第5話 タメ口で話すこと



「まあ、初めてだしこんなもんでしょ」


 そう言った筧の本心が、碧には分からなかった。想像以上に拙い自分に失望したのかもしれない。でも、にっこりと笑いかけてくる顔には、一かけらの悪意もないように見えた。


「どうだった? 上野さん、私のネタ」


「は、はい。面白かったです」


「本当に!? どのあたりが!?」


「あの、全体的に何ですけど、特にデスノートのボケが面白いと思いました」


「そう! ありがと。そこは私も自信あったとこだからね。褒めてもらえて嬉しいよ」


 せっかく先輩が書いてくれたネタだ。それに何が面白くてそうじゃないかは、まだズブの素人の碧には分からない。だから「面白かった?」と聞かれれば、「面白かったです」と答えるしかなかった。


 読んでいる最中は手いっぱいで、そんなこと考えられなかったとしても。


「でさ、今ざっと読み合わせしてみたんだけど、どう? 上野さん。なんか意見とかある?」


「意見、ですか……?」


「そう。ここをこうしてみたらとか、このボケはちょっと違うんじゃないかとか、そういう意見」


 口元は緩んでいても筧の目は真剣で、遠慮しなくていいと言っている。


 だけれど、碧にはこれといった改善案はなかった。セリフを把握することに必死で、そこまで頭が回らなかった。


 だから、申し訳ないと思っていても、「いえ、特には……」と答えるよりほかなかった。


「まあ、いきなり意見言えっていうのも難しいか。でも、気づいたことがあったら、どんどん言っていいからね。私だって、これが完成形だとは思ってないし。ネタっていうのは練習を重ねながら、ブラッシュアップさせてくもんだから」


「そ、そうですね……。何かあったらまた言ってみたいなと思います」


「うん、お願いね。二人でいいネタにしてこう」


 筧は一つ息を吐いた。読み合わせを繰り返すのかと思って、碧は思わず身構える。


 だけれど、筧の口から出た言葉は碧の想像とは違った。


「ていうかさ、そんな遠慮しなくても大丈夫だよ。もっと強くツッコんでくれていいから」


「いや、そう言われましても……」


「うん、じゃあこうしよう。これから上野さんは私にタメ口で話すこと。破ったらジュース一本おごりね」


「えっ……、そんな急にはちょっと……」


「いいのいいの。遠慮があったら面白くないでしょ。私のことも筧さんとか、筧先輩じゃなくて、筧でいいよ。いや、いっそ名前呼びでもいいかな。うん、それがいいよ。ほら、言ってみて。希久子って」


「え、えっと……じゃあ、希久子……?」


「うん、どうしたの? 碧」


 曇りのない眼に、碧は自分の体温が急激に上昇していくのを感じた。頬が焼けるように熱い。


 恥ずかしさもあったけれど、今までの一八年間で、先輩は敬うようにしつけられている。だから、染みついた習慣をすぐには変えられなかった。


「あ、あの……やっぱりちょっとキツいです。せめて筧呼びじゃダメですか……?」


「まあ、しょうがないね。こういうのって強制させるのもよくないし。碧が呼びたいように呼んでくれればいいよ」


 継続された碧呼びは、碧の頭を根幹から揺らした。視界が目まぐるしく回りだしたような錯覚さえある。


 敬語にならないように「う、うん……」と返事をすると、筧は何事もなかったように、「さ、もう一回読み合わせしよ」と言う。


 碧が頷いたのを確認して、「はい、どうもー」とネタを始める筧。


 オフホワイトの壁に「よろしくお願いします」と言いながらも、碧の頭と心は未だに混乱を続けていた。





「どうもー! スケアクロウでーす!」


「よろしくお願いします」。碧と筧は声を合わせる。最初にネタ合わせをしてから二週間ほどが経って、少しずつ息も合ってきたと碧は感じる。


 だけれど、自分たちに向く三つの視線には、身内だろうと緊張せずにはいられない。


 壁に向かってやる場合と、人前でやる場合には、碧の想像以上の大きな差があった。


「いきなりなんですけど、海外旅行って憧れますよね」


「確かに私たちの身では、なかなかできることじゃないですからね」


「私もいずれしてみたいなと思ってるんですけど、まずはその前に練習が必要だと思うんですよ」


「ほお、練習ですか」


「ええ、事前に練習しておけば、いざ行っても混乱することなく楽しめるんじゃないかなと。なので、あなたには今日私の練習に付き合ってほしいのですが」


「なるほど。いいでしょう」


「ありがとうございます。じゃあ、まず海外旅行に必要になるものと言ったら、まずはパスポートですよね」


 碧たちは漫才を続ける。八号館の一室は机が壁際に片づけられて、ネタを披露できるスペースが設けられていた。


 瀬川たちに見られていると思うと、碧は恐縮してしまう。自分たちのネタに自信があるかどうかも分からない。


 それでも碧は小さくなりそうな声を何とか保った。本番ではもっと多くの人の前で漫才を披露するのだ。


 空気は引き締まっていて、瀬川たちはさほど笑っていない。自分たちを真剣に見てくれているのは分かるが、もっと肩の力を抜いてほしいと、碧は思わずにいられなかった。


「あなた、さっきから何してるんですか。もうめちゃくちゃじゃないですか」


「でも、これで海外旅行の練習はばっちりですね」


「そんなわけないでしょう。もういいよ」


「どうもありがとうございました」。声を揃えてから、碧と筧は一緒に頭を下げた。


 当然、拍手はない。笑いも全然起こらなかったから、碧には手ごたえがなかった。身を切るような、まるで処刑されているかのような感覚さえ味わった。


 顔を上げても、三人の表情はあまり緩んでいなかった。スベった。直感的にそう碧は感じてしまう。


「二人ともお疲れ様でした。どうでしたか。初めて人前でやってみて」


 碧がペンとメモ帳を手にしたのを見て、静かに瀬川が語りかける。改まった態度に、碧の背筋に冷たいものが走る。


「はい。面白いと思いました」


 これだけしんとした空気のなかでよくそんなことが言えるなと、碧は筧の顔を垣間見る。二回生だからネタ見せには慣れているのかもしれないが、碧は違う。


 瀬川に「上野さんはどうでしたか?」と聞かれ、思わず竦みあがってしまった。


「は、はい。私も面白いと思いました」


 思ってもいないことを口走る。自分たちだけは自分たちのことを面白く思っていないと。碧の心は早くも折れてしまいそうだった。


「確かに悪くはないと思います。ただ、それは結成してから二週間にしては、という言葉が前につきますが」


 瀬川の口調は不必要なほどに厳しい。


 でも、これからされるのは自分たちのためのアドバイスなのだ。逃げずに受け止めようと、碧は身構える。


「まず漫才内コントに入るまでが長いと思います。もっとすっきりできるはずです。できるだけ早く笑いを入れないと、お客さんの心はすぐに離れていってしまいますから。そこは改善すべき点だと感じました」


 瀬川のアドバイスを、碧は必死にメモに取る。自分よりお笑いのことを知っている人間に、アドバイスをもらえるのはありがたい。だけれど、言い方が言い方だったから、耳が痛いとはこのことかと思った


「私からも一点いいですか」


 そう前置きする戸田を、二人は無下に扱うことはできなかった。断ってボケてみたところで、笑いが生まれるような空気でもない。


「特に上野さんなんですが、緊張しているのか、テンポが少し速いように感じました。先へ先へと急ぎすぎていて、それが筧さんにも伝わって、落ち着かない漫才になっていました。次から次へとボケるというのは、一見効果的なように見えて、お客さんからすれば余韻を断たれるので逆効果です。もっと落ち着いて、今の八割ぐらいのテンポでちょうどいいと考えてください」


 自分ではゆっくりと間を取っていたイメージだったのに、客観的に見ればまだ速く見えてしまうのか。碧はメモを取りながら頷く。やはり人に見てもらわなければ、分からないこともある。


「あの、一個基本的なことを言ってもいいですか」


 遠慮深そうに西巻が口を開く。少しの恐れを抱きながらも、碧たちは頷いて、西巻の言葉の続きを待った。


「すごい根っこの部分なんですけど、ボケとツッコミを交代した方がいいと思います」


 根本的なアドバイスをされて、碧は一瞬固まってしまう。自分はこの二週間ツッコミしかしていない。ボケに回るなんて考えたこともなかった。


 筧が「それはどういうことでしょうか?」と、迫力を持って聞いている。


「あくまで僕の考えですけど」と予防線を張ってから、西巻は続けた。


「漫才をリードするのはツッコミだと思うんです。ツッコミが漫才の空気を作り上げていく。だから、まだ入ったばかりの上野さんにツッコミは少し難しいと思うんです。それなら、ボケに回らせて多少なりとも伸び伸びとやらせた方がいいのではないでしょうか」


「まあ、最後はお二人が話し合って決めることですけど」。最後に突き放した西巻に、碧はぐうの音も出なかった。


 確かに今の自分たちは全てが順調とは言い難い。まだ手探り状態で進んでいる最中だ。役割の交代も含め、色々と可能性を試してみるべきではないのか。そんな思いが頭をもたげる。


「ありがとうございます」と言った筧の声色からは、碧は真意を読み取れない。


 三人からそれ以上意見は出なくて、碧たちはようやく厳しかったネタ見せから解放される。


 だけれど、まだ終わったわけではない。次は西巻のネタを見て、評価する側に回らなければならないのだ。


 筧と分かれて端の席に座る碧。目の前で一人コントを披露している西巻の姿を、終わったら何か言わなきゃと必死に頭を回しながら眺める。確かに笑っていられる余裕はなかった。



(続く)

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