第3話

「藍衣菜は知ってたの? 河津が蛙化すること」


 階段の裏に連行されるやいなや、美紅は低い声でそう迫ってきた。


「……うん」


 もう隠す必要もないと思ったから、正直にうなずいた。

 美紅はぎりっと唇を噛む。


「なんなのあれ」

「簡単に言うと呪いの一種よ」

「ふざけんな。呪いなんて都市伝説だろ!」


 こちらの冷静な返しに対して、声を荒らげる美紅。


「たしかにはじめはそうだったのかもしれない。でもいまは実際に、……あるわ」


 美紅だって、河津くんの蛙化現象を実際にその目で見たのだ。信じたくなくても、信じざるを得ないはず。その証拠に、顔はまだ険しいけれど、瞳の奥が葛藤に揺れていた。

 わたしは気持ちを落ち着けて、言った。


「河津くんがかけられたのは、嫉妬の呪いなの」

「……嫉妬?」

「ええ」


 そうなのだ。実はあの『蛙化現象』現象のことは、一部の考察班のあいだでは『嫉妬の呪い』ではないかと囁かれている。


 心理学者によって名前を付けられた『蛙化現象』は、若者によって新しい意味を定義付けられ、さらに多くの人に認知された結果、『現象』そのものの力が強まってしまった。

 そこに、相手に幻滅されたことで恋に敗れた者たちの怨念が結びついたことによって、現象は呪いとなった。

 そして、恋愛強者――河津くんのような、俗に言う『モテそうな人』を狙って無差別に呪っているのだ。


 ……という。


 もちろんこれは推測の域を出ない。ちゃんとした検証がされたわけでもなく、因果関係を証明するような、化学的および生物学的根拠は特にない。一部ではいまだにCGではないかと疑われてまでいる、ネットミームの一種にすぎない。


 でもだからこそ、みんなでネタにして面白がって好き勝手な理屈をつけて盛り上がっているのだ。


 そしていまのところ個人的にも、この説がもっとも納得できるものだった。


 と、ここまで説明したところで、美紅はぽかんと口を開けていた。

 立て続けにわたしは尋ねた。


「それで、美紅はどうするの? 別れるの?」

「あたりまえじゃん。彼女とふたりきりになると蛙になる男とか、無理すぎ」


 ふたたび顔を歪めた美紅は、即答した。

 美紅のことだからそうだろうなと思っていた。別に悪いとは思わない。いまの美紅は可愛くてオシャレだから、そういう美紅のことを好きな別の男の子と、すぐいいかんじになれると思うし。

 河津くんにも、きっともっと合う人がいると思うし。


感染うつるの? その呪い」


 美紅が気にしていたのは、そんなことだった。


「さあね」


 ふっと鼻で笑いそうになるのを堪えていると、


「ねぇ藍衣菜。あたし、アンタが羨ましかったんだよ」


 美紅は唐突にそう語り出した。


「中学入ってすぐのことだった。隣のクラスのアンタのこと知ったの。才色兼備の美少女がいるって噂になって」


 珠希や美紅と違って、わたしは親の転勤の都合で、小学校卒業後、中学入学から別の県に移り住んでいた。六年間慣れ親しんだ幼馴染たちとお別れして、新しい土地で新生活を始めたのだ。

 前の学校は、いわゆるお金持ちの家の子が多かった。どこの家庭も教育にもたっぷりお金をかけていて、そのかけたお金のぶんだけ人間に価値があると思っているような……そんな周りの友だちに合わせて、わたしも自然と背伸びした子どもになっていたのだと思う。


「あたし正直、中学の頃はクソダサかったけどさ。都会から来たアンタに憧れて、自分を変えたいって思ったんだよ。けどいつまでたっても、追いつけなかった。髪型も体型もテストの結果も、部活の成績だって、自分と藍衣菜を比べちゃって。そのうち藍衣菜は、須郷すごう先輩と、さもあたりまえみたいに簡単につきあって……」


 須郷先輩とは、中学二年のときわたしに告白してきた、はじめての彼氏のことだ。わたしが原因で、ひと月も続かなかったけれど。

 中学時代の記憶を掘り起こされたわたしは、はっとなる。


 同じく自分自身の記憶を掘り起こしたのだろう、顔を赤くしている美紅。もしかして美紅は、須郷先輩のこと……。


「――それで今度は、河津くんの気をひこうとしたわけね?」


 ため息混じりにわたしが言うと、美紅は言葉を詰まらせた。

 数日前の珠希の言葉が、脳裏に蘇る。


 ――美紅って前からそう。まるで藍衣菜と同じものを、いやそれ以上のものを手に入れないと気が済まないみたい。きっと藍衣菜のことが羨ましいんだ――。


 図星だったのか。

 珠希はさすがだな。

 わたしは全然気づけなかった。

 美紅がわたしに、そんなくだらない嫉妬心を燃やしていたなんて。


 思わず苦笑いを漏らしながら、


「でも残念ながら、あなたのそういった行動にはあまり意味がないわ」

「え?」

「だってわたしほんとうに彼のこと、そういう対象として見ていなかったし」

「なにそれ、余裕アピ? ムカつく……」


 どうしてムカつかれなければいけないのかよくわからない。わたしの好きな人は中学の頃からずっと変わらないし、美紅にとってもそのほうが好都合なはずなのに。


「藍衣菜っていつもそうだよね。なんにも努力しなくてもなんでもできて、冷徹無慈悲な完璧美少女。だから他人の気持ちなんて全然わからない。いまだって、あたしの言葉に心ひとつ動かされてないんでしょ」


 美紅の低い声にはじっとりとした熱がこもる。

 わたしの心は裏腹に、すんと冷めてしまう。


「まあそうね。美紅。あなたの言動は、わたしの心を動かさない。だってわたしの興味関心から絶妙にズレているんだもの」


 ――まさにそう言い終わったときだった。皮膚の表面に湿った膜がじわりと滲んで、たちまち全身が覆われるのを感じた。

 とうとう、来たか。

 が始まったのだ。

 手を見るとすでに変化を始めている。

 おどろきはしなかった。

 だってこれがはじめてではないから。


「河津くんだけじゃないの。わたしも蛙化の呪いにかかっているの。もうずっと前から」


 口のカタチが変わっているなかでしゃべりにくかったが、短めに美紅にカミングアウトする。

 それからぱっと顔の前で手のひらを広げた。びょんと伸びて先端に吸盤を持ち始める指。その隙間に張っていく水掻き。


 美紅は、蛙よりもまんまるに目を見開いたまま、フリーズしていた。

 五秒後、わたしの手の甲が中心から先端に向かってじわじわと、鮮やかな青色に染まり始めた頃、


「え、まじ? は? は????」


 後退りしながら、ようやく声を発する。


「この呪い、発動条件はよくわかっていないのよね。好きな人とふたりきりのときに出やすいらしいけど……いまのこれは、美紅から嫉妬や恨みの感情を直接向けられて、出たんだと思う。ねえ美紅? 美紅はこんなわたしをみてもまだ、わたしに憧れるなんて、羨ましいなんて言える?」


 踏み出した膝の関節が、バネのように大きく曲がる。蛙は後脚が発達しているから、後脚の変形が著しいのだ。


 肩を震わせ、ガチガチと歯を鳴らす美紅。涙目になりながら、大きく顔をゆがめると、


「ぅ、ぇ、……ご、ごめんなさああいっ!」


 身の危険を感じた小動物のように、ダッシュで階段をかけ上って行ってしまった。


 乱れた足音が遠ざかるのと、ちょうど入れ替わるようにして、珠希が階段下に現れた。


「……なんかいま階段ですごい形相した美紅とすれ違ったけど、なにごと?」


 ジャストタイミング。

 会いたい人に会えた喜びにわたしは、文字通りケロリとした顔で、首を横に振った。


「なんでもないわ。おはよう、珠希」

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