第6話 母の欲望

 私は、とばり君の母親として、うまくやれているのだろうか。そう考える日々を過ごしていたわ。


 その理由は、彼が私達の前に姿を見せなくなったから。ずっと、自分の部屋でひとりきりで過ごしていたから。


 なぜ、とばり君は私達から遠ざかってしまったのだろう。そんな思考ばかりが広がって、とても苦しかった。


 彼が記憶喪失になってからも、ずっと考えていたこと。私は何を失敗したのだろうか。それとも、とばり君の性質というだけだったのだろうか。


 今となっては、知る手段がないんだと思う。もう、彼は別人のようになってしまったから。元の面影から、遠くなるくらい。


 だけど、それでも、今は幸せを感じてしまう私が居る。ごめんね、とばり君。私はダメなお母さんだったわよね。


 でも、今のとばり君はとっても素敵だから。仕方のないことなのよ。


 彼が階段から落ちて、絶望したこともあった。何度も見舞いに行って、目覚めない彼に涙したこともあった。


 だから、とばり君が記憶喪失になったと理解できた時は、とてもつらかった。気が遠くなるという言葉の意味を、心から感じたくらいに。


 けれど、結果として新しくなったとばり君は、大きな幸せをくれることになる。


 その始まりは、彼が、私となら幸せに過ごせそうだと言ってくれたこと。これまでのとばり君は、私と積極的に会話なんてしてくれなかった。


 だから、母としての私は満たされていなかった。我が子との交流もできないままで、苦しいだけの日々だった。


 そんな時間は、とても幸せなものだとは言えなかった。もちろん、娘であるゆかりやりんごはいい子たちだったんだけどね。


 けれど、可愛い息子が私を遠ざけるという事実は、悲しいばかりで。


 だからこそ、とばり君が、人前とはいえ私を肯定してくれただけで、とても温かい気持ちになれたの。


 でも、そんなものは始まりでしかなかった。お医者さんの前で会話をしていただけなら、態度を取りつくろっていただけだと感じていたはず。


 だけど、そうはならなかった。帰り道でも、当たり前のように温かい言葉をかけてくれた。それだけではなく、ゆかりやりんごにも、親しげに話してくれていた。


 記憶を失う前のとばり君は、誰とも会話をしないことが常だった。だから、前より圧倒的に素敵だって思ってしまったの。以前の彼を否定する考えだって分かっていたのに。


 でも、前の私と今の私を比べたら、幸せの度合いなんて比べるまでもない。それは事実としてあったの。


 それから、次の日。とばり君は私たち家族だけではなく、家政婦の百合子さんとも親しくしようとしていた。


 つまり、彼の優しさが本物だって証だと思う。単純に血が繋がった相手だからというだけでなく、目の前の相手を大切にしようとしているってことのはず。


 だから、今のとばり君がもっともっと好きになれそうだった。彼にとっては、小さな事なのかもしれない。でも、それこそが温かい心を証明する要素のはず。


 そう思ってからは、今の彼を、心から息子だと思う決意が固まったわ。もし、何か別人に変わってしまったのだとしても。


 だって、彼は本気で私たちと家族になろうとしてくれているから。前のとばり君と違って。もしかしたら、私は情のない母親なのかもしれない。でも、本当の気持ちだから。心に嘘はつけないもの。


 それからのとばり君は、学校に通うことを考えているようだった。少しどころではなく寂しかったけれど、私たちと離れたい訳じゃないみたいだった。それが分かったから、背中を押す気持ちになれた。


 とばり君は、私たち家族と本気で仲良くしようとしてくれている。大切にしようとしてくれている。


 だから、その心に応えるためには、私だってとばり君の心を大切にする。それが大事だと思ったの。


 とはいえ、学校に通う上では危険もあるかもしれない。だから、護衛官を雇うことに決めたわ。私だって、毎回送り迎えできる訳ではない。それに、学内でだって危険があるかもしれないから。


 ただ、とばり君と護衛官の関係は、少し心配。以前のとばり君を知らない人なら、完全に惚れ込んでしまうこともあり得るから。


 とはいえ、何もしないよりは良いはず。高校でも、きっと彼はみんなに優しくするから。だから、色んな子に好かれてしまうんだろう。だから、護衛官の存在は抑止力になってくれるはず。そう期待していたわ。


 でも、まだ先の話でもある。時間は永遠ではないけれど、ゆっくり考えていけば良い。そう結論づけたの。


 ただ、その次の日。私は自分を抑えきれなくなりそうだった。


 きっかけは、とばり君の方から話しかけてくれたこと。私と、ただ会話をしたいのだと。その言葉だけで、涙すら流してしまいそうだった。だけど、それは始まりでしかなかった。


 続けて、私に何度もありがとうと告げてくれた。私は、ただ自分の欲望のままに行動しているだけと言っていいのに。


 だけど、彼は心から感謝してくれているようだった。表情も、声も、全てから感情が伝わってきたから。それはつまり、私を本気で肯定してくれているということ。嬉しさで、どうにかなってしまいそうなくらいだった。


 それでも、まだ終わりじゃない。私たち家族を優しい人だと言ってくれて、素晴らしい人だと言ってくれた。とばり君は家族を愛してくれているのだと、強く伝わったわ。


 だから、今の彼を困らせるくらいなら、昔の彼は忘れようと思ったの。もしかしたら、そんなところが以前の彼に遠ざけられる原因だったのかもしれない。でも、我慢なんてできなかった。


 とばり君をどこまでも甘やかしたい。そんな欲求が浮かび上がってきて、ダメになりそうだった。だって、今の彼が私に甘えてくれるのなら、今までの人生のどんな時よりも幸せを感じられそうだから。


 ただ、彼は自立しようとしているみたいだった。邪魔をするつもりはないわ。だけど、どこかで折れてほしいと望む私もいた。


 そうなればきっと、とばり君は私に甘えてくれるから。その時に、何でもしてあげたかった。彼の望むことの、一から十まで。


 まずは、第一歩として彼を抱きしめてみたの。私のぬくもりで、心地よく感じてくれるのなら、それがきっかけになるはずだから。


 とばり君は当たり前のように受け入れてくれて、私は背中がゾクゾクしていた。頭がバチバチしていた。彼のことだけで、頭が埋め尽くされてしまいそうなくらい。


 これから先、彼をドロドロに甘やかすことができるのなら、もっともっと幸福を感じられるはず。私は、その光景を想像するだけで震えそうになるくらい。


 とばり君は、私に対して両想いなんて言ってくれる。でも、他の人にも同じことを言ってしまうのだろう。自分の状態を考えると、危ない目にあってしまうかもしれない。だから、注意をしていた。


 だって、もう私はとばり君を手放すつもりなんて無いんだから。何があったとしても、ずっと一緒にいてみせるわ。


 ねえ、とばり君。あなたが傍に居てくれる限り、ずっと私は幸せよ。だから、よろしくね。

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