第34話 言いたいこと



「あとこれはさ、碧には言ってないことなんだけど」


 そう前置きした筧に、碧は心の中で構えた。まだ自分の知らないことがあることが、なんだか不気味だった。


「私さ、来月になったら一人暮らし始めようと思ってんだ」


 養成所や大学の件と比べれば、その報告は軽いものだった。だから碧も、それほどショックは受けなかった。


「そうなんだ。どこに住むかはもう決まってるの?」


「今探してる最中なんだけど、できれば養成所のある新宿から、電車で一本で行けるところに住むつもり。また決まったら、一人暮らしの先輩である碧に色々聞くかもしれないけど、そのときはよろしくね」


 口では「うん」と頷いていたが、碧はとうに気がついていた。筧とのネタ合わせで何度も訪れたこの部屋にも、KACHIDOKIや追い出しライブが終わったら、もう来られなくなる。


 分かっていたはずなのに、一回一回が終わっていくたびに、切なさは増していく。


 おそらく新しい筧の部屋に自分が行くことは、そうそうないだろう。


 碧は今の距離感をずっと保存したくなった。たとえそれが叶わないと分かっていても。


「とりあえず私の話はこれで終わりね。次は碧の話しよっか」


「えっ、私の話って何かあったっけ?」


「追い出しライブのネタの件があるでしょ。どう? ちょっとはネタ進んでる?」


 痛いところを突かれて、碧は苦笑すらできなかった。KACHIDOKIの予選が終わった後も、何回か机に向かってはみたものの、題材すら決まらずにいる。


 毎回違ったネタを書いてくれる筧の前で、はっきりと口にすることもできず、碧はただ目を伏せた。


 でも、そんな小さな挙動も筧には勘づかれる。「進んでないんだ」と言われ、碧は余計にうなだれた。


「まあ私も初めてネタを書いたときは、書こうと思ってから一ヶ月くらいかかったからね。追い出しライブまではまだ時間はあるし、焦らなくてもいいと思うな」


 一向にネタを書けない自分に理解を示してくれる筧にも、碧は裏の意味を感じ取ってしまう。


 追い出しライブは三月の第四週の日曜日開催だ。まだ一ヶ月以上あるとはいえ、ネタ合わせの時間も考えると、なるべく早く書き上げた方がいい。


 碧は筧の言葉からプレッシャーを感じていた。もしこのまま書けなかったときのことを想像すると、暗澹たる気分になる。


 きっと今までのネタを披露するのだろうが、それでは碧は前に進めない。


「ねぇ、筧。ネタってどうやって書いたらいいのかな?」


 迷い続ける思いが、言葉となって口から出た。困ったときに助けを求めることは格好悪いことではないが、それでも碧は負い目を感じてしまう。


「私にアドバイスしてほしいの?」と返す筧に、碧は小さく頷いた。胸は申し訳なさでいっぱいだった。


「うーん、アドバイスしようにも、碧がどの段階でつまずいてるか分かんないからなぁ。とりあえず少しは書き出せたの?」


 碧は小さく首を横に振った。言葉にするのは情けなさすぎたけれど、それは黙っていても変わらなかった。


「そっかぁ。まだ何も書けてないのかぁ。そりゃ縋りつきたくもなるよね」


「うん……。題材からして決まらなくて。何を選んでも正しいし、間違ってる気がするんだ」


 口にしながら、徐々に自分が追い詰められていくことを碧は感じる。ネタが書けないプレッシャーで、心も普段通り働いてくれない。


 筧はあごに手を当てている。親身になって考えてくれていることが、今の碧にはなおさら辛い。


「とりあえずさ、舞台で披露するかどうかは別にして、身近な題材で一本書いてみたら? 大学のこととか、よく行くお店とか、そういう自分のよく知ってるものを、題材にしてみるのがいいと思う」


「それ、平川にも同じようなこと言われた」。深く考えずに、碧はそう返事をしていた。「えっ、平川にも相談したの?」と返されて、少しバツが悪くなる。


 自分以外に相談したところで、筧が気分を悪くするとは思えなかったが、それでもまずは相方である筧に相談すべきだった。


「うん。私が題材に困ってるってラインしたら、好きなものやよく知ってるものにしたらいいんじゃないか、みたいに返された」


「なるほどね。考えることは同じってわけか」


 筧はあごに当てたままの手を下ろさない。完全に自分の事として考えているのが改めて分かって、碧は応えられない自分を恥ずかしく感じた。


「だったらさ、もしかしたらこれはちょっと恥ずかしいかもなんだけど」


「何?」


「自分のことを題材にしてみるってのはどう? 正確には自分の気持ちや感情ね。やっぱり自分のことは、自分が一番よく分かってるもんだし。碧だって普段思ってるけど言わないこととか、考えてるけど言えないこと、あるでしょ? それをネタにして言っちゃおうよ」


「私の心の中を、お客さんに見せろってこと?」


「まあ言い方を変えればね。別にポジティブなことじゃなくてもいいよ。ほら、毒舌漫才っていうジャンルもあるんだし。線引きは私も一緒になって考えるから、とりあえずは思ってるけど言わないことを、スマホのメモとかに書き出してみるといいんじゃないかな」


「ってやっぱりちょっと恥ずかしいか」。言っている本人である筧さえ照れくさそうにしていたから、碧が感じる羞恥心はその比ではなかった。


 自分の心の中をさらけ出すのは、恥ずかしさと身を切るような痛みを伴うだろう。ウケなかったら目も当てられない。


 それでも碧は、先ほどよりも大きく首を横に振った。自分の中にある迷いも、振り払うかのように。


「いや、それ凄くいいと思う。その発想は全然なかったから、雷にでも打たれた感じ。なんか帰ったらネタ書けそうな気がしてきた」


 かすかに芽生えた兆しを虚勢で肉付けする。もちろんヒントを得たからといって、すぐにネタが書けるわけではないが、それでも碧は筧に心配をかけないように気丈に口にした。


「本当に?」と訊いてくる筧の視線が、まだ少し痛い。


 それでも碧は顔を上げ続けた。自分に言い聞かせるように、一語一語ゆっくりと言う。


「本当だって。今まで悩んでたのがウソみたいに視界が開けてる。筧、アドバイスありがとね。凄く役立った」


「そっか。私も碧の役に立てて嬉しいよ。また困ったら、いつでも言ってきてくれていいからね。私もできる限り相談に乗るから」


 筧の言葉が心強くて、迷いを抱えながらも、碧は素直に首を縦に振ることができた。帰ったらまたパソコンに向かってみようと、わけもなく思う。


 筧が清涼飲料水を飲んだのに続けて、碧も再び緑茶に口をつける。


 さっぱりとした居心地のよい部屋も、もうすぐ来られなくなるかと思うと、胸の奥がかきむしられるようだった。





 部屋に帰ると、着替えるよりも先に碧はパソコンの電源を入れた。書けそうな気がしている今のうちに、少しでも形にしておきたいと考えたのだ。


 文書ソフトの真っ白な画面が映る。


 碧はひとつ息を吐いた。スマートフォンを手にして、何も書かれていないメモアプリを開く。


「言いたいこと」と題名をつけて、碧は手を止めた。


 しばし考える。そして、気がついた。自分に言いたいことが、なかなかないことに。


 傲慢に聞こえるかもしれないが、碧には今の生活がけっこう充実している感触がある。一年次に必要な単位は全て取得できたし、アルバイト先の同僚はみんないい人で、仕事内容にも不満はない。


 何よりもKACHIDOKI優勝にALO一丸となって進んでいる今の状況は楽しいし、筧との漫才にも充足感を持って臨めている。


 今の自分はリア充とさえ言っていいのかもしれない。


 それは碧にとっては満足すべきことだったが、でも今は自分の中に溜まっているものがないことが悔しい。自分が何もないからっぽの人間のようにさえ感じられた。


 それでもめげずに頭を回していると、碧の脳裏には短い文言が浮かんだ。ひどくシンプルなメッセージだったが、一度思いついてしまうと途端にそれしか考えられなくなってしまう。


 それは今急に閃いたことではなくて、ずっと碧の心の中にある感情だった。碧の目が届かないところで、少しずつ育っていた思いだった。


 でも、碧はそれをメモに書こうかどうか迷う。


 表に出してしまったら自分の中にあるあやふやなものが、型をはめられて形作られていきそうな気がする。無理に名前をつけると、こぼれてしまうものもあるのだ。


 しかし、他に何も思い浮かばないし、こうしている間にも期限が迫ってきているのも事実だ。取れる選択肢は碧が思っているほどにはない。


 碧はとりあえず思い浮かんだことを、文書ソフトに打ちこんでみた。


 後で消せばいいと思っていたその言葉は、客観的に見てみると、意外なほど碧の心に馴染む。自分でも不思議なほどしっくりくる感覚があって、導かれるようにして漫才の導入も決まっていく。


 碧は手を動かし続けた。煮詰まっていた昨日までとは別人みたいに、ボケもツッコミも思いついていく。


 やってきた漫才の数々が、血肉となっていることを碧は実感した。


 時折止まりながらも、パソコンに向かい続ける碧。気がつけばアルバイトやネタ合わせの疲労は、どこかに飛んでいっていた。



(続く)

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