月を喰う蟲

星見守灯也

月を喰う蟲

 昨日は恐れを、今日は幻を、そして明日は憧れを。

 子どもに厳しさを、大人に共感を、そして狂人に安らぎを。

 月には豊穣と死のイメージがつき纏う。




〈一〉


 彼女は奇妙な人だった。

 彼女は高校三年のときの同級生だった。それ以前の彼女は知らない。そして卒業から一年と経たないというのに、彼女の名前も顔も思い出せなくなっている。

 その頃の僕は人を観察することに夢中になっていた。自分の周りに見えない壁を築き、安全な場所から彼らを観察することがこの上なく楽しかった。

 おそらく、得られる優越感に酔っていたのだろうと思う。彼らと隔離された空間の中において、僕は神でいられたのだから。つまらない日常を面白く演出するために、人が人を演じる中、僕だけは観客なのだと信じていたのだ。

 しかし、こうして人を観察していても、ある特定の人物に執着することはまったくなかったのである。それというのも僕の関心は人と人の間に流れるものに向けられていて、人そのものに興味は湧かなかったからだ。

 その中で僕が唯一、個として認めたのが彼女だった。

 学年の初め、僕は檻に入ったハツカネズミたちを見分けることができなかったのだが、夏休みの終わった頃からか、ある一匹を続けて観察するようになっていた。

 それはやはり、本来人に向けられるべき感情ではなく、おそらく研究用に飼っているネズミのうちの一匹に目をつけた、という類のものであっただろう。

 そうして観察することに飽いてきた僕は、直接、あるいは間接的に揺さぶりをかけ、彼女の反応を見る、といった実験もした。

 その際僕は多くのノートを取ったのだが、引っ越しのときに失くしてしまったことが悔やまれる。そのせいで、僕の彼女自身に関する記憶は、奇妙な女ということ以外ほとんど存在しない。


 ただ、あの日、そしてあの夜のことははっきり覚えている。

 あの日も彼女は一人、席に着いていた。その横で、これもいつものように女子の最大派閥が彼女を話題にしていた。上手く言葉を選びながら、明らかに彼女を罵っていたのだが、彼女はそれに気がついていないか、そうでなければそれが悪口だということを知らないように見えた。

 だが、その日になって初めてそれが侮蔑の色を帯びているのだと気づいた。

 一体いつからだったのだろうか。彼女がこのような表情をするようになったのは。表に表れることなく、常に内で燻っているものであれば、それは途轍もなく大きなものに違いなかった。

僕は恐れた。

 彼女は僕と同い年であり、檻の内にいる他のハツカネズミたちとどれほどの差があるというのだろう。それを分かっていてなお僕は恐怖せずにいられなかったのである。

 ただ、このときの僕は、なぜ自分が恐怖したのか理解できずにいた。

 その日の夜、部活で遅くなった僕は教室へ向かった。忘れ物をしたのか、それとも他に何か用があったのかは覚えていない。

 教室を出ようとしたとき、窓越しの月光に僕はそれを見つけた。

 いや、正確にいうならば、僕は彼女の机を漁ったのだ。一冊のノート、赤い表紙のそれは、教科書類に埋もれてはいたが、思いの外たやすく見つけられた。彼女がこのノートに書き込んでいるのを、僕は何度も目撃している。

 そうして僕はノートを開いた。 

 丁寧な文字、多少流れた文字、書き殴ったのだろう文字たちの間に、彼女は存在していた。彼女のこの五年あまりの姿がそこにあった。

 なるほど、それは僕が期待した通りのものだった。傲慢さ、薄情さ……そしてそれを人に知られまいとする小心さ。そこに書かれていた彼女は、僕の観察の通りの人であった。

 恨み辛みを書き綴った醜い文章。自己反省もあれば、ほとんど呪詛に近いものもある。そして、汚らわしく深い闇から生まれた蟲に絶え間なく喰われてゆく様子が書かれていた。

 それを目の当たりにして、僕は密かに喜んでいた。

 人の心の深淵を見、捕まえたつもりで有頂天だったのだろう。背に一本の氷の糸が張られたような、あるいは仄暗い底から舞い上がってくる澱がその蟲に変わり、身体のありとあらゆる孔から侵入してくるような感覚の中、僕は歓喜に打ち震えていた。


 しかしこのとき、僕は月を見てしまった。

 あらゆるものを飲み込もうとする、紅く奇妙に大きい立体的な月。気の遠くなるほどに暗い、おぞましくも美しい月を。

 僕は再び恐怖を覚えた。あらゆる思考が一瞬にして砕けるほどに。

 それはまるで、被告人が起訴状を提示されるときのような、深い闇の奥に鏡を見てしまったときのような、そんな恐ろしさであった。おそらく、僕が人を観察するようになる以前、心にずっと抱いていた恐怖でもあった。


 その後、どうやって家に辿り着いたのか。

 しかし、僕の周りの全ては、この日の前と後でまったく変わっていないように見えた。

 事実、ネズミたちは変わらずにそこにいた。檻が壊れたことさえ知らずに。その中に一匹だけ異質なものがいたことに、彼らは気づいていたのだろうか。

 その日から、彼女は楽しそうに笑うようになった。

 あの女子たちとも、いつのまにか打ち解けていた。勉強も運動も、彼女にかなう者はいなくなった。先生方の受けもよく、彼女と話す人間は増え、いつでも彼女は人の中にいた。その様子は、全てが彼女を中心に回っているようでもあった。

 彼女は変わった。そう、まるで別人のように――。

はたして、そんなことがあるだろうか。

 言うなれば、あの頃の彼女は不自然なくらい完璧すぎた。

 例えば、完全な造花の方が、実際の花はどこか不完全な形であるにも関わらず、僕たちの目にはより美しく見えてしまう。そうではなかったのか。

 そして今に至る。

 今になって思うことには、それが自分のものにしても他人のものにしても、深淵を覗き込んだとき、その深淵もこちらを見つめていたのだ。


 彼女は卒業と共に姿を消し、僕は大学に行くため地元を離れた。

 時折当時の知り合いから声がかかり、一緒に出かけたりもするのだが、僕がそれとなく尋ねると、皆そのような女は知らないと言う。

彼女は確かに存在した。これは僕が半年以上観察していたのだから確かである。

けれども、僕は未だに卒業アルバムを開くことができずにいる。




〈二〉


 久しぶりの母校だが、大分変わったように見える。指導教諭は、君が変わったんだ、ここはそう変わることはない、と言うのだが。

 確かにそうかもしれない。自分がこの中にいたときは、この空間や時間の感じ方を異様なことだと意識したことはなかったのだから。時折奇妙に思ったとしても、周囲の同じ動きを見て安心してしまっていた。

 しかし、授業を受ける側ともする側とも違う、それでいて間近から眺められる位置にいると、切にそう感じられる。それは、脱ぎ捨てようとしている子どもや、まだなりきれていない大人への感傷というものなのかもしれない。

 廊下を見れば、多くの生徒がやってきては通り過ぎてゆく。人見知りしない、人懐こい笑顔をこちらに向けて。変わらない人間たちの中で、異質な私が珍しいのだろう。昔、女子の前を通ったときのあのクスクス笑いが懐かしくもある。

 まったく異質な年頃なのだ。まだ子どもだと侮っていると大人の顔を覗かせ、大人として扱うには子ども過ぎて。大人の責任は与えられないけれど、子どもの自由もない。私もこうだったのだろうか。あまり実感が湧かない。

 長い年月を、この校舎は見てきたのだ、とふと考える。

 ほとんどが十代後半の、それもたった三年間を。

 私は勿論、母にも父にもこの年の頃はあって、祖父母にだってあっただろうに、それが不思議でならない。一生のうちのほんの一瞬の、しかし無限の力を持ったものが、この冷たい壁の内に詰まっているというのは。


 ペンを走らせていると、出入りする生徒のおしゃべりが自然耳に入ってくる。彼らが口を開くたびに、言葉が生まれては宙に浮かんで忘れられていく。

 それらを聞き流していてふと、おや、と思った。

 あの声は、記憶にある。

 彼女の声だ。忘れるはずがない。彼女の声は小さく、喉にかかった声だったのに、ひどく心に残る声をしていた。

 まさか、とは思ったが私はもう席を立っていた。追いかけて、呼び止めようとして。

 そこには誰もいなかった。先程の喧しさが嘘のように、誰も。

 どうして彼女だと思ったのだろう。私と同い年で今はもう遠い町にいるというのに。

 そういえば、あの頃廊下ですれ違う大勢の中には、時折見知らぬ顔が混じっていた気がする。


 そんなことを思いながら一日が終わり、ふと夜の音に耳を澄ますと、退屈している自分がいることに気づく。

 明日になればまた同じことが繰り返される。そして、昔はよかった、と思うのだろう。昔に帰ることなどできないし、再び昔のような毎日が訪れることもない。ただ、時計の針がゆっくりと、しかし確実に進んでいくように、時が流れる中にいる。

 生徒をはき出した、人がいない廊下の先には闇が待っていた。

 窓ガラスに映った自分の影にぎくりとさせられる。いつも人で満たされていると思われている場所に、自分しかいないというのは奇妙なことだ。職員室には未だ多くの人がいるが、私はその群れの中から離れていこうとしている。

 ガラス越しの月光に気がつき、歩みを止めた。

 完全に影に入った月が、暗く照り輝く月が手招きをしている。溢れる闇に全てが沈んでいく。切り絵のような山も、向こうの電信柱も、そこの道路も、そしてここにいる人間も。

 月はいつもの陰惨さを潜め、急に自己主張を始めたようだった。どこか遠い場所から、私はそれを眺めていた。

 闇から出で来た蟲が寄り集まると、彼女の姿を形作った。その丹い唇が、私の名の形に動く。彼女はまだこんなところにいたのか。喉を震わせそれに答えようとして。

 彼女が呼んだのが自分でないことに気づいた。

 未だ十七のままの彼女が呼んだのは、彼女と同じ年の私だった。

 そこには私と、彼女、そして全ての人々が、いた。最初は透明に、次第に輪郭を持ち、骨を得、肉を得、皮を得、血が通っていく。

 周りの闇さえ飲もうとしているような朱い塊の下、あの頃の私たちがそこに生きていた。

 三年という年月を、たった一瞬に縮めて。

 まるで、完成された巨大な絵の前に立っているかのようだ。鮮やかに描かれた、平凡な学校と人々。それらが周りの風景と完全に溶け合い、全てがあるべき場所に収まっている。私も彼女もその一部に過ぎなくて、しかし紛れもなくその一部として存在していた。

 何も言わずにこちらを見ずに、彼らは彼らの世界に立っていた。

 それは寂れた町を歩くとき、ふとした瞬間に、今は遠いその町のもっとも栄えていた頃の光景がうっすら重なって見えるときが、ある。あれらは、たぶんそれに近いものなのだ。

 そしてそんな思いを巡らすときは、時の流れは途切れてしまう。


 白い光が月に満ちてゆく。異様な赭みを払った月の下で、かつての私たちは色を失っていき、埃の積もった帳の向こうへと去っていった。

 全てが再び物憂げな闇の底へと蟲となって沈んでゆく。

 ほんの僅かの、寂しさを残して。

 他人を否定することでしか自己を確立できなかった、なにもかもがこの手にありそうな気がしていたあの頃。卒業して何年と経っていないのに、過去は断絶された向こう側にある。

 そうしていつのまにか近く遠い仲間たちと大きく隔たってしまった。

 でも悲しくはなかった。今の彼らもそう思うときがくるのだろうし、彼らが私より多くのものを持っていたとして、全てが実現できないまま持っているのは、辛い。

 それでも火災などで焼きつけられた人影のように、強い力でこの校舎に焼きついたものは、簡単には拭えない。もしかしたら、永遠に焼きついてしまうのかもしれない。

 月は慈しんでいる。人生の長さに埋もれた、緋い焔のような三年間を。そして時々取り出しては眺めているのだ。

 私はそう思うことにした。




〈三〉


 ふと目が覚めた。

 ここがどこであるのか、俄には判断がつかなかった。未だ夢の中のような気さえする。

 どうしてこんなに薄暗いのだ。どうしてこんなに寒いのだ。まったく、どうしたというのだ俺は。

 神を求めるよう空を仰ぐと、がらんとした数億光年の広がりを持った空に、月が間抜けに浮いているのが見えた。空は、あまりにも遠すぎた。

 人に誹られるのは痛く、憎まれるのは苦しい。しかし、そう思われているのだと想像することは悲しく、自分が役に立たないと自覚するのは辛い。

 いつか大きな壁にぶつかると思っていた。惰性のままに生きてきた生活がいつか破綻を迎え、いやでも壁に向かわざるを得ない。そんな時が来ると思っていた。

 しかし今、俺の眼前に広がるのはいつもと同じ街並み。――街並み?

 時間は定かではない。しかしそこは確かに、見覚えのある俺の街。

 なんだ、驚かすなよ。ようやく息をついて家に帰るべく歩き出した。


 あるいは、全て月天の見る夢に過ぎない。


 何かが聞こえた気がして振り返った。通り過ぎてきた道の両側に、建物が整然と並んでいる。動くものは何もない、光のない箱庭のような、街。変わりのない姿。

 いや、変わらなさすぎる。このような街はかつて見たことがなかった。

 分別を無くしたような夜の重い空気に立ち尽くす。

 いつからか、内から蟲に喰われていくような感覚があった。自らの内の闇から出で来て、僅かに残った光を喰い荒らしていく。寄生主を殺さないためか、神経は残されて、常に喰われている感覚があるのにどうしようもない。


 殺された男の血が虹になり、眼は星になり、そして頭は月となった。


 再び歩き出す。一刻も早く自分の家に、俺の居場所に辿り着けることを願いながら。

 おかしい。こんなに遠かっただろうか。え? ……俺の家は、どこだ?

 俺は何かに急かされるように走った。何かが噛み合っていないような違和感が、ある。

 ここにいてはならない。でも、ここから出ることもできない。

 いつか崩れるような、明日起きれば無くなっているような、それでもまったく変わらずに続いていくような世界が複雑に絡み合う。


 月は今ここにある者であり、嘗て居た者であり、未だ来ない者である。


 うたが聞こえる。誰の?

 それは、円周率のような旋律だった。

 はっと辺りを見回す。三階建ての校舎、その屋上に彼女は居た。先程より質量を増した満月を背にし、逆光であるにも関わらず、それは確かに彼女だと判った。

 俺は急に懐かしさとも恋しさともいえないものにとりつかれその錆びた鉄門を越えた。


 死者の魂は月に昇り、月を満たし月を送る。死者の魂は太陽に運ばれ燃える。

 ただし、絳い月の夜は特別な魂が昇る夜。月を見、月に魅入られた者の死を弔う夜。


 彼女は歌っていた。いや、詩っていた。それは次々と言葉を紡ぎあげ、適当に思いついた節をつけ即興でうたいあげる。そんな感じだった。

 そういえば、誰かが言っていた。人は、詩をうたうことで神になる、と。

 屋上への扉は呆気なく開き、風と共にうたが吹き込んでくる。彼女の詩が俺の耳に押し入り、亀裂を広げて入り込み、浸食されてゆく。

 彼女はコンクリートと空の境に立っていた。それは現実にあり得ないようで、ごく自然に居た。

 ああ、死霊のように空を見つめる彼女の目には、一体何が見えているのだろうか。

 俺には、およそ予測することすらできないのだ。例えば海の底の異形の魚が、光のある世界を知らないように。

 では彼らも、遠く窺い知ることのできない世界を思うことがあるのだろうか。

 だめだ。俺はまだ信じていたいのだ。それが嘘であったとして、自分が今、ここにあるのだという推測を。

 しかし俺は何かに引き寄せられるかのように、彼女の方へと歩き出していた。重い足も身体も、自分のものではないように思われる。

 側まで来て俺は立ちすくんだ。彼女が、殷い匂いを放っていたからだ。鉄を含んだ、暗く、甘い、腐る寸前の果実のような……。

 彼女は無言で下を指し示した。俺は自然とその先を追った。


 それは長いこと俺を取り巻いていて、決して隣に並ぶことのないものだった。

 闇。深い闇。黒く鮮やかな闇。

 否、闇さえもない。

 唯一俺が理解したのは、ここには何もないということ。

 現世の間隙に落ち込んだ者の行く末は。

 闇の底から湧き上がった蟲は、光を目指し、それを喰らう。

 心に残った一片の光は、蟲に喰われて赫い血を流す。


 居場所などあるはずがない。

 人は月を見つめすぎると、湧き出た蟲に喰われて狂うのだから。


 振り返ると、そこに彼女の顔はなかった。

 あるのは光の血痕をつけた衣を厚く纏った、赤銅鉱で自身を飾った。


 月の微笑。

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