ストーリー:33 彼女が守っているもの


 これは彼女の――相楽さがら春菜はるなの幼いころの記憶。


 五樹村の宮司の家系に生まれた長女は、幼少から利発で、手のかからない子供だった。


「おかあさん、ごほんかってきて!」

「え、また? ハルちゃん、このあいだ買ってあげた本はもう読んだの?」

「うん! おもしろかった!」


 言葉を覚えるのも驚くほど早く、保育園の年中クラスに通うころにはひらがなが読めた。

 本を読むのが大好きで、ことさらに物語のあるものが好きだった。


「ねぇ、おとうさん。ようせいさんやまじょさんっているのかな?」

「そうだね。この世界のどこかには、いるかもしれないね」

「そっかぁ!」


 いつしか彼女は、物語の中だけに存在する何かがあることに気がついた。


 鬼、妖精、ドラゴン、魔女――。


 それらは本の中で詳細に描かれているのに、現実では見たことがない者たちだった。


 だが。


「おとうさん。ここにカミサマがいるの?」

「そうだよ。ここには大阿蘇様という神様がいて、僕たちを見守ってくれているんだ」


 神社の生まれという環境が、神の実在を肯定していたから。


「そっかぁ!」


 彼女は、自分が知らないだけで、他のすべてもどこかにいるに違いないと思っていた。


 だから。


「やべぇ、タワシがあるいとる!」

「え!? なにかいるの?」

「おるおる! あそこ! あ、てーふってくれた!」

「へぇー! すごーい!」


 その少年が――ナツが口にした言葉を、頭ごなしに否定することはなかった。



      ※      ※      ※



 ナツと出会ってからの彼女は、ナツという少年が紡ぐ物語に夢中だった。


「うおおおーーーー!」

「こら、野猿ーーーー!! まーたお前、山ん中勝手に入ってから!! 危なかとぞーー!」


 大人たちが呆れるくらい活動的で。


「はー、お前。よーそぎゃんこつば知っとるねぇ?」

「へへっ。ちょっとまえに、みんなからおしえてもらったとよ」


 どこから仕入れたのかわからない、びっくりするような知識を持っていて。


「お。ありがと。……おーい! おくれとるね、つかれたと? ほいっ。てぇ、どうぞ」


 いろいろなことに気がついて、何度だって助けてくれる。


「ナツは、すごいねぇ」

「そげんこつなか。いつもたすけられとるもん」


 そんな、物語の主人公のような彼が。


「ようかい?」

「そう、ようかい! おれのともだちばい!」


 神社の神様と同様に、当たり前に彼が肯定している、自分には見えない世界のお話が。


「はぁー、すごいねぇ。すごいねぇ!」


 彼女は、大好きだった。


「だろ? みんながおもっとるよか、いつきは、ずーっとにぎやかだけんね!」

「うん!」


 だから自然と、彼女は彼に惹かれていった。

 長い時間を共に過ごすことで、ゆっくり、じっくり、その心を育んでいった。



      ※      ※      ※



 育んだ想いに転機が訪れたのは、彼女たちが小学4年生となった、夏のころ。


「うおおおーー!!」

「おいこらナツ! あんま深い方には行くなよーー!」


 小学校の子供たちと、それを見守る保護者達とでやってきた、カワベ川。



「おーい、ハルー!」

「………」


 このとき、彼女は彼と少しだけ距離を取るようになっていた。

 最近、彼を見ていると心がざわついて、恥ずかしくなって、落ち着いていられなくなることが多く、どうしていいかわからない。


(妖怪のことばっかり話すナツなんて、知ーらない!)


 同時に、ほんの少しだけ。

 彼が語る“作り話”に、少しだけ大人になった心が辟易し始めていたから。



「ハルちゃん。遊ぼう!」

「うん」


 代わりに年の近い女友達と一緒に、川に入ってビーチボールを打ち合って遊ぶ。


 その最中。



「あ、ボール!」

「ごめーん! ハルちゃーん!」

「だいじょーぶ、いいよー!」


 女友達の打ち損じたビーチボールが、川の深い方へと飛んでしまった。

 それを無意識に追いかけて、長い時と共に流水でえぐれ、急に深くなっている場所に、うかつにも彼女は足を踏み入れて。


「ん? ……!?」


 溺れた。


 それはびっくりするほど静かに、その瞬間を見ていた女友達が、自分から潜ったと錯覚するくらいに綺麗な落ち方で、彼女は深みに沈み込んだ。



「ごぼぼっ!?」


 吐いた息は泡となって、川の水泡に混じって消えて。


「ごぼっ!? ごぼぼっ!?」


 もがく手足は水流に負け、さらに深みへ彼女を引きずり込んでいく。


「~~~~っ!!」


 幼心に思うのは、カチカチ山のたぬき。

 泥船が溶けて溺れたたぬきは、そのままついぞ、湖から上がってくることはなかった。


 自分もそうなるのだと、賢い頭が悟ってしまった。



(助けて! 助けて!!!)


 パニックになりさらに暴れる。

 けれど暴れれば暴れるほどに、状況は悪くなるばかり。


「がっ、ご……!」


 息も苦しく、少しずつ意識が遠のいていく。


 その時だった。



「!?」


 彼女は確かに、その目で見た。


「ごぼっ!」


 水底に迷いなく素潜りし、自分に向かって手を伸ばす……ナツの姿を。


 彼は目にも留まらぬ速さで彼女を抱きかかえ、すぐさま踵を返し水面へと浮かんでいく。


「~~~~ぼぼっ!!」


 水面に顔を出すと同時に、飲みかけていた水を吐き出す。

 ふわふわした意識が明瞭になれば、よりハッキリと、自分を助けてくれた人の顔を見ることができた。


「大丈夫かぁ!?」

「えほっ、けほっ、えほっ……うん、うん。ありがとう……ありがとう、ナツぅ」


 彼だった。



「教えてくれた奴がおってね。助けられてよかったぁ」


 無事な様子を確かめて、ホッと、心から安心した様子を見せる彼を見て。


「………」


 彼女は、自分が彼に恋をしているのだと自覚した。



      ※      ※      ※



 恋を自覚してからの彼女の行動は、早かった。

 母親譲りの行動力はこのころから健在で、なにより恋心に邁進するのも母親譲りだった。


「あのね、ナツ」

「うん」

「……これ!」


 彼女は先日のお礼がしたいと彼を呼び出し、手作りのお菓子を用意して差し出した。

 彼女の気持ちを知った母親お墨付きの、味は完璧、形は不格好なクッキーだった。


「このあいだは助けてくれて、本当にありがとう! これ、お礼!」

「お礼……そっかぁ。ありがとう!」


 差し出したそれを、照れながらも素直に受け取ってもらい。


(言うなら速攻! 体当たり!)


 母親からの教えを実行するべく、覚悟を決めた。


 その時だった。


「これ、ちゃんとあいつとわけて食べるけんね!」

「え……?」


 思ってもいなかった返事が、彼の口から飛び出した。



「あいつ?」

「そう! ハルがおぼれとったとき、すぐに教えてくれた奴がおったとよ」

「ああ……それなら」

「そん時は俺じゃ潜れそうになかったけんね、そいつに頼んでそんまま助けてもらったとたい」

「はぇ……?」


 彼女は、自分の耳を疑った。


「え? どういうこと?」

「どういうことって? 俺じゃあぎゃん深いところまで潜ってもきつかったろけん、友達の妖怪に頼んでハルを助けてもらったって言うたと」


 聞き返して、それを後悔した。



「だけん。これば食べるならそいつも一緒じゃないといけんと思うとたい」

「………」


 あっけらかんと、言い切った。

 彼の、いつもと変わらないその物言いが。


「……ぃ」

「ん?」

「……あげない!!」

「えぇっ!?」


 彼女の心を何よりも深く、傷つけた。



「これは、ナツにあげるの! ナツが、私を助けてくれたから!」


 奪い取った菓子袋を、強く強く胸に掻き抱いて、彼女は叫ぶ。


「ハル。でも」

「妖怪なんて! いないじゃない!!」

「!?」

「なんで、なんでそんなこと言うの? ナツが助けてくれたのに!!」


 吐き出しても吐き出しきれない想いに耐え切れなくて。


「やだーーーー!!」


 逃げるように、彼のもとから駆け去った。


 家に帰って、自分の部屋に引きこもり。


「うっ、ひぐっ、うう……!」


 そこでようやく、こらえ続けた大粒の涙をこぼして泣き出した。



(ナツの嘘つき。なんで、なんで、なんであんなこと言うの?)


 あの日、自分を助けてくれた彼を見て、彼女は恋を自覚した。

 それを、当の本人に、真っ向から否定されてしまった。


(ひどい、ひどい、ひどい!)


 あのとき確かに、助けてくれたのは彼なのに。

 その記憶が間違っていると、誰でもない彼自身に断言された。


 恋したきっかけを、大切な想いを、否定された。



(妖怪……妖怪なんて!)


 彼女の中で、好きだったものが反転する。


(妖怪なんて、いるわけない!)


 物語の存在は、物語にしか存在しない。


(妖怪なんて、いらない!)


 いてはならない。



      ※      ※      ※



「……本物の妖怪なんて、絶対いない。全部、作り物なんだから!」


 こうして彼女は、妖怪を否定し始める。


 その想いは年月を経て少しずつ、少しずつ。

 想い人であるナツと交流を重ねるたびに、彼女の胸の中で強まっていく。


(絶対に認めない。だって、そうじゃないと……私のこの思い出まで、嘘になるから。この想いすら、否定されてしまうかもしれないから)


 だから、彼女は否定する。



「妖怪なんて、いない! 妖怪なんて、いらない! そんなの! いて欲しくない!!」


 たとえ目の前で、想い人が悲しい顔を浮かべても。

 それを認めてしまったら、自分の大切な想い出を、否定してしまうことになるから。


「ナツ」

「ハル……」


 想いに突き動かされるまま、ハルは言う。


「妖怪ごっこは、もう止めよう? 妖怪なんて、いるわけないんだから……!」


 ずっと育み続けた、恋する心と思い出を守るために。

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