第2話 私と組んでみない?



「では、上野碧さんの藍佐大学入学を祝して、乾杯!」


『かんぱーい!』


 かけ声に合わせて、ジョッキを突き合わせる音が響く。初めて味わう大学生のノリに、碧は恐縮しきりだった。駅から徒歩三分もかからない居酒屋は、人々の話し声で溢れていて、落ち着ける雰囲気ではない。


 入店して一〇分が経って乾杯をした今でも、新入生は碧しかいなかった。他に声をかけたという新入生にはすっぽかされてしまったのか。


 騒々しい空気に碧はますます肩身が狭くなるも、四人がそうしているようにノンアルコールビールを口に運んだ。顔をしかめるほど苦くて、碧には少しも美味しく感じられなかった。


「じゃあ、まずは改めて自己紹介からだな」


 そう言ったのは、碧の対角線上に座っている瀬川だった。座っていても分かる高身長に、面長の顔が目を引く。


「俺は瀬川航大(せがわこうだい)。四年でALOの主務、まあ部活で言うところの部長をやらせてもらってます。そこの戸田と一緒に”フリービーハニー“ってコンビを組んでいて、主にコントのツッコミを担当しています。好きな芸人はトリップダンサー。趣味は筋トレ。上野さん、これからよろしくお願いします」


 自己紹介を結んだ瀬川に三人は拍手を送っていたので、碧も続いた。確かに瀬川の体格は服の上からでも分かるほどがっしりしている。少し威圧感があるくらいだ。


「なら、次は私の番ね」


 続いたのは筧を挟んで、碧の横にいる女性だった。コホンとわざとらしい咳に、後ろで束ねられた髪がわずかに揺れる。


「私は戸田桃叶(とだももか)。三年でALOの副務、まあ分かりやすく言うと副部長ってとこかな、をやらせてもらってます。私は”フリービーハニー“のボケを担当していて、好きな芸人はザットハウスです。特技はどんな場所でもすぐ寝られること。上野さん、今までにない雰囲気に面喰らってると思うけど、今日は楽しんでいってください」


 四人から周囲に配慮した音量の拍手が飛ぶ。


 どんな場所でもすぐ寝られるって、国民的アニメのキャラクターかと思ったけれど、碧は口に出すことはしなかった。戸田がボケで言っているのかどうか、判断がつかなかった。


「ってことは、次は俺の番でいいですね」


 瀬川の隣、碧から見てまだ近い位置にいる男性が笑顔で言う。にこりと笑った口元に、八重歯が小さく覗いていた。


「俺は西巻孝由(にしまきたかよし)。二年で今はピンで活動させてもらってます。好きな俳優、じゃなかった、好きな芸人は紙三角形。新潟から出てきた三人兄弟の末っ子です。ウチは人数も少ないから上野さんでも即戦力になれます。だから、ぜひALOに入ってください! お願いします!」


 言うやいなや頭を下げてくる西巻に、碧は戸惑いを隠せない。でも、筧が「いや、圧強いな」とツッコんでいたから、笑っていいのだと認識する。


 ぎこちない笑いを浮かべながら、圧が強いのはあなたも一緒ですけどね、と碧は内心で思う。もちろんこれも口には出さない。


「だったら、最後は私ですね」


 改まったように碧の隣に座る筧が言う。薄く引かれた口紅が、彼女の均整の取れた顔立ちをより印象づける。


「改めて上野さん、私は筧希久子(かけいきくこ)です。二年生で今は西巻と同じようにピンで活動させてもらってます。好きな芸人はキムディール。誕生日は一二月二五日のクリスマス。上野さんはたぶんお笑いの経験はないよね? でも、大丈夫。ウチは初心者大歓迎だから。分からないことがあったらちゃんと私たちが教えるから。もちろん分かる範囲でだけど」


 「お前も圧強ぇんじゃねぇか」とすかさず西巻がツッコむと、テーブルは和やかな笑いに包まれた。ただ一人、碧を除いて。


 筧も大概だが、他の三人は今日初めて会ったばかりなのだ。リラックスなんてできるはずもない。


 四人の視線が碧に向けられる。自分の番がやってきたという緊張感に息が詰まる。


 碧は小さく息を吐いた。そして、瀬川や西巻の向こう、壁にかかれたメニューに視線を向けて口を開く。


「は、はい……。えっと、経済学部一年の上野碧です。好きな芸人さんは、えっと……、スキームヘブンです。その……、和歌山から上京してきました……。ど、どうぞよろしくお願いします……」


 言い終わってすぐ頭を下げる碧に、四人からの拍手が飛ぶ。敵ではないことは分かっていても、碧はぎこちない笑い方しかできなかった。


 緊張をごまかすために、まだ美味しいとは思えないノンアルコールビールを口に運ぶ。


 四人からの興味津々といった視線が、身体に刺さってくるようだった。


「上野さんって和歌山出身だって言ってたよね? 少し喋ってみた感じ、全然方言感じないけど」


 枝豆をつまみながら、戸田が聞いてくる。テーブルの上には枝豆とフライドポテト、それに鶏の軟骨揚げが載っていて、新入生歓迎会という名の飲み会が本格的にスタートしていた。


「は、はい。小学生の頃までは神奈川の方に住んでまして。中学に入ると同時に、親の仕事の都合で和歌山に引っ越したんです」


「へぇー。神奈川のどの辺?」


「えっと、川崎の辺りです」


「そっか。じゃあフリアーノだ。俺も等々力行ったことあるよ」


「は、はあ……」


「あれ、知らない? フリアーノ? 川崎に住んでたなら、知ってると思うんだけど」


「ま、まあ……名前だけは……」


「西巻そのへんにしとけよ。お前みたいに、みんながみんなサッカー好きなわけじゃないんだから」


 なんてことのない会話でも、今の碧にとっては重荷に感じられる。もともと碧は人と喋るのが得意ではない。なんとか話に合わせるだけで、少しずつ神経がすり減っていく。


 料理は想像通りの味で悪くはないけれど、居酒屋のがやがやした空気にはまだ馴染めない。


 これが大学生。これが東京。


 かつて受けたことのないカルチャーショックに、碧には頭がクラクラする感じがしていた。「ねぇねぇ、上野さん」と筧に声をかけられただけで、軽く慄いてしまう。


「上野さんって、漫才とコントだったらどっちが好き?」


 早くも本題に入ってきた筧に、碧は若干身構えてしまう。とりあえず「漫才ですかね……」と答える。それは、毎年恒例のお笑い賞レースをなんとなく見たからにすぎなかった。


「そう! じゃあ、去年のN-1は見た!? ウィノナ、マジ面白かったよね!?」


「は、はい……。そうですね……」


「歴代最高得点を叩き出したのも納得の漫才でさ、私笑いすぎて軽く吐きそうになっちゃったもん」


 「俺はムーンマーガレットも面白かったと思うけどな」と西巻が言ったのを皮切りに、話題はN-1グランプリに移った。出場した芸人の面白かったところを四人は盛んに話していて、碧は少し疎外感を味わう。新入生がいるのに、内輪のノリに走る。


 げんなりするとまではいかないが、碧はここにいる自分を何かの間違いではないかと思ってしまっていた。


「ねぇ、上野さん」


「は、はい。なんでしょうか?」


「よかったら、私と漫才コンビを組んでみない?」


 筧の口元は確信に満ちていて、単なる思いつきで言っているわけではなさそうだ。


 だけれど、あまりに唐突な申し出に、碧は聞き返すことすらできない。


 自分が漫才をやるなんて、人前に出るなんて生まれてこの方、一回も考えたことがなかった。


「いや、あの、それは……」


「単なる当てずっぽうで言ってるわけじゃないよ。上野さん、私のネタに足を止めてくれたでしょ。それってつまり私のネタを理解してくれたってことじゃん。センスあるよ」


 たいそうな自信だと碧は思ったが、じっと自分を見てくる筧を目の当たりにすると、言葉は押しこめられた。


 お笑いに疎く、N-1も流し見してしまう自分に、笑いのセンスがあるとは碧はとても思えない。


 瀬川が「ちょっと、筧。最初から順を追って説明しろよ」とたしなめてきて、碧はようやく一息つくことができる。筧は「ごめんごめん。ちょっと急すぎたね」と軽く謝ってから、説明を始めた。


「あのね。毎年一月に行われる大学お笑い最大の大会、KACHIDOKIっていうのがあるの」


「は、はあ」


「その大会は大学対抗の団体戦で、漫才・コント・ピンの三組が一チームを組んで出場するの。今ALOは瀬川先輩と戸田先輩がコントをやってる。西巻はピン。となると、残るのは……?」


「漫才、ですか……?」


「そう! 私と上野さんで漫才コンビを組めば、晴れてKACHIDOKIに出場できるってわけ! 前回もALOは出場したんだけどさ、予選敗退しちゃって。来年こそはそのリベンジをしたいんだよね」


「それで、私に一緒になって漫才をやってくれと……?」


「うん! 上野さんとだったら私は面白い漫才ができると思うんだ。あっ、もちろん強制はしないよ。ネタだって私が書くし。でも、サークル選びで迷ってるなら、ウチに来ない? 充実した大学生活を送れるよ」


 微笑みながら甘い言葉を口にする筧。でも、碧はネタを自分で書かなくていいことにしか魅力を感じられなかった。面白い漫才も充実した大学生活も、何一つ保証されていない。


 テーブルには店員がやってきて、海鮮チヂミを置いていく。帰ることができない空気が、ますます辺りに漂い始める。


「いや、でも新入生なら私以外にもたくさんいるじゃないですか。私よりもセンスや華がある人だっているでしょうし。どうしてわざわざ私なんですか……?」


 防御策を取る碧に、四人の目が集中する。自分が悪いことを言ってしまったかのように、碧は錯覚した。


「あの、上野さん。恥ずかしいこと言っていい?」


 そう前置きした戸田に碧は小さく頷く。ここで聞かないと、それこそ自分が鬼みたいだ。


「ALOって、実はあまり人気なくてね。一週間勧誘活動をしたけれど、今日新歓に来てくれたのは上野さんだけだったの」


「ってことは、私が唯一の頼みの綱ってわけですか……?」


「まあ情けない言い方をすればな。でも、上野さん、お願いだ。とりあえずALOだけには入ってくれ。別に気に食わなかったらすぐにやめてもいい。とにかく今の俺たちには、新しいメンバーが必要なんだ」


「そうだよ、上野さん。ここはどうか人助けだと思って。一つ、何卒」


 四人は次々に碧に頭を下げてくる。


 自分よりも年上の人間に頭を下げられて、碧の気分はいいわけがない。退路を塞がれているような気さえしてしまう。もはや半分脅しだ。


 だけれど、碧は他に入りたいと思えるサークルを見つけられていなかった。


 先輩からのアドバイスを鑑みれば、ここは首を縦に振っておくべきかもしれない。そう思ってしまった。


「あの、皆さん、顔を上げてください」


 四人の目はなお、碧に集中していた。断るわけじゃないのに、言いづらさを碧は感じずにはいられない。


「分かりました。でも、もう少し考えさせてもらっていいですか。そんなすぐ決めるなんてできないので」


「うん、全然大丈夫だよ。高校とは違って、大学じゃ年中サークルに入れるしね。上野さんの決心がついたときに、また言ってくれればいいよ」


 理解を示すふりをしていてもなお、筧の目は「ALOに入れ」と、強く念じているようだった。


 曖昧に笑ってみても、やり過ごせない。


 碧はノンアルコールビールをまた少し口に運んだ。舌に伝わる苦さに、もし他のサークルの新歓に参加することがあれば、遠慮なくウーロン茶を頼もうと感じていた。



(続く)

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