第3話 絶対あの舞台に



 南口の横断歩道は、人の多さに目眩がする。地元の一日の交通量を、わずか一時間で上回ってしまいそうだ。


 行き交う人々を、小さく口を開けながら見ている碧。田舎者丸出しで気後れがし、時折視線を向けられるとかすかに背筋が凍る思いさえする。


 何度もスマートフォンを見るが、時計はただ淡々と、碧がやってきてからまだ五分も経っていないという事実を知らせるだけだった。


「こんにちは、上野さん。もしかして待った?」


 約束した時間通りに、改札口から出てきた筧を見て碧は安堵する。まだ数回会っただけだけれど、この大都会の中で知り合いに会えて、碧は想像以上に落ち着けていた。


 「いえ、私も今来たところです」と、既に一五分前に着いていた自分をなかったことにする。


 筧は碧の小さな嘘をすっかり信じたようで、「じゃあ、行こっか」と、満面の笑みを向けてきた。邪気のない笑顔に碧も頷きざるを得ない。


 生まれて初めて行く場所。一人では行こうとすら思わなかった場所。


 でも、勝手知ったる人間がいれば、必要な一歩を踏み出せそうだった。


 エレベーターは最上階の七階で止まった。ドアが開くと二人と一緒に乗っていたカップルが降りて、一直線にホテルみたいなチケットカウンターへと向かっていく。


 二人も後についていき、当日券を購入する。


 筧が慣れた様子でチケットを購入している間、碧はあたかも子供のように館内を見回していた。左手には劇場の入り口が開かれていて、既に何人かの観客が座っているのが見える。右手奥にはグッズ売り場がかなりの面積で展開されていて、自分たちみたいな若い女性二人組が盛り上がっているのが見える。頭上からはテレビで聞いたことがある声のアナウンス。


 ミルネtheかしもと。大手お笑い事務所が、ここ新宿駅直結の商業施設・ミルネに展開している劇場だ。


 初めて味わう圧倒的な”陽“の空気に、碧の足は思わず竦んでしまう。


 それでも筧は素知らぬ顔をして「ほら、上野さん。中入ろうよ」と言う。


 ここまで来て引き返すわけにもいかないので、碧はチケットを一枚受け取り、意を決して劇場内に足を踏み入れた。


 舞台には台形の張りぼてが両脇に置かれ、今は客席ともども明るく照らされている。劇場という言葉の響きからイメージされる堅苦しい雰囲気もあったが、それよりもこれから始まるステージを楽しもう、思いっきり笑おうとする向きが客席には強いように碧には思われた。


 中頃の席に筧と隣り合って座る。映画館みたいな柔らかい座り心地だった。


「あの、いよいよ始まるんですね……」


「そうだね。あと一〇分もすれば前説の人が出てくるよ。えっ、もしかして上野さん緊張してる?」


 碧は小さく頷いた。今回出演する芸人はテレビを人並みにしか見ない碧でも知っているような面々だ。


 テレビの中にいる人たちが、実際に自分の前に現れる。


 そう思うと、気楽に見ればいいと分かっていても、碧はどうしても緊張してしまう。


「まぁ、上野さんはここ来るの初めてだし、無理もないか。でも、そんな緊張は始まって五分、いや一分もしないうちに吹き飛んじゃうよ。あっという間に芸人さんたちの空気に乗せられて、気づいたときには心から笑ってるから」


 自分が出るわけでもないのに自信満々に言う筧に、碧は思わず納得しかける。


 確かに自分はただ座っていればいい。ただ舞台を眺めていれば、芸人たちが知恵と技術の全てをもって笑わせてくれるだろう。


 碧は前方に目を向ける。眩しく照らされた空の舞台に息を吞む。筧みたいに、背もたれにもたれかかってリラックスすることはまだできなかった。


 前説で出てきた芸人が注意事項を説明しつつ、しっかり笑いも取って劇場の空気を暖める。何度か笑っているうちに碧の緊張が少しずつ解れていく。


 だけれど、せっかく落ち着いた心も前説の芸人が去って、舞台が一瞬しんと静かになると、ドキリと跳ねてしまう。


 劇場自体、小学生の時に学校の行事で、隣町の大きなホールでミュージカルを見てから来ていない碧だ。客席の照明が緩やかに落とされていくのでさえ、喉がひりつくような心地を味わってしまう。


 スピーカーから鳴るBGMに、緊張が高まっていく。両脇から芸人が出てきた瞬間でさえ、碧は自分がここにいていいのかと思っていた。


 だけれど、そんなつまらない感情は二人の芸人がマイクを挟んで第一声を発した瞬間に、碧の中から吹き飛んだ。スピーカーを頼りにしなくても会場の隅にまで届きそうな声に、全身の細胞が粟立っていくのを感じる。


 テレビで見たことがある芸人が目の前にいるという事実は、碧の心を磁石みたいに急激に引きつけた。なんてことのない導入部分なのに、既に次の展開を心待ちにしている自分がいる。


 碧は腰が浮き上がりそうになるのを、残っていた理性で引き留めた。臨場感に引っ叩かれ、自分のことなんてどうでもよくなっていた。


 舞台に立っている芸人は、芸歴十何年という手練れで、次々と会場を沸かせる。同時に碧の感情も沸いていく。


 面白いと感じる思考回路以外が全て取っ払われたのではないかと思うほど、碧の頭は舞台に立つ芸人の虜になっていた。微笑むだけでは足りず、声まで出して笑ってしまう。


 笑いは伝播していき、舞台にまで届いて、芸人の調子を上げさせる。


 非の打ち所がない好循環に、碧はすっかり酔いしれてしまっていた。初めて味わう感覚に、脳も心も蕩けていくようだった。


 芸人は二組、三組と続いていく。どの芸人もさすが場数を踏んでいるだけあって、笑いのツボを外すことがない。雪だるま式に膨らんでいく盛り上がりが、碧には目に見えるようだった。


  筧が言った通り、思いっきり心から笑いながら、碧は舞台に立っている彼ら彼女らは、どんな気分だろうと頭の片隅で考えた。


お笑いの劇場に来るのが初めてだから相場は分からないが、それでも平均以上に笑いが起きているのは、碧にも何となく分かる。


 仕事の本分である客を笑わせることができて、彼ら彼女らは本望だろうか。碧の目には、舞台に立っている芸人の全てが漫才を、コントを、ピン芸を楽しんでいるように見える。


 舞台の上から目にする景色は、どんなものだろう。自分が舞台に立ったら何を感じるのだろう。


 まだ決めてもいないのに、ALO加入に傾いている自分に碧は気づく。


 筧は碧の思いなんて当然知るはずもなく、腹を抱えて笑っている。


 碧も舞台に目を戻した。


 同じ空間で感じる芸人の声、雰囲気、佇まい。生の空気を全身で浴びて、碧はかすかに鳥肌さえ立ち始めていた。


 次から次へと登場する芸人が織りなすステージは、碧の一八年間の人生の中でも、上位に入るほど楽しく幸福な時間だった。





 窓の外では、高層ビルが空を突き刺すように立っている。しっとりとした洋楽に香り高いコーヒーが、忙しない都会の中で落ち着ける時間を提供しようとしている。


 だけれど、店内は満席であちこちのテーブルから話し声が聞こえて、落ち着く様子はない。


 それは筧も同様だった。


「ねぇ、上野さん、どうだった!? 初めて行ったミルネtheかしもとは!?」


 昼食のワッフルを食べながら、興奮気味に語りかけてくる。本当にお笑いが好きなんだなと思いつつ、碧も飾らない本心を伝えた。


「楽しかったです。筧さんの言った通り、緊張なんてすぐなくなって、純粋に芸人さんたちのネタを楽しめました」


「やっぱり! 来てよかったでしょ! ねぇ、上野さんはどの芸人さんが一番面白いと思った!?」


「私はオレンジ・フィルム・ガーデンさんですかね。最初から最後までずっと面白かったです」


「でしょ! あの二人は劇場で今一番勢いのあるコンビと言っても過言じゃないからね! 今日やった病院のネタは、去年のN-1の敗者復活戦でも披露してた代表作だから! 私も病院のネタだって分かった瞬間には感動しちゃったもん!」


 碧と筧はその後も、今日出演した芸人の感想を語り合った。筧は今日披露された全てのネタを知っていたようで、もはやマニアの域だなと碧は感じてしまう。


 でも、どれだけ筧の話を聞こうと、碧は苦には感じなかった。これだけ熱量をもって語れるものがあることが羨ましかった。


「で、どうよ、上野さん」


「どうって何がですか?」


「お笑い。ちょっとは興味出てきた?」


 碧は直感する。ここで取るリアクションで、自分の大学生活の大部分が決まってしまう。


 首を横に振ることだってできたけれど、こんなに輝いた目をしている筧の前でそれは失礼だろう。


 だけれど、碧の気持ちはそんな後ろ向きなものではなかった。今までもやってみたいなと思うことはあったけれど、今回は度合いが違う。


 碧は筧の目を見て頷いた。筧の目が金のシャワーでも浴びたように、さらに華やぐ。


「そう! じゃあ、ALO入ってくれる!?」


「はい、よろしくお願いします」


 碧はできる限りの力を目に込めた。雰囲気が合わなかったらやめればいい。そんな軽はずみな気持ちでは、とうになかった。


「本当に!? ALO入ったら私とコンビを組むことになるけど、それでもいいの!?」


「はい。ネタは筧さんが書いてくれるんですよね? こんなド素人の私でよければ、こちらからお願いしたいくらいです」


 店内はそれぞれの話に集中していて、二人に目を留める者はいない。


 人知れず、碧と筧の新しい物語が始まろうとしていた。


「そう言われちゃったら、こっちもコンビ組まないわけにはいかないね。うん、分かった。じゃあ、改めて上野さん。ようこそ、藍佐大学お笑いサークルALOに。部員を代表して歓迎するよ」


 筧は右手を差し出してきた。周囲の視線は少し気になったけれど、大したことではないなと思い、碧も右手を伸ばす。優しく握手を交わす二人。筧の長い指が、碧には少しくすぐったかった。


「上野さん。私たちで絶対、今日見たミルネの舞台に立とうね」



(続く)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る