第27話 決まってんじゃん



「筧がさ、来年の三月で藍大をやめるかもしれないんだよね」


 平川の目が一瞬大きく見開かれた。想像もしなかった内容に戸惑っているのが碧には分かる。


「えっ、なんで?」と脊髄反射みたいに反応する平川。碧は心に生じた波紋を悟られないよう、淡々とした話し方を意識した。


「筧、お笑いの養成所に行きたいみたい。私たち、今年のN-1にも出場したんだけど、一回戦で敗退しちゃってさ。筧にはそのことが相当悔しかったみたいで。一度お笑いを基礎から学びたいって言われた」


「それ、上野は納得してんの?」


「分からない。筧の夢を応援するのがいいのか、それともこのままスケアクロウを続けるのがいいのか。自分のことなのに、いっこも分かんないんだよね」


「おかしいよね」。口とは裏腹に、碧は少しも笑えなかった。話せば心が軽くなるなんて、大間違いだった。いずれしなければならない決断に、今も怯えてしまっている。


「おかしくなんてないよ。実は私もさ、高校のときは卒業したら養成所に通うか、それとも大学に行くか、ちょっと迷ってたんだ」


 ゆっくりと吐き出すように言った平川に、碧は「えっ、そうなの?」と驚いてしまう。そんな素振り、ラインでも一回も見せたことがなかった。


「うん、漫才インターハイで優勝した後、養成所に行くのもいいかもって、一時期はけっこう本気で考えてた。高卒で養成所に入る人は、今も昔も多いしね」


「じゃあ、なんで五十鈴大に行ったの? 受験とかめっちゃ大変だったでしょ?」


「まあ、それなりにはね。でも、迷ってるときに新倉さんが誘ってくれたんだ。大学お笑いの舞台でさらに腕を磨いたら? って。養成所に行くのは、それからでも遅くないってね」


「それで五十鈴大に?」


「うん。養成所出てもすぐに舞台に立てるとは限らないでしょ? 何年も下積みがあって。それが不要な時間だとは言わないけど、同じ時間を過ごすにしても、大学お笑いの方が定期ライブとか大会とかあるから、舞台に立ちやすいかなって。まあ入ったら入ったで、DUALの中でも競争があったんだけど」


 平川の言うことは、碧にもよく理解できた。学生とはいえ、やはり芸人は舞台に立って、人前でネタを披露するのが一番だ。


 そう考えると、せっかくの舞台に立てる機会をしばらく手放そうとしている筧の判断は、合理的ではないように思える。


 でも、合理的なことが必ずしも正しいわけじゃない。筧からすれば、大学をやめて養成所に通うのは筋が通っているのだろう。


 それを間違っていると言えるほど、自分が物事をよく知っているとは、碧には思えなかった。


「ねぇ、平川はさ、大学でお笑いやってて楽しい?」


 言葉が、生まれた瞬間にそのまま口をついて出たから、碧は自分でもびっくりしてしまう。こんなのまるで、自分は楽しくないと言っているみたいだ。


「うん、楽しいよ。舞台に立ってお客さんを笑わせるのは、他では味わえない気持ちよさがある。そのためなら、どれだけネタ作りで悩んだり、ネタ合わせを重ねても、苦にはならないよ。それに当たり前だけど、サークルのメンバーはお笑いが好きな人ばっかりだからね。四六時中テレビや芸人さんの話をしてられるのは、ささやかだけど幸せだよ」


「上野は違うの?」。濁りのない目で返されて、碧は一瞬返事に詰まった。嘘をつくつもりは毛頭ないが、いざ言葉にしようとすると、少し照れくささが伴ってくる。


 それでも、何を言っても平川は受け入れてくれそうだった。


「いいや、私もALOは楽しいよ。私、中高と帰宅部でさ、大学で初めてサークルに入ったんだけど、筧だけじゃなく先輩たちはみんないい人でさ。一緒にいると、凄く安心すんだよね。それに全員で一つの目標に向かうのも新鮮で。今生まれて初めて、青春って呼べるものの中にいる気がするんだ。入った頃は正直、お笑いに特別な興味はなかったんだけど、今じゃ暇さえあれば芸人さんが上げてるネタ動画とか見てるし。藍大に通う一番の目的になってるよ」


 頭で考えていた時は少しこっぱずかしかったことも、いざ喋ってみると意外なほどに身体に馴染んでいく。


 こんなに熱意を傾けられるものを見つけられるなんて、大学に入る前には考えもしなかった。あの日、筧の前を通りかかっていなかったら、自分の大学生活はもっと無味乾燥でつまらないものになっていただろう。


 平川の目が半月型に緩んでいる。碧からその言葉が聞けて嬉しいというように。


「そっか。なら、上野が取るべき道はもう決まってんじゃん」


「決まってる?」


「そう。上野はお笑いも好きだけど、それ以上にALOも好きなんでしょ。筧さんだけじゃなく、他の三人も大切なんでしょ。だったらALOに残った方がよくない? ALOで舞台に立ち続けるのが、今の上野にとっては一番いいと思うけどな」


 簡単に言ってくれる。碧は一瞬だけ感じた反発を、表に出ないうちに引っこめた。


 自分が感じているよりもALOにいたいと思っているのは、平川に指摘されて初めて気づいたけれど、それでも同じくらい筧とスケアクロウを続けたいという気持ちもある。


 平川への相談は結局、さらに碧の頭を悩ます結果となった。考えれば考えるほど、深い迷路に陥っている気がする。


「まあ、そうだね。それも含めてこれからも考えてくよ」とだけ言うのが精いっぱいな碧に、平川は穏やかな表情を向けていた。


「まあ、私の言うことなんて、言葉半分にして受け取るくらいでちょうどいいと思うよ。上野が筧さんとコンビを続けたいと思ってるのも分かってるし。じっくり悩んで決めなよ。どっちを選んでも、私は二人の選択を応援するからさ」


 少し距離を取るような平川の言い方に、碧は最終的に決断するのは自分たちしかいないと改めて痛感した。まだまだ時間が必要そうで、少しずつ焦りが心の中で生まれてくる。


「そろそろ中に戻った方がよくない?」と言ってくる平川に、おずおずと頷く。


 おそらく筧は、他のテーブルの学生たちと話していることだろう。


 自分がうまく話せるとも思えなかったが、それでも筧と一緒の空間にいることが、今の碧には何よりも大切だった。





「あとどれくらいでネタ始まりますかね? 前置き長くないですか?」


「始まるまでが長いのはいつものことだろ。そんな焦らなくても、七時半には始まってるって」


「やっぱ見始めるの、それからでもよかったんじゃないですか? 何もきっちり放送開始時間に合わせて集まらなくても」


「上野さ、こういう長い前置きも含めてのN-1決勝だろ。文句を言うよりも楽しんじゃった方が得だと思うけどな」


 テレビでは七人の審査員がきっちり一人一人コメントをしている。今か今かという高揚感と緊張感が画面を通して、碧にも伝わってくるようだ。


 交流ライブから一週間が経った日曜日の夜、碧たちALOのメンバーは、瀬川の部屋に集まっていた。待ちに待ったN-1の決勝戦を全員で見るためだ。


 瀬川の部屋は大学から近いうえに、ソファが二つもあって、五人が座ってもまだ余裕があった。他にも部屋が二つあって、よく友人がたむろしているらしい。


 でも、そうは思えないほどリビングは清潔で、自分たちが来る前に、念入りに掃除をしたのだろうと碧は思った。


「でも、意外だったよね。筧も来るなんて。てっきり家族と一緒に過ごすのかと思ってた」


「まあ、ウチの両親、そこまでお笑いに興味があるわけじゃないので。サークルのメンバーと一緒にN-1見るって言ったら、快く送り出してくれました」


 筧は、テーブルの上にある個包装の菓子を手に取りながら言った。碧は、N-1の一回戦で敗退した悔しさがあるから、筧が決勝戦を見ることはないと思っていたのだが、どうやらそこは割り切っているらしい。


 学生芸人である前に一お笑いファンとして、N-1の決勝が楽しみなのだろう。それはここにいる全員が同じ気持ちだ。


「なぁ、今日どこが優勝すると思う?」


 テレビは決勝戦のシステムを説明していて、やはりなかなかネタは始まらない。でも、おかげでその間に碧たちは会話ができる。


「やっぱり、ハッピー・バースデーじゃないですか? 今年で三年連続の決勝進出ですし、去年はファイナルラウンドまで進んでますし。下馬評も一番高くて、間違いなく今年の大本命ですよ」


「俺は紙三角形を推したいですね。一五年目のラストイヤーで、初めての決勝進出ですし。今日にかける想いはどの組よりも強いはずで、ここで優勝したら凄いドラマチックじゃないですか?」


「確かに紙三角形は今年で最後だからがんばってほしいとは思うけど、それでも私はキムディールにいってほしいですね。劇場で磨き続けた、正統派しゃべくり漫才の意地を見せてほしいです」


「筧、前々からキムディール好きだったもんね。結成一〇年目で初の決勝進出だったっけ?」


「はい。下積み時代が長かった分、今日で報われてほしいです」


「いや、下積み時代の長さで言ったら、紙三角形の方が上だろ」と西巻が反論していたが、それでも口調に喧嘩しようという気は見られなかった。あくまでもN-1決勝戦を、そしてそれに付随する会話を楽しもうとしている。


 アルコールも入っていないのにやたらと饒舌で、碧の目にはその姿が微笑ましく映った。


「ねぇ、碧はどう? 今日どこが優勝すると思う?」


 聞いてくる筧の声に、憂いやためらいは見られなかったから、碧は胸がすく思いがした。素直に考えを口にする。


「私もキムディールですかね。何となくの勘でしかないんですけど、今年はいきそうな気がします」


「でしょ? さっすが碧、分かってんじゃん」


「いや、筧が言ってるから、そう言ってるだけじゃねぇの?」。そう横槍を入れてきた西巻に、碧はかぶりを振る。もちろん一番の理由は筧が推しているからだが、YouTubeに投稿されているネタの動画を見て、純粋に面白いと思えていることも碧の中では大きかった。


 決勝戦という舞台を煽りに煽るテレビと、お菓子をつまみながら盛り上がる碧たち。


 テレビの中ではいよいよ決勝進出者がネタを披露する段階に入り、おみくじでまずトップバッターを選んでいる。司会者の二人が引いた棒には「紙三角形」と書かれていた。


「うわー! トップバッターかよ!」と西巻が頭を抱える。その姿を見て、碧はまた小さく笑った。


 テレビの中では、紙三角形の二人が舞台裏に移動をして準備をしている。毎年変わらないおなじみのBGMとともに、紙三角形が舞台に登場するのを、碧は期待を持って眺めていた。



(続く)

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