第29話 冷たいシーツに包まれて

「すまない、もう寝ていたか」


「いいえ、支度だけ早くしていただけです。今日はアイシャとビアンカのところに泊まるのでは?」


「いや、もう用は済んだ。ミライ、今日も泊めてくれないか?」


「どうぞ中へ」


 道を開けると、ファハドは嬉しそうに白い歯を覗かせ笑う。妻に軽くキスをして手を引き室内へ。まずはソファに腰掛けた。彼はミライを隣に座らせると、懐から酒の入った瓶を出した。


「ミライ、酒は飲めるか?」


「はい、少しなら」


 ファハドが栓を抜き、テーブルにあったグラスに酒を注いだ。二つ用意してから片方をミライに差し出す。


「きれいな色……」


 グラスの中で、赤い液体が揺れている。室内の灯りを映して輝く様が美しく、ミライはうっとりと息を漏らした。


「ルビーベリーという南国の果実で作られた酒だ。ミライの瞳と同じ美しい赤色だろう? 味もいい。飲んでみてくれ」


「はい、いただきます」


 夫の言葉に聞いているこちらが恥ずかしいと思いながら、軽くグラスを合わせて乾杯する。ミライはグラスを傾け鮮やかな赤い酒を口に含んだ。甘さと酸味が調和し、花のように芳醇な香りが広がる。おいしい。他国に出向いていろいろなものを買いつけしてきたが、こんな酒は初めて見た。俄然興味が湧く。


「美味いか?」


「はい、とってもおいしいです。ファハド様は一体これをどこでどうやって手に入れたのですか? 私は貿易の仕事をしておりますが、見たことも聞いたこともありません!」


 興奮したミライは顔をずいっと出して食い入るようにファハドに向かった。彼は困ったように眉を下げ顎を引く。


「ミライ、落ち着いてくれ。公務で行った南のセントルージュ王国で手に入れた。友人がいて結婚することを伝えたら『祝いに』と言ってこれをくれたんだ」


「そうなのですか」


 ミライは息を吐き口を尖らせた。南国セントルージュには行ったことがあるが、見たこともない酒だった。仕入れの契約ができれば需要はありそうだと、つい勘定してしまう。そんな妻の考えに気づいたのか、ファハドが肩をすくめた。


「希少なものらしい。商売するほどはないぞ?」


「そ、そうですか……。申し訳ありません、つい仕事のことを考える癖がついていまして」


 軽く頭を下げると、夫は肩を寄せ頬にキスをした。彼は黒い瞳を細めてニコニコと笑っている。ミライはからかわれているのかと恥ずかしくなり、さっと目をそらした。


「そうやって、ずっとがむしゃらに働いてきたのだな。尊敬する」


「ありがとうございます」


「仕事に対して誠実でまっすぐなところも好きだ。早く俺にもその気持ちが向いて欲しいものだな」


「ど、努力はします……」


 気まずくなったミライはグラスに残った酒を勢いよく飲み干した。そして軽く酔いが覚めるまで、優しく髪の毛を撫でてくれるファハドに体を預けていた。


「気がついたらこんな時間か。遅くにすまなかったな。おやすみミライ」


「おやすみなさい、ファハド様」


 二人でベッドに入り、ミライはファハドからのキスを違和感なく受け止め彼の腕の中で温もりと安らぎを感じながら眠りについた。


 そして翌日の夜。ミライはひとり自室でくつろいでいた。今日もアイシャとビアンカの元に行くと言っていた夫が、また寝る間際にやってくるかもしれない。そわそわしながらテーブルにグラスや葡萄酒などを用意しておく。髪の毛は念入りにといた。


 しかし、その日は深夜になっても扉を叩く音は聞こえなかった。息を吐きソファからベッドに移動する。目を瞑り、数日前に彼に言われた言葉を思い出す。彼は自分の隣以外では眠れないのだと思っていた。それは間違いだったようだ。


「そういえば、私とは言っていなかったわね……」


 一人で潜り込んだベッドは、ひんやりと冷えていて、昨日まであった温もりが嘘のようだった。ミライは冷えるつま先を守るように、膝をかかえて目を閉じた。


>>続く

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