気持ちが乗ったいいネタだと思う。このネタの完成形がどうなるのか、私も見てみたい。きっとお客さんにウケるネタになるよ」


 筧に太鼓判を押されて、損なわれていた碧の自信も回復する。題材が題材だから、受け入れるハードルは低くはなかっただろう。


 自分の書いたネタに価値があると初めて思えた。


「ありがと、筧。おかげで元気出てきた。もちろん細かい言い回しとかは修正していくけど、大体の方向性や題材は変えずにいきたい。それでいいよね?」


 念を押した碧に、筧もすぐに首を縦に振った。


 当然まだまだ改善の余地はあるものの、きっといい漫才に仕上がってくれるだろう。


 碧は心の中で頷いて、再び決心を固めた。そこに濁った感情は一滴も入っていなかった。





 碧が筧にネタを見せてから、最初の金曜日。碧たちALOの部員は、藍佐大学八号館の一室に集まっていた。


 春期休暇中の大学は、不気味なほど人の気配がない。室内だけでなく、外までしんと静まり返った中で、碧と筧は「どうもー! スケアクロウです!」と、声を張り上げる。


 今日は追い出しライブに向けて、第一回のネタ見せの日だ。瀬川たちの視線が、一斉に二人に寄せられる。


 普段は砕けた雰囲気で接していても、ネタ見せのときの三人の目は真剣そのもので、何度行っても碧はいまだに緊張してしまう。


『どうもありがとうございました』


 同時に頭を下げて、四分間のネタは終了した。じっと座って動かない瀬川たちが、引き締まった空気も相まって、碧には物々しく見えてしまう。


 碧たちがネタを披露している間、三人の間には少しも笑いが起きなかった。それは三人ともがどうネタを評価し改善していこうか、頭を回していたから当然だし、今までのネタ見せでも大きな笑いは一度も起こっていない。


 だからいつも通りと言えたが、それでも笑いが一つも生まれなかったことに、碧は慄いてしまう。不安に押しつぶされそうになってしまう。


「ありがとうございました」と、瀬川が冷静な声で言う。それが碧には非情な宣告のようにさえ聞こえていた。


「率直に言うと、今までのスケアクロウらしくないなと思いました。それはいい意味でもあり、悪い意味でもあります。着眼点は面白いですが、ボケが単発的で、うまくつながっていないようにも思えました」


「それは私も同感です。よく言えばこなれていない、悪く言えば不慣れな漫才に見えました。まるで一年間の蓄積を土台の部分だけ残して、後は洗い去ってしまったかのように。ネタを書いたのは筧さんですよね? 何か心情の変化でもあったんですか?」


 戸田に訊かれて筧は、してやったりと申し訳ないの中間みたいな表情をした。


 今回のネタを書いたのが碧であることは、瀬川たちには事前に知らせていない。


 だから、筧がそのことを説明した時、三人は一様に驚いた顔をしていた。


 自分に視線が集中すると、碧は誇らしいような、すみませんと言いたくなるような複雑な思いになった。


「そうだったんですか。では、上野さんはどうしてこのネタを書こうと思ったんですか?」


「あの、私のネタつまらなかったですか……?」


「そういうわけではありません。もっと他のベタな題材もあるのに、どうしてこの題材でいこうと思ったのか、単純に知りたいんです」


 瀬川の目には碧を責めるような意図はなく、ただ純粋な興味で訊いていた。


 適当に取り繕っても意味がないので、碧も正直に答える。


「それは筧にアドバイスをもらったんです。自分の言いたいことをネタにしてみたらどう? って。それを受けて、今自分が言いたいことってなんだろうと思って、このネタを書きました」


 四人の前で改めて口にすると、碧は気恥ずかしさを感じずにはいられない。気心が知れている瀬川たちにもまだ見せていない部分を見せることは、観客の前でやるのとはまた違う、身を切るような感覚があった。


「なるほど。確かにアプローチとしては間違っていないと思います。自分が心から思っていることを書けば、ネタに真実味が出ますしね」


「このネタを追い出しライブでやることは、筧さんも同意しているんですよね。だったら私たちには止める権利はありません。ウケるに越したことはないですし、もし万が一そうでなくても自分の書いたネタを披露するのは、それだけで大きな経験になりますから。私はこのままの題材でいった方がいいと思います」


 身をよじりたくなるような恥ずかしさも、瀬川と戸田が肯定してくれたから、碧には少し和らいだ。


 心配しなくても、追い出しライブにやってくる観客は、瀬川たちほどには碧たちのことを知らない。そう思うと、かえって割り切ってできる。


 隣で筧が「はい。私も碧もそのつもりです」と言ってくれていることも、碧の背中を押した。舞台の上でも、臆せずにいられるような気がしてくる。


「あの、何か改善点などはありますか」と、筧が三人に訊く。「僕から一ついいですか」と前置きをしてから述べられた西巻の提案を、碧たちは真剣に聞き入れた。


 追い出しライブまでは、あと一ヶ月を切っていた。



(続く)

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