チェーホフの銃

 男はどこにでもいる普通の会社員だった。だが一点。ただ一点だけ、人とは違うところがあった。それは、自分が小説の中の登場人物と自覚しているという点だった。


(この僕、只野幸雄ただのゆきおはミステリー小説の登場人物だ。勿論、探偵役をやるような頭脳は持ち合わせていない)


 自分は主人公にはなれない。では、一体どんな役回りがあるのだろうか?


(脇役とはいえ名前のある登場人物だ。何かしらの役割りはあるはずだ)


 ミステリーの鉄則に『チェーホフの銃』というものがある。意味ありげに登場させた銃は、作中で発砲させなければならない……。いわば、ストーリーに関係の無いものは登場させるべきではないという主張だ。


(ミステリーにおける脇役。多分僕の役回りは被害者だ。きっと無惨に殺されるのだろう)


 ミステリーといえば殺人事件。そして、彼はその被害者こそ自分なのだと考えていた。

 殺されることが確定している未来。いつソレが来るのかと怯える日々。だが、それこそが自分に課せられた使命。ならば全力で全うしようと彼は思い直した。

 それから数日後。遂に只野幸雄の出番が訪れた。


『ピンポーンピンポーン』


 何度も押されるインターホンの音。それにつられるようにして彼はドアを開くと、隣の部屋に押し掛けた探偵に一世一代の台詞を放った。


「あのー……。お隣さんなら一週間前に引っ越しましたよ?」

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