第4話 求められる喜び

 私は、家政婦として赤坂家に仕えております。その中で、料理と掃除、その他屋敷の管理を行っております。


 雇い主である、そら様にはよく褒めていただきますが、当然の仕事をこなしているだけ。私は家政婦なのですから、職責を果たすのは義務と言っていいでしょう。


 ただ、うまく仕事をできていないと感じる瞬間もありました。この家のご子息である、とばり様。彼は部屋から一歩も出ないことが多く、掃除ができなかったのです。


 そんな日々の中で、ある日にとばり様は階段から落ちてしまいました。そのまま頭を打って、入院されたとのことです。


 ですから、その時間の間に、彼の部屋の手入れを行っていました。ホコリが溜まっていたり、物が散らかっていたり、床が汚れていたりと、それなりに手間がかかる状態ではありました。


 とはいえ、私にとっては仕事ですから、多少の問題で投げ出すことなどありえません。しっかりと、入院期間中に掃除を終えさせていただきました。


 ただ、ほとんど部屋にこもっているだけの存在とはいえ、とばり様は赤坂家にとって大事な人。入院している間は、家の空気が沈んでいるのを感じていました。


 それでも、私からできることなど、無いに等しい。あくまで他人ですから、家族の問題に踏み込むことは避けるべきでしょう。そう考えていました。


 ですから、いつも通りに仕事をこなしていると、とばり様が目覚めたとの連絡を受けました。どうにも記憶を失っているようでしたから、当日の挨拶は控えていました。


 ただ、そら様の配慮によってと言うべきか、翌日に起こしに向かうことになりました。おそらくは、ふたりで話す機会を作ってくださったのだと思います。


 というのも、そら様が言うには、とばり様はとても優しくなったとの事でしたから。親しみを持ってくださる男の人との交流は、多くの女にとってはご褒美ですから。


 人生の中で、一度も男に接したことのない人も珍しくはないのです。私は、自分の仕事をこなすだけと考えていましたが。


 ただ、とばり様の手で、私は大きく変えられる事になってしまいました。全く予想していなかった方向に。


 始まりは、私の名前を聞かれたこと。これまでのとばり様は、家政婦さんとしか言わなかった。にもかかわらず、今の彼は私を百合子さんと呼ぶのです。


 それがなんとも言い難い心地よさのようなものを感じさせて、ですが、仕事として感情を抑えていました。まさか、雇い主のご子息に失礼を働く訳にはいかないのですから。


 ただ、とばり様はとても押しが強かった。私にも、同じ食卓で食事を取るようにおっしゃったり、私の料理を褒めてくださったり。


 それでも、まだその時は、優しい人との交流くらいに思えていたのです。


 次の日には、私は何もかもを、とばり様に支配されることになるのです。心の全てと言っていいだけのものを。


 彼が目覚めて、顔を合わせてすぐ。今日も美味しいご飯を食べさせてくれと言われてしまいました。


 私は、ただ仕事として料理を行っていました。払われる給料の対価として。それが、家政婦として正しい態度だと信じていたのです。


 ですが、とばり様の言葉で、大きな影響を受けてしまいました。この人が喜んでくれるのなら、気合を入れたいと感じるほどに。


 私の理想とする家政婦は、職責としてきっちりと家事を行うのであって、個人のために尽くすものではありません。ですから、赤坂家とも適度に距離を取ってきたつもりです。


 ただ、これからの私には、同じことはできない。そう考えてしまうほどに、とばり様の言葉は劇薬だったんです。なぜなら、私はとばり様の笑顔を想像するだけで、心が震えてしまったんですから。目の前にある笑顔を、もっと見ることができるのなら、私は何でも実行したでしょう。


 それでも、とばり様の心を無視する訳にはいきません。傷つける訳にも。ですから、必死で自分を抑えていたのです。


 なのに、とばり様は私の料理を何度でも食べたいと言うのです。まるでプロポーズのような言葉を。違うと分かっていても、彼に妻として尽くす光景をイメージしてしまいました。


 年を考えれば、絶対に我慢しなければならない感情です。とばり様はまだ子どもで、私は大人なのですから。


 ですが、誰かに料理を求めてもらえる嬉しさは、あまりにも大きかった。自分が制御できなくなりそうなほどに。


 だから、私はとばり様を遠ざけたかった。自分が今以上におかしくなってしまわないように。


 そのために、とばり様はいつか離れてしまうのだと口にして、自分にもとばり様にも言葉を刻みつけてしまいたかった。まさか、私と彼が結ばれる未来など、あるはずがないのですから。


 にもかかわらず、とばり様は私をずっと大切にするなどとおっしゃるのです。怖かった。自分がおかしくなってしまいそうで。恐ろしかった。とばり様と離れてしまう未来が。


 だって、本当に嬉しかったんです。ただの家政婦である私を、心から求めてくださる言葉は。だから、いつか思い出だけになってしまうことが、想像するだけでつらかったんです。


 今の喜びが大きければ大きいほど、いつか失われることが嫌になってしまう。ただの家政婦である私と、素晴らしい方であるとばり様は、釣り合うには程遠いのに。


 出会ったばかりの私に、とても感謝してくださる。家族のように扱ってくださる。そんな方が、魅力的でないはずがない。ですから、とばり様はもっと素敵な人に出会うはずなんです。


 そうなれば、きっと私なんて忘れ去られてしまう。なのに、私はとばり様から離れようなんて思えない。いつか、傷を深くするだけだと分かっているのに。


 私のような端女など、とばり様の記憶に残るかも怪しい。これから先は、いくらでも人と出会える方なのですから。


 だからこそ、傷の浅いうちに遠ざかってしまえば。なんて考えるのに、実行することを想像しただけで、震えそうになってしまうのです。


 そんな私に、とばり様は追撃をかけてくるのです。私の仕事を褒めてくださって、私の人格を認めてくださる。


 だから、もう自分からは離れられない。きっと、嫌われてしまったとしても。無理やり遠ざけられない限り、どれだけでも傍にいようとしてしまうはずです。


 そのまま朝食をお願いされて、私は全力を込めると決めたのです。とばり様が求めてくださるうちは、全身全霊をかけて尽くすのだと。


 だって、ずっと楽しみにしていたなんて言葉、料理を作っている身としては殺し文句が過ぎるのですから。


 お願いします、とばり様。いつか覚めてしまうのだとしても、夢を見せてください。そうしている限り、私は幸福で居られるのです。


 あなたに捨てられないように、私の全てを懸けますから。ですから、これからもよろしくお願いしますね。

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