暁を待つ






 ――お前はろくに歩けもしない。我が家の名折れよ。

 

「もうしわけありません、ちちうえ」


 ――少しは歩けるようになったか。ならば次は剣をとれ。何のために男として生まれてきた。


「はい、父上」


 ――剣筋に冴えがある。弟よりも筋が良いな。嫡男の勤めを果たすんだぞ。


「ありがとうございます、父上」


 ――長くは動けないとはどういうことだ。足は治ったわけではないということか? 戦場いくさばに出れぬのなら、いくら剣の腕が立とうとも意味がない。やはりお前は不出来のままだ。


「申し訳御座いません、父上」


 血豆が潰れ、皮が剥け、すぐに疲労で動かなくなる足。身体と足が別物のようだ。床に座り込んで動けなくなると、遠目に心配そうに見守っていた弟がこちらへ駆けてこようとする気配があった。

 しかし、父親の侍従に背を押されて練功房どうじょうを無理矢理に後にしていく。


 くらい場所で、一歩も動けない。


 何のために生きている。

 何のために剣をとる。

 

 この足さえなければ、こんな努力をせずとも。

 

 父親が弟の肩を抱いて歩き出す。

 嫡男でありながら家督を貰えず、家族同然の部下にも真実を話せず、独り。ただ独りきり。


 この足さえなければ。


 この足でなかったなら――。









「――すか? 起――、さい。起きてください」


 薄っすらと目を開ける。

 闇の中、心配そうにこちらを覗き込んでいる顔があった。何度か瞬き、ゆっくりと身体を起こす。泥濘に嵌ったような重だるさが身体に纏わり付いていた。

 同じく身体を起こした曄琳イェリンが、また心配そうな顔をして暁明シャオメイの腕に触れる。


「大丈夫ですか……?」


 曄琳が首を傾けると、暁明の寝間着の上に滑り落ちた彼女の髪が数束掛かる。寝癖の付いた横髪の隙間から覗く紅い瞳は、月明かりを受けて僅かな光を放っていた。

 

「随分うなされていたので、ご迷惑かなと思ったのですが起こしてしまいました」

「ありがとうございます。……少し夢見が悪かった」


 ぐしゃりと前髪をかきあげる。夢の全てを覚えているわけではないが、断片的なくらい情景は頭の中にこびりついていた。すると、気遣ったような手つきで曄琳が控えめに頬に触れてくる。


「少監、顔色があんまり良くないです」


 それには緩く笑顔を向けるに留め、そっと曄琳の手を取る。


「少監ではなく、どうぞ名前を呼んでください」

「あ、ごめんなさい。つい癖で……しゃ、暁明様」

「様も不要だと何度もお伝えしてますよ」

「う……徐々に慣れていくので、許してください」


 そう言いながらもう半年が経とうとしていることには目を瞑ろう。

 闇に目が慣れてくると、曄琳が恥ずかしそうな顔をしながらも、どこか探るような目を向けていることに気づく。


「……暁明様、誤魔化さないでくださいね」


 騙されてやらないぞという曄琳の目に、暁明は苦笑する。「いつもそうなんですから」と曄琳が口を尖らす。


「うわ言でお義父様のお名前が出ていたので、あまりよくない夢なのかなと思ったのですが」

「……そうですね」


 暁明の返しに、曄琳は表情を曇らせる。


「えっと、何かお話したいことがあれば、……その、聞くことくらいは、私でもできますから」


 彼女はあまり饒舌な方ではない。故に言葉を惜しむ。黙って寄り添ってくれることも多い彼女だが、今日はたどたどしいこの思いやりが格別に心にしみた。

 曄琳の腕を引くと、何の抵抗もなく腕の中に収まる。ふわりと香るのはおそらく彼女の髪油。初めの頃に比べれば、彼女は随分と心を許してくれるようになった。髪を手で梳いてやると、くすぐったそうに首をすくめる仕草が愛おしい。


「――あなたが私を見つけてくれた。独りで抱えていたものを、あなたが掬い上げてくれた」


 誰も気づかなかった仮面の下を、彼女は音ひとつで言い当てた。踏み荒らさないよう、常に距離を計って、慎重に、誠実に。彼女自身も秘密を抱えていたこともあり、ある種一線引かれたような関係性は心地よかったのを憶えている。


「曄琳、あなたと出会えたことに感謝します」

 

 しかし一度手に入れてしまえば、もう昔のような距離は耐えられない。我ながら欲深いものだと思う。

 曄琳は暁明の腕の中で身を捩ると、その吊り目がちな双眸を柔らかく細める。

 

「私の方こそ、暁明様に出会っていなかったらずっと独りでした。孤独から救ってくれたのは、暁明様です」

「なら――私達は互いを待っていたのかもしれませんね」


 昏い中で、夜明けを待つ。

 いつか出会うこの人のためにあの孤独があったのなら――それはただ辛いだけの時ではなかったのだと思える。


「は、恥ずかしいことを平然とおっしゃいますね……」


 曄琳が俯く。絹糸のような黒髪の隙間から、赤らんだ頬が見え隠れてしていて。暁明が首筋に口を寄せると、面白いくらいに肩が跳ねた。

 体重を掛けると被子ふとんに彼女の身体が沈む。緩く彼女の手首を撫で上げると彼女は何か察したようで、慌てて手を解いて暁明の肩口を押してくる。

 

「あ、明日は仕事ですよね?」

「ええ。あなたも公務がありますね」

「睡眠は大事だと思います」

「まだ夜明けまで時間はありますよ」


 ええと、と曄琳が言い淀む。言い訳を考えている。長い睫毛の下で逡巡する紅と黒の瞳がゆらゆらと揺れていた。

 

「曄琳、私があなたに触れてはいけませんか?」


 じっと見つめると、曄琳は小さく呻いて黙ってしまった。曄琳がこういった言い方に弱いことを把握している。曄琳は迷ったような、呆れたような顔でこちらを見上げている――頬の熱はそのままで。なんとも可愛らしいことだ。

 こちらがその顔に弱いことを、彼女は知らないのだろう。


「……………………お、お手柔らかにお願いします」


 観念したのか控えめに首へ回された腕に、暁明はくぐもった笑いを漏らす。

  

「さあ、どうしましょうね」

「意地悪を言わないでください……!」


 頬を撫でると、首に回る腕が震える。それでも離れようとしないのは、なんともいじらしい。

 

 独りから、二人で。

 

 ――今は二人で、暁を待つ。

 

 

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