8.声は無く

 司を押さえつけたまま、隠邪は喉の奥でぐぐぐと嫌な音を立てる。


『気になるかぁぁぁ? 気になるよなぁぁぁ。教えてやるよぉぉぉ、人間の嘘をさぁぁぁ。そしたら狐ちゃんはぁぁぁ、オレと一緒にぃぃぃ、来たくなるぜぇぇぇぇぇ』


 司は何も言えない。ユクミも、聡一も、何も言わない。

 ギィギィと軋む金属にも似た、猿の声だけが辺りに響く。


『むかしむかしのぉぉぉ、話さぁぁぁ。ある村によぉぉぉ、一人の老人が来たんだぁぁぁぁ。そいつは言ったぜぇぇぇ。「この村にあるぅぅぅ、狐の頭をぉぉぉ、譲ってもらえないかぁぁぁ」ってさぁぁぁぁ!』


 村人は断った。

 その“狐の頭”は妖怪の一部であり、隠邪から村を守ってくれる大事な品なのだからおいそれと渡すわけにはいかなかったのだ。


 しかし老人は言った。


「もしも狐の頭を譲ってくれるのなら礼として金を払うし、お前たちが望むのなら“隠邪が現れなくなる術”をこの村に施してやってもいい」

「その術はどのくらいのあいだ続く?」

「永劫にだ」


 村人はごくりとつばを飲み込んだ。

 もしもこの老人の話が本当ならば、妖の頭を渡すと引き換えに金が入る上、村に隠邪が出なくなるというのだ。


「本当だな?」

「もちろんだとも」


 こうして村人は妖の頭を老人に渡し、金を手にした――。


「嘘だ!」


 昔語りの声にかぶさるような高い声が響く。

 いつの間にか顔から手をどけたユクミが、猿をひたと睨んでいる。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ! だって父さんは私と約束した! 村に隠邪が出ないようにするなら、母さんの頭を大事にしておいてくれるって約束したんだ! だから村に隠邪がでなくなった理由が私でなくても! あの人の術でも! 母さんの頭はちゃんと村で大事に!」

『その約束がさぁぁぁ、守られなかったんだよぉぉぉぉ』


 ユクミは白い髪を振り乱して「嘘だ!」とさらに叫ぶが、


『俺はぁぁぁ、嘘を言わないぜぇぇぇぇ』


 猿は再びグギギと嫌な音を立てて笑う。

 しかし、今回は笑ったあとで一転、


『可哀想ぉぉぉだぁぁなぁぁぁぁぁ』


 と、驚くほど優しい声を出した。


『可哀想なぁぁぁ、狐ちゃんよぉぉぉ。オレは知ってるぜぇぇぇ。お前がぁぁぁ、頑張ってたのをぉぉぉ、知ってるぜぇぇぇぇ。傷ついてぇぇぇ、ボロボロになってぇぇぇ、それでも頑張ってぇぇぇ、隠邪を倒してたのぉぉぉ、知ってるぜぇぇぇぇぇ』


 辺りに響く声は相も変わらず軋む金属のようだというのに、なぜだか胸の奥に沁みわたるように聞こえた。

 優しく、あたたかく、寒さで震えているとき与えられた毛布のように、ふわふわと心をくるんでくれるように思えた。


 だからこそ司は気持ち悪くて仕方がない。

 この声を発しているのは隠邪だ。闇に棲んで人間を食うだけの存在が優しさなど持ち合わせているはずがないのに、なぜ。

 傍で聞いている司でさえ猿が唯一の理解者だと錯覚してしまうほどなのだから、話しかけられている当のユクミは目に涙をいっぱいにためて、すがるような眼差しを猿に向けている。


『村からぁぁぁ、隠邪をぉぉぉ、遠ざけていたのはぁぁぁ、狐の頭の力じゃないぃぃぃ。本当はぁぁぁ、狐ちゃんがぁぁぁ、必死にぃぃぃ、倒していたんだよなぁぁぁ。あの村にぃぃぃ、母親の頭をぉぉぉ、置いてもらうためにぃぃぃ、頑張ってぇぇぇ、頑張ってぇぇぇ、頑張ってたんだよなぁぁぁぁ』

「どうして……知って……」

『知ってるさぁぁぁ。オレは何でもぉぉぉ、知ってるのさぁぁぁ。狐ちゃんはさぁぁぁ、何もぉぉぉ、悪くないぜぇぇぇ。悪いのはぁぁぁ、全部ぅぅぅ、嘘つきのぉぉぉ、父親……』


 言いかけて猿は喉の奥で「ング」という変な音を立てる。

 それは今までの笑い声とは違う、意図せず苦いものを飲んだような、柔らかいと思って噛んだら硬くて驚いたかのような、そんな響きを含んでいたように思う。

 しかしそれも一瞬のことで、猿はすぐにまた「グググ」と笑い、優しい声でユクミに語り掛ける。


『酷いよなぁぁぁ、頑張ったぁぁぁ、狐ちゃんにぃぃぃ、嘘をつくなんてよぉぉぉ。人間はぁぁぁ、酷い奴らばっかりだぁぁぁぁ。――ああぁぁぁ、狐ちゃんよぉぉぉ、可哀想になあぁぁぁ。そんなに泣いてぇぇぇぇぇ』


 ユクミは声も出さずに泣いていた。

 押さえつけられて何もできない司は、黄金の瞳から溢れた大粒の涙が白い頬を伝い、聡一の袖や地面を濡らす様子を、猿が言う前からただ見ていた。


『無理もないさぁぁぁ。あの村によぉぉぉ、まだ母親の頭がなぁぁぁ、あるはずだってさぁぁぁ、狐ちゃんはよぉぉぉ、何百年もぉぉぉ、信じぃぃぃてたんだもんなぁぁぁぁ。だろぉぉぉぉぉ?』


 隠邪の声に引き込まれるようにして、小さな頭がこくりと動く。


『無くなったぁぁぁ、母親の頭ぁぁぁ、探したいよなぁぁぁぁ』


 小さな頭が再び上下に動いた。


『オレがぁぁぁ、探してやるよぉぉぉ。狐ちゃんのぉぉぉ、母親の頭をさぁぁぁ、探してぇぇぇ。お前の手にぃぃぃ、戻してぇぇぇ、やるよぉぉぉぉ』

「……そんな、こと、できない」

『できるさぁぁぁ』

「……できる……」

『そうさぁぁぁぁぁ。できるのさぁぁぁぁ』

「……本当に?」


 か弱い声にほんのわずかな希望がまざった。猿がわずかにみじろぎをする。


『本当さぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!』


 猿は笑う。今までと同じはずなのに弦楽器の旋律のような優美さを感じる声は、もはや金属の軋む音とは言えない。


「どう、すればいい?」

『簡単なぁぁぁ、ことだぜぇぇぇ。オレと一緒にぃぃぃ、来ればいいぃぃぃぃぃ』


 ユクミは涙に濡れた顔を上げる。その表情からは猿に対する嫌悪が消えていた。ただ、まだ迷いは残っている。もしも司が声を掛けられたら状況はきっと変わるだろうと思うのに、司は相変わらず猿に押さえつけられていて口を開くことができない。

 せめてユクミが司を見てくれたらと願うが、ユクミはまっすぐに猿だけを見ている。


『オレはぁぁぁ、人間と違ってぇぇぇ、嘘をつかないぜぇぇぇぇ。だからぁぁぁ、約束してやるよぉぉぉぉ。オレと来たらぁぁぁ、狐ちゃんはぁぁぁ、母親とぉぉぉ、離れずにぃぃぃ、すむぜぇぇぇぇぇ』

「離れずに……」

『そうさぁぁぁぁぁぁ』

「でも……私は」

『余計なぁぁぁ、ことなんてぇぇぇ、考えるなよぉぉぉぉぉ』


 再び生じたユクミの迷いを切り払うように自分の声を被せ、猿は優しくも強い口調で言う。


『今まではぁぁぁ、悲しいことやぁぁぁ、寂しいことぉぉぉ、ばっかりだったろぉぉぉぉ。これからはぁぁぁ、幸せな時間だけぇぇぇ、過ごせばいいぃぃぃ。幸せでぇぇぇ、楽しいことだけぇぇぇ、考えてればぁぁぁ、いいんだぁぁぁぁぁ』


 猿は身を乗り出す。


『オレとぉぉぉ、来いよぉぉぉぉぉぉぉぉ』


 ユクミは猿を見つめる。猿だけを見る。

 そうして、こっくりと頭を上下させた。


『――つかまえたぞ!』


 猿の吼える声が響くと同時に体が自由になった。司は跳ねるようにして起き上がり、結んでいた右手の刀印を振り向きざま横に薙ぐ。


隠邪逐滅おんじゃちくめつ――烈斬れつざん!」


 しかしそこに司の攻撃を受けるべき対象は存在しなかった。空間がわずかに揺らいだ気がしたが、それだけだ。

 司は慌てて右、左、さらに後ろと探し、さらに三回ぐるりと見回す。

 辺りには誰もいない。

 猿の隠邪も聡一も。ユクミの姿も、ない。


「ユクミ!」


 司が叫び、待っても、どこからも返事はなかった。


 もう一度顔を巡らせ、司は右手の刀印はそのままに歩き出す。

 近くの小さな建物の中からは甘い香りが漂い、薄暗い店内では中年の女性が座っていた。

 司は古びた扉に手を掛ける。横に開き、ガラスに映る気抜けした自分の姿を視界から消すと、中にいた女性が茫洋とした目で出入り口を見ながらにこりと笑う。


「いらっしゃい。ここは駄菓子屋さんよ」


 扉を開けたまま司は無言で中に入る。先ほど聡一が現れたと思しき場所の横にしゃがんで見分してみるが、ヒビの入ったコンクリートの床にも古びた木の棚にも何の痕跡もない。

 視線を上げると、相変わらず出入り口の方へ顔を向けたままのアヤがいる。


「……今しがた外で起きたことを見ていましたか?」

「好きなお菓子を選んで持ってきてね」

「さっき聡一が店の中に現れましたよね」

「このお店には毎日たくさんの子が来るの」


 平坦で無機質な声を聞きながら立ち上がり、司は店を出た。

 おそらくこのアヤは機械の自動音声と同じだ。いくつかの言葉を状況に応じて話しているだけ。何も見ていないし、何かの答えを期待することもできない。

 しばらく歩き、司は小さな足音が聞こえないことを再確認する。後ろを振り返り、ただ風が吹くばかりの道を見つめ、眉を寄せ、「くそ!」と叫んで近くのブロック塀に拳を叩きつけた。これが何に対しての苛立ちなのかは心が混沌とし過ぎていて司自身にも分からない。


 しかしただ一つだけ確実なことがある。

 この異界で司は、一人きりになってしまったのだ。

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