第26話 妻になる日

 一段、また一段と階段を上がるたびに胸の鼓動が大きく響く。手がじんわりと汗ばむ。自分の部屋が近づくにつれ、ミライの緊張は増していく。歩幅を変えずに歩くピエールの規則正しい足音が、眠れぬ夜に聞く時計の秒針のように思えた。


「お待たせいたしました。こちらがミライ様のお部屋でございます」


「ありがとう」


 三階ホールの左側の廊下を歩き、突き当たりにミライの部屋はあった。すぐ隣にもう一つ扉があったので視線を向けると、ピエールが扉を開けて淡々と説明する。


「こちらはミライ様の書斎です。もし今後も仕事を続けるのでしたら、ぜひお使いください」


「素敵ね。使わせてもらうわ」


 ミライは書棚や机などが揃ったシンプルな室内を見て嬉しくなった。実は仕事は頼んで続けさせてもらおうと思っていたのだ。この部屋であれば余計なものが視界に入らず集中できそうだ。無意識に口角が上がる。


「気に入っていただけて何よりです。書斎も私室もファハド様の指示で用意しております。本日はごゆっくりお過ごしください」


 一瞬笑顔を浮かべ、ピエールが丁寧に腰を折り、挨拶をして去っていった。残されたのは自分と夫だけ。意識せずにはいられない。


「ミライ、部屋に入ろう」


「はい、ファハド様」


 背後から肩を抱かれ、ミライはびくりと小さく跳ねて反応した。直後にファハドが耳元で囁く。かかる息が熱い。覚悟を決め、静かに頷いた。そして部屋の扉に手をかけた。


「これは……」


 以前ミライが希望したように、白や茶色を基調とした飾り気の少ない落ち着いた空間となっていた。室内には酒やグラスが用意されており、花が飾られている。ベッドの付近には香が焚かれていた。さらに蝋燭の灯りがゆらゆらと揺れて幻惑的な空間となっている。


「今日は特別に用意させた。気に入ったか?」


「はい」


 ファハドの言葉に返事をして振り返る。彼の後ろで扉が閉まるのと同時に、ミライは抱き寄せられ、唇が重なった。触れ合っていたのはほんのわずかな時間だった。だが目の前の男は自分を求めているのだと自覚するには十分だった。


 唇が離れたと一息つけば、今度は体がふわりと浮く。夫に抱き上げられ、室内奥へ進んだ。降ろされた場所は柔らかく、腰が沈んでいく。背もたれがないのでミライの上体は後ろに倒れた。自分を覆うような姿勢で重なるファハドを見て、ここがベッドの上だと気づく。


「気の優しい男なら、ここで『君の気持ちが俺に向くまで待つ』などと言うのだろうな。だが、俺は違う」


「ファハド様」


 もう逃げられない。覚悟を決めるしかない。ミライはごくりと唾を飲んだ。ファハドの手が髪を撫で頬を包む。身を固める妻に、彼は苦笑して軽くキスをする。


「欲しいものは必ず手にいれる。ミライのこともそうだ。チャンスは逃さない」


 頬にあった手がするりと首筋を滑り、息を漏らす。私は彼の妻になるのだ。これから飛び込む知らない世界。ほんの少し臆病風が吹き、思わず夫の服を掴み縋りついた。


「ミライ、愛している」


 熱ごもった吐息が混じる愛の言葉。切なくなるほどに甘い視線。優しく触れてくる大きな手。ミライは求められるままに口づけに応え、指を絡ませ、「愛している」と繰り返すファハドに身を任せた。


>>続く

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