25. 浴場での告白
侯爵家別邸――その一部屋をあてがわれた僕は、ある書物を手に唸っていた。
「ぐむむ……っ」
本の名前は、夜伽の技・四十八手というもの。
およそ百ページ余りの本に、余すことなく性交体位の数々が載せられていて、僕は顔を熱くしながらそれらを読みふけっていた。
もちろん自分のために読んでいるわけじゃない。
対エゼキエル侯爵のために、それらの情報を頭に叩き込んでいるのだ。
……正直、地獄だ。
「はぁ。ダメだ……吐き気がしてくる」
「そんなこと言っちゃダメですよ! 対価をいただく立派なお仕事なんですから、真面目に取り組まないと!」
「それはわかってるんだけどさぁ~」
机の上に置かれたマリーが言いたい放題言ってくる。
他人事だからそんなことが言えるんだぞ……。
「たしかに、美少女型人形に夜伽を要求するような変態紳士かもしれませんが、仮にも侯爵閣下はセレステの英雄でもあるんです。英雄、色を好むとも言いますし、ここは覚悟を決めて全霊を尽くして差し上げましょう!」
「無茶言うなよ! 相手が女性ならまだしも、男なんだぞ。僕も男だ。いくら人形を介するからと言って、それがどういう意味かわかるだろ……」
そもそも、つい最近
とは言え、今さら無理ですとは言えない。
豪勢な夕食もいただいたし、部屋もあてがってもらったし、僕とシャナクの服まで新調してもらってしまった。
挙句、大通りの宿からデクを持ってきて、本邸への同行も許してくれたし。
至れり尽くせりの状況で、僕はもうヨアキムさんに頭が上がらない。
たった二週間の給料が破格なわけだ……。
「隣のお部屋で実践してきたらどうです?」
「はぁ!?」
「ご主人様にはシャナク様がいるじゃないですか。体位の研究などし放題でしょう」
「あのなぁ……っ」
マリーが悪戯っぽい笑みを浮かべている。
こいつ、何がそんなに楽しいんだ!
その時、コンコンと部屋のドアがノックされた。
僕はまさかと思ってドアを凝視してしまう。
「ネイト様。浴場の準備が整いましたので、お知らせいたします」
「あ、ありがとう」
「よろしければご案内しますが?」
「えぇっと、今ちょっとやることがあって。あとで使わせてもらいます」
「承知しました。必要があれば、わたくしどもにお声がけください」
……びっくりした。
シャナクかと思って身構えてしまった。
廊下で話していたのはメイドさんだな。
風呂の準備ができたから、声を掛けにきてくれたらしい。
「今、シャナク様が来たと思ったでしょ?」
「うるさいなっ」
「今さら部屋を分けてもらう必要なんてあります?」
「いいんだよ! 夫婦でもない男女が同じ部屋に寝泊まりなんて、非常識だろっ」
「あら? でも私は――」
「お前は人形! シャナクは人間! ……死体だけれどっ」
……頭が痛くなってきた。
モンスター討伐よりも不安に思う依頼なんて初めてだ。
でも、マリーの言う通り、やると言ったからには覚悟を決めるしかない。
そうだ。逆に考えてみよう。
もしもこの仕事を無難に乗り越えられたら、何か褒美を貰えるかもしれない。
例えば――侯爵に取り入って、彼の盟友である軍将経由で闇市の接収品なんかを閲覧する機会が得られるかも。
そうなれば、僕が求めていたギフトの効力を高める
やはり死力を尽くしてやり遂げるしかないか……。
シャナクのためにも。
魔王討伐を果たすためにも。
「でも、やっぱり気が進まないんだよなぁ~~~」
「まったくもうっ。お風呂に入って頭をスッキリさせてきたらどうです!」
「そうするよ……」
ゆっくりと風呂にでも浸かれば、前向きな気持ちになれるかもしれない。
僕はデクに替えの着替えを持たせて部屋を出た。
◇
別邸とは言え、さすが侯爵家のお屋敷だけあって浴場は豪勢だった――
広い浴場にどっしりと構える大理石の浴槽。
壁に彫刻されたライオン像の口から流れ落ちるお湯。
穏やかな心地になるハーブの香り。
さらに、僕の体に気を利かせて上級薬草が浮かぶ湯面。
――これが事実上、僕だけの貸し切り状態。
まるで貴族令息になった気分だ。
「はぁ~。生き返るとはこのことだなぁ」
浴槽に浸かってすぐ、僕は全身の疲れが癒されていくのを感じる。
こんな気持ちのいい湯に浸かったのは生まれて初めて。
ずっと侯爵家にお仕えしてもいいかも、と思ってしまう。
眠気すら誘ってくる心地の中、僕の耳に入り口の扉が開く音が聞こえた。
……誰だ?
もしやヨアキムさんや他の使用人が入ってきたのか。
でも、この浴場は客人専用だってメイドさんが言っていたけれど。
気になって入り口の方に目を向けてみると、湯気の立ち込める先に人影が現れて、こちらに近づいてくるのが見えた。
誰か来る。
ずいぶん線の細い体だな。
ヨアキムさんや、屋敷で見かけた執事達じゃなさそうだ。
あれはもしや……女性!?
「マリオ様」
「うわあああぁぁっ! しゃ、シャナクッ!?」
湯気から姿を現したのは、一糸まとわぬ姿のシャナクだった。
しかも、その表情はほんのりと赤らんでいる。
「お背中、お流しします」
「あえっ!?」
「いつぞや、そう約束しましたから」
「約束……? 約束……っ」
……そんな話したっけ?
でも、約束か。
約束なら……仕方がないな。
僕は浴槽から上がって、シャワーの前で彼女に背中を預けた。
「……っ」
思いがけない状況に、ちょっと体が強張っている。
シャナクは濡れたタオルに石鹸をこすりつけ、泡立ったところで僕の背中を拭き始めた。
思えば、誰かに背中を流してもらうなんて初めてだ。
「マリオ様のお背中、しっかりと見るのは初めてです」
「はは。頼りない小さな背中だろう」
「いいえ。温かくて、ホッとする背中です」
シャナクが手を止めて僕の背中に寄り添ってきた。
とてつもなく柔らかいものが二つ、僕の背中に当たっている。
その弾力を感じて、僕は体が熱くなってきた。
しばらくの間、シャナクに背中を預けたままの時間が流れた。
……無言が気まずい。
僕は何か話さなければと、思いついた話題を口にした。
「い、今はもう、寒くはないのかい?」
「夜は少し。でも、布団にくるまれば耐えられます」
「やっぱり寒いのか」
「はい。でも、あなたを想うことで……その寒さも薄まるのです」
日頃の態度といい、シャナクは初めて出会った頃とはもう別人だ。
多少体温は低くて顔色も良いとは言えないけれど、その言動はすっかり人間そのもの。
とても死体とは思えない。
その事実を忘れてしまうほど、人間らしい振る舞いをしている。
「私がマリオ様と出会うことは運命だったのかもしれません」
「運命? そんな大層なものかな……」
「あなたが現れなければ、私はずっと冷たい棺の中に独りぼっちでした。今、あなたの旅にご一緒できることが嬉しいのです」
「僕はきみの安らかな眠りを妨げただけかもしれない。きみが僕をそこまで想ってくれるのだって、〝
「違います!」
シャナクに抱きしめられた。
二つの膨らみがより一層強く背中へと押し付けられ、彼女の細い腕が僕の胸元で交差する。
肩に乗る彼女の顔は、恥ずかしそうに耳まで真っ赤に染まっていた。
それを見て、僕も顔が熱くなってくる。
もちろん熱いのは顔だけじゃない。
「私のこの気持ちは、純粋なものです。ギフトなんて関係ありません」
「そうかな……」
「こんな私を見つけてくれた。暗闇から連れ出してくれた。共に戦うように言ってくれた。ずっと望んでいたことを、あなたがしてくれて……私の心は熱を取り戻したんです」
「シャナク……」
「
「今はよく眠れているの?」
「はい。眠りにつくのはずっと怖かったけれど、今はもう怖くはありません。あなたの夢を見ることを願いながら、目を閉じることができるようになったから」
「そ、そこまで言われると恥ずかしいなっ」
突然の告白で心臓が跳ねるように動きだした。
とてもじゃないけれど、この状況には耐えられない。
「体が冷えるし、そろそろ湯に浸かろう!」
「あっ」
僕は前を隠して慌てて立ち上がった。
その時、うかつにも足元にあった石鹸を踏んづけてしまい、僕は盛大にすっ転んだ。
視界に大理石の床が近づいてくる。
ヤバい、顔面衝突、血の海――そんな考えが頭をよぎった瞬間、体がふわりと浮くような感覚を覚えた。
シャナクが抱きとめてくれたのだ。
「マリオ様、大丈夫ですか?」
「あ、ああ……っ」
シャナクの唇が目の前にあるのを見て、またもや体が熱くなる。
さらに目の前には二つの膨らみまで見えるし……。
こりゃ僕の理性が持たない。
さっさと風呂に浸かって、
「浴槽にうおわぁっ!!」
「きゃっ!?」
立ち上がろうとした際、今度は足が滑って倒れてしまった。
しかも、シャナクを押し倒すような形で。
「いたたっ。ごめんシャナク、大丈夫?」
「……はい」
シャナクの体が僕の下にある。
しかも、四つん這いの恰好で彼女の上にいる形で。
大理石の床に身を投げ出したままの彼女は、起き上がる素振りを見せない。
頬を染めたまま、潤んだ瞳で僕を見上げている。
そんな表情をされたら、僕の理性なんて一秒ももたない。
「シャナク」
「マリオ様」
そっと目をつむるシャナク。
僕は彼女と静かに唇を重ねた。
暖かい。
彼女の口からは、確かな温もりを感じた。
そして、その柔らかい肌からも同様に――
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