第3話 目に見える変化

 ある日の夕方のことだった。

 普段はほとんど鳴ることのない電話に呼ばれ、夕飯の準備をしていた私は早足でリビングへと向かった。


「はい、もしもし」


 電話に出るときの第一声にはいつも悩む。

 けれど咄嗟にでるのは結局これだ。

 子どもの頃は名乗って出るよう教育されていたけれど、昨今は相手がわからぬうちに個人情報を与えるのは避けるべきとの意見が多々聞かれる。

 苗字が業者に知られたところで自分が詐欺に引っかからない自信はまだあるが、これが親との同居となると心配だろう。

 同じ理由で、息子が騙されないとも限らないから、相手がわかるまでは名乗らないことにしているのだが。

 ただ、困るのは相手が業者ではなかった場合だ。

 名乗らないのは失礼だと教育されていた身からすると、申し訳ない気持ちになる。


「あ、私、藤山田中学の坂崎と申しますが、守くんのお母様でいらっしゃいますか?」

「え!? あ、はい、すみませんそうです」


 名乗らないのが失礼な最たる例、息子の担任の先生だ。

 坂崎先生は勝手に慌てる私を華麗にスルーして「今お時間大丈夫ですか?」と定型の確認を挟み、私の返事を得ると「実はですね」と話し始めた。


「今日集金させていただいた教材費なんですが、百円多く入っておりまして、それを守くんに持たせましたので、ご確認ください」

「あら、ごめんなさい! しっかり数えたつもりだったんですけれども。お手数をおかけしてしまってすみません」

「いえ、たまにあることですから。お金のことですので、私のほうからも直接ご連絡させていただきました」

「ご丁寧にありがとうございます。守が帰ってきたら確認します」


 連絡をもらわなかったら知らないままだったかもしれない。

 学校からのお知らせやら何やらがカバンの底で長き眠りについていることが往々にしてあるから。

 時々息子が目の前で「そういえば学校でお知らせのプリント配られたんだっけ」と教科書やノートをあれでもない、これでもないと次々に出すのだが、折り紙で作ったびっくり箱みたいに恐ろしいくらいに綺麗な蛇腹折りになったプリントが飛び出してくることもある。


「はい、なくさずに持って帰ってくれているといいんですが。これくらいの子でもまだ『しっかり家に持って帰る』というだけのことが難しかったりしますからね」

「そうですよねぇ。息子もその一人なので」


 しっかり家に持って帰ってきてそのまままた学校に持っていくのを繰り返していることのほうが断然多いとは思うが。

 親は配られたプリントの全量を把握していないからそう思っているだけかもしれない。

 時々、「ねえ、二者面談日程のお知らせって配られた? 早めに予定を知りたいんだけど」と聞くと、『初メテ聞イタ単語デス』という顔で「え? 何それ?」と返されるなんてことがある。


「ははは、守くんはまだしっかりしているほうですよ」


 そう聞くと中学生の生態が恐ろしくなるが。


「ご家庭でも守くんはそういう感じですか?」


 ちょっとした連絡だと思っていたのだが、意外と話が続く。

 忙しくないのだろうか。

 中学校ともなると先生と話す機会もそうそうないからありがたくはあるのだが、背後の台所が気になる。

 まな板の上で放置されたままの大根が転がって落ちたりはしないか、火は止めたろうかとちらちら台所を確認しながら、『そういう感じ』とはどういう感じだろうと、やや雑なフリにどう答えたものか悩む。


「そうですねえ、最近は成長に目をみはることもありますが、やっぱりまだまだ子どもだなあと思うことのほうが多いでしょうか」

「そうなんですね。このところ明るくなったなという印象なんですが、習い事を始めたとか、何か変わったことでもあったんですか?」

「いえ、別に習い事はしていませんが……」


 なんだかやんわりと尋問を受けているような気分になってきた。

 先生は何かを聞き出そうとしているのだろうか。


「じゃあ、新しい友達でもできたんですかねー」


 カラッと言われたその言葉にドキリとする。

 もしかして、まさか、息子の押し入れに人外が住んでいることがバレている?

 いやそこまで露見していたらこんな平然と探りは入れて来られないだろう。

 学校で誰かが家に帰っていなくて、その子を息子が匿っていると疑われているとか……?


「そう……、みたいです。同じ学校の子ではないんですけど、お互いにいい刺激になっているみたいで、親としても微笑ましく見守っているところなんです」


 うちの押し入れにいるのは家出少女などではありませんよとアピールしたい。

 全然事件性なんてないんですよとアピールしたい。

 露見したら世間が騒然とはなるだろうけれど。


「それはそれは、学外の子との交流はなかなか機会のないことですし、とてもいいですね。守くんには是非、その交友を大事にしてもらいたいです」

「ええ! もちろん! 私も地球代表として恥ずかしくないよう振舞ってほしいと思っています」

「地球……?」


 しまった。普段は使わなすぎる単語をあまりに普段使いしすぎていたせいでスルッと喉から出てしまった。


「目標は大きく! ですよね、先生!」

「ハハ、そうですね。グローバルな目線を育てることはとてもいいことだと思います。相手のお友達は外国から来た方なんですか?」


 墓穴を掘った。


「そうですね」


 嘘はつけない。だが外国は外国だろう。日本に住んでいたわけではないのだから。

 これ以上余計なことを言うのはやめよう。

 急にすんと口を閉ざした私に戸惑うように、先生は再び「ハハ」と軽い笑いを挟むと、うんうんと自分に言い聞かせるように相槌を打った。


「とにかく、守くんが新しい交友関係を持てているのならよかったです。他に変わったことはありませんか?」

「え? ええと――」


 いやに聞いてくるが、「毎日予想のつかないことばかりです」などと言えるわけもない。

「へえ? どんな?」と聞かれても、「ボカロP『ノヴァ』と妄想クッキング発信者『黒檀』の影のプロデューサーなどなど毎日忙しく刺激的で充実した日々を送っているようです」などとは口が滑っても言えないのだから。


「特にはありません」

「いえ、せっかくお話しさせていただいた機会に何かあればと思いまして。変わりないようでしたらよかったです」


 思わず詰問に答える生徒みたいな口調になってしまったが、先生はあっさりと話を締めると、ではまた何かあればと言いながらお決まりの挨拶をして電話を切った。

 何だったのだろう。

 電話をしたついでに家庭での様子を伺おうとしただけなのだろうけれど、なんとなく引っかかった。

 しかし、どう考えても私の挙動不審ぶりのほうが目立っていた。

 後ろめたいことがあるゆえに過剰反応してしまったのだろう。

 その気まずさを和ますために会話を試みてくれていただけかもしれない。

 そう思い、受話器を置くと、まな板の上で寝転がったままの大根の元へと戻った。


 今日はぶり大根だ。

 息子の好物ではない。

 だが肉ばかりはよくない。DHAは頭もよくなると言うし、好き嫌いしないで食べなさいね、という反論を用意しながら、たまには私が食べたいがための調理を再開した。


     ◇


「ヨガってさ、効くのかな」

「効く、とは……何に?」


 ぶり大根をつつきながらの唐突な息子の質問に、私は箸を休めず問い返した。

 自画自賛したいほど美味しくできた。

 下処理をしっかりして、じっくりことこと手間暇をかけただけのことはある。

 これなら明日残っていて三食続いても大歓迎だ。

 いや、やはり飽きるか。


「うーん。自律神経を整える、とか? なんかこう、落ち着きがあって余裕を振りまくほど余裕がある人がやってるイメージじゃん? 毎日やったらあんな感じになるのかな」

「さあ、余裕を振りまけるかどうかは人によるだろうけど、自律神経を整えるとか体がほぐれるとか、そういうのは効果がありそうよね」

「そっかあ。あれって男の人でもできるの? 女の人のイメージが強いんだけど」

「男女関係ないんじゃない? たしかにインストラクターの先生は女の人が多いかもしれないけど」

「男のほうが体が固いからかなあ」

「確かに体のつくりから言うとその動きのしやすさっていうのは違いがあるだろうけど。股関節の可動域とかね。だとしても、芸術点を競ってるわけでもないんだし、心身の健康が目的なんだったら、自分の体が動く範囲でやればいいんじゃない?」

「目的かあ……。なるほどねー」


 何がなるほどなのかはさっぱりわからなかったが、息子は納得したのか再びぶり大根を食べ始めた。


 その日の夜。

 風呂上りの息子の部屋からヒーリングミュージックとでもいうのか、三秒で眠りに引っ張り込まれそうな音楽がかすかに聞こえてきた。

 ノイバスティと共にヨガをすることにしたのかもしれない。

 ノイバスティの体にほぐすべき筋肉はあるのだろうかと気になったが、そこは触れないでおこう。


     ◇


 またある日のこと。

 息子が学校に行っている間に掃除機をかけるため部屋の扉を開けるとぶらりと何かが垂れ下がってきて、「わあ゛」と低い声が出てしまった。


「なにこれ……?」


 思わず膝をついてへたり込み、振り返って見上げ、再び「えぇ?」と声を上げた。

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